海崎たま

つかのまは薔薇いろの煙たちしが

たちまちに常のごとすきとほり

清げにも海はのこりぬ(ポール・ヴァレリー)



 俺があいつの詩を憎むのは、肉体とか身体性といったものへの忌避そのものである。あいつらはすぐに裏切る。俺の妹も死んだ。薔薇の花なぞいらなかった。来ない客だけが愛しかった。

 滅びた肉体に裏切られた俺の妹は毎晩夢の中で手を握ってくれたのだけれど、しかしそれは俺が妹の手を無理やり掴んで離さなかっただけのことなのかもしれない。俺は起きて、泣きながらあいつの詩集のページを全てナイフで引き裂いた。刃が折れ、本から血が流れた。怯むな。まだ足りぬはず。誰の体にも流れているものを恐れてたまるか。さらにいっそうこの憎しみを確かなものとせよ。

 俺は妹の名を呼んだ。あいつの詩に詠われたせいで死んだ、妹の名を叫んだ。それが俺の唯一知っている詩で、本当に歌いたかった幼き日の歌だった。だから俺はやはり、あいつの詩が今でも憎くてしょうがない。

 おお、妹よ。妹よ。しかし俺の詩が真実、本物の詩であるならば、死んだ妹の名前は、ほんとうはひらがなであるはずだった。



 怖いもの。

 よく研いだ包丁。重たいはさみ

 真っ赤に燃える馬。水晶。時計の針。の下の闇の薄暗き。

 隣人。子供の。言わずもがな夜のとばり

 冬の日の口づけ。蜘蛛くもの脚。新月の尖った切先。うお剃刀かみそり。濡れた鏡。

 怖いもの、たくさん。他にも、あなた、思いつく?

 私は昔から、   が一番怖かった。



 肉体は悲し、

 ああ、我はすべての書を読みぬ、

 遁れむ、彼処に遁れむ。

 未知の泡沫と天空のさなかにありて

 群鳥むれどりの酔ひしれたるを、我は知る。(マラルメ)



 俺は肉体を憎む。身体を厭う。

 軀にまつわる形而下の汚穢おわい全てをむ。

 あいつらはすぐに裏切る。俺の妹は死んだ。それは言い換えるなら、肉体のくびきから解き放たれる必要があったということに他ならない。

 では、肉体が無ければ、妹は死なずに済んだのか?

 滅びた肉体に裏切られたあいつは、夜毎よごと夢の中で俺の手を握ってくれた。俺は毎晩、夢の中であいつの手を握りしめていた。眠るのが怖かった。目覚めて、あいつの手を離さなければならないのが恐ろしかった。

 怖いもの。冬の日の口づけ。人形。玻璃。牛の

 もうすぐ死ぬ老人。静脈。鼠の仔。あるじの居ない部屋。

 指輪。火のそば。飛ばずに死んだ雛鳥。言わずもがな、夜のとばり

 昔は、怖いものがたくさんあった。でも、もう、怖くない。己自身が、一番怖いことをしてしまったから。

 あの日から俺は、ずっと   だけが恐ろしい。



男「俺は妹の名を呼んだ。お前に詠われたせいで死んだ、あいつの名前を叫んだ。それが俺の唯一知っている詩だった。本当に歌いたかった、幼き日の歌だった」

詩人「俺は歌おう。何度でも。爪弾くギターの調べの中で、俺はあの子を女神にしよう」

男「薔薇の花なぞ要らなかった。来ない客だけが愛しかった。あるじの居ない部屋の中、いつまでも待っていたかった」

詩人「詩の中で、俺はあの子を天使にしよう。異国の姫君にしよう。七つの海を渡る女海賊にしよう、男勝りの騎士にもしよう。俺はあの子を盲目の乞食にすることも出来るし、優しい農婦の娘にすることも出来る」

男「真実だったのは、俺の歌だ。お前が囁いたのは、いたずらな偽物の詩だ」

詩人「ギターの調べにのせて……」

男「そろそろ黙れ、鶏姦(ケイカン)詩人!」

詩人「キンシンソウカンよりはマシだ」

男(言葉に詰まる)

詩人「盲目の乞食娘は、真っ赤に燃える馬に乗り……」

男「弾くな! 歌うな! 奏でるな! 俺の前で、ほんのわずかだって音を立てるな!」

詩人「成程なるほど。そうしてあの子は死んだんだな」

男「違う。あの子は、お前が!」

詩人「だからそれは、同じことなのだ」

男「(言葉に詰まる)本当は……」

詩人「本当は?」


 男、一寸チョット間を空けて苦しげに。


「あの子は、すみれの花が好きだった」



 薔薇 おお 純粋な矛盾 よろこびよ

 このようにおびただしい瞼の奥で

 なにびとの眠りでもないという(リルケ)



 海を渡れ。耀かがや黄金きんの波。きらめく白銀ぎんの泡。

 七つの海を股にかける、我は女海賊。北極星のみを友とし、老いたる大洋を蹂躙する者。

 海よ。青くうねる騒擾そうじょうよ。お前の底には、数多あまたの男たちの肉体が沈む。お前に打ちとうとし、その水晶の波に挑み、北極星に導かれるまま満天の星空と夜の波間の天地をたがえ、ついにはお前の牙に船ごと噛み砕かれ、あおぐろはらの底へと抱かれていった者たちよ。

 老いたる大洋よ! すなわち故郷に残してきた背骨の曲がった父よ。哀しく病み衰えた母よ。憧れた都会よ。それら全てであるところの私の喪われた時間よ!

 故郷を捨てることばかり夢見ていた少女の惨めさを思えば、今の私にお前の荒波はむしろ心地好いものだ。苦患は快く、お前はてしない。そして絶望はいつも明朗だ。さあ、もっと激しく揉んでくれ。お前をうしはよろこびで、私に故郷を忘れさせてくれ!


 耀かがや黄金きんの波。きらめく白銀ぎんの泡。


 未知の泡沫と天空のさなかにありて、群鳥むれどりの酔ひしれたるを我は知る。


 待つことは好きじゃない。来ない客など待ちたくない。だから私は、もう待たない。私は何も待たなくて良い。あゝ、なんと素敵なことだろう!

 けれど、時折は思い出す。父が私に教えてくれたギターの音色を。それに合わせて母が歌った旋律メロディを。泣き止まぬ幼い妹のため、それらを真似して涙ぐみながら歌った幼き日の歌を。


 つかのまは薔薇いろの煙たちしが

 たちまちに常のごとすきとほり

 清げにも海はのこりぬ


 薔薇よ、薔薇よ。おゝ、この純粋な矛盾! だから私は、今でも愛しいほど故郷を憎むのだ。

 


 本のペエジが開くように、

 瞼の間の離れるように、海の波間がおどり、

 本のペエジが裂かれるように、

 薔薇の花弁の散るように、お前の海が破れていく。



 私の母は盲いた女乞食であった。花を売って暮らしていた。野で摘んだすみれの花を、薔薇の花だと信じて人に買わせようとした。既に狂っていた。花籠の中は減らずとも、いつも少女のようにあどけない笑みを浮かべていた。


「待ち続けるのは、得意なのです」


 彼女の異腹の兄は王だった。人品は高潔。欲を絶つためよわい十六のとき自ら男根を切り落とした。

 く国を治め、民に愛されその紅顔を薔薇王と呼ばれた。母はきっと、生まれてから死ぬまで本当の薔薇の花など見たことがなかった。生まれる腹の違いが二人の運命をかくも残酷に分けた。

 王は長い治世の末この世を去った。国父となったかつての薔薇王。その死を悼み多くの人々が花を献じに詰めかけた。一輪ずつの真っ赤な薔薇で、王の眠る丘は満たされた。

 やがて時が経ち民は王を忘れた。花など跡形も無く守るものを忘れ乾いた茨ばかりが残る古い霊廟に、あるとき一人の老女が訪れた。盲いた女は煮しめたような色のぼろぼろのきれをまとっていた。手にした花籠の中だけ、少女のように可憐なすみれの花でいっぱいだった。

 盲目の老女は巨大な墓石のふもとに腰を下ろすと、ゆったりと天を仰いだ。そうして、妙になまめかしく、変わらずあどけない笑みを莞爾かんじと浮かべてこう言った。


「待ち続けるのは、得意なのです」


 われはこれよりあらゆる退廃と奢侈を貪ろう。あなたが生涯その高潔なマントの下に隠し通した、ありとある放縦と狂騒と乱脈と蕩尽に興じよう。しかしそれは矛盾や倒錯ではない。何故なら我らは分たれた両義性。反作用の磁力に苦悩しながらあなたが切り落とした陽物の、本当に切断したかった幻燈劇ファンタズマゴリア

 老女は静かに戴冠す。王の墓石を玉座として。足元にはすみれの花籠。そしてそのすみれこそが、ちちははから生まれ得なかった私なのである。



 あいつらはすぐに裏切る。俺の妹も死んだ。


(おお、薔薇よ)

(つかのまは薔薇いろの煙たちしが)


 薔薇の花なぞいらなかった。来ない客だけが愛しかった。


(薔薇よ、純粋な喜びよ)

(たちまちに常のごとすきとほり)


 冬の日の口づけ。あるじの居ない部屋。

 残されたのは、背骨の曲がった父と哀しく病み衰えた母。妹は、颯爽と都会に出て行った。私はひたすら惨めだった。


(遁れむ、彼処に遁れむ)

(なにびとのものでもない眠り)


 私は妹を激しく憎みました。馬鹿にされたと思ったのです。おんなが私から、私の所有物たるおんなを奪っていったのだと激しく憤りました。


(未知の泡沫と、)

(純粋な矛盾)

(未知の泡沫と天空のさなかにありて、群鳥むれどりの酔ひしれたるを、我は知る)


 そのうち国に革命が起きました。私は喜び勇んで革命軍に加わりました。妹を殺してやりたかった。都会に出た妹は、貴族ブルジョワジィと結婚して貧しい故郷のことなど忘れ、幸せに暮らしているはずでした。

 私は全ての女を憎んでいました。最初に殺したのは貴族の男ではなく、街の片隅の女乞食でした。誘って、みんなでやりました。花籠のすみれが血で染まって、まるで経血、それか真っ赤な薔薇のようでした。

 けれど、まだ足りない。誰の体にも流れているもの。女たちの血は妹の血。俺はとにかく、俺より得して見えるえらそうな奴らが大嫌いなんだ。白も赤も革命も、本当は最初からどうでも良かった。ただひたすら、この憎しみをさらにいっそう確かなものとせよ。

 でも、そんなには殺せませんでした。切先の尖る新月の夜、その雫のしたたりが私を背中から刺しました。同輩でした。どうやら私が昨日殺した老女は、その男の母だったようなのです。その頃私はすっかり部隊の奴らから、気が狂れた男だと恐れられるようになっていました。男の持つ銃剣の刃が、私の胸の温かい肉の中で震えていました。

 刃が引き抜かれると胸の虚空から血が噴き出しました。血がたくさん抜けると、眠くなる。あなたは知っていましたか。女はきっと、皆んな知っているのでしょうね。まるで母の腕の中のようで、良い心地でもありました。


(薔薇 おお 純粋な矛盾 よろこびよ

 このようにおびただしい瞼の奥で

 なにびとの眠りでもないという)


 私が殺した女たちも、命尽きる瞬間はこんな安らかな気分だったのでしょうか。そう思えば皆、少女のようで愛らしい。かすみがかる眼裏まなうらで、私はただ、あの冬の日の口づけを思い出します。



(肉体は悲し、)


 私は毎晩、夢の中であなたの手を握りしめていました。眠るのが怖かった。目覚めて、あなたの手を離さなければならないのが恐ろしかった。


のがれむ、)

(老いたる大洋よ、)


 夜の帳。主の居ない部屋。薔薇の花弁が、夢見る夜の波間のように、ゆるゆると開く。

 

 恐いもの、すきとほり。


 詩人/最愛の母を殺された革命軍兵士「あゝ、清げにも海はのこりぬ」



 老いたる大洋よ。

 私は、処女でも無ければ売女でも無い。聖母で無く、また娼婦でも無いのだ。

 だから、そんなに私をおそれるな。



「刺せ、私を! 切り裂け、お前のつくった詩を! 天空のさなかにありて星と海とを違えし愚者よ!

 私はお前を恐れない。私だけは、お前を恐れない。だからお前は、私を恐れろ。泣け。驚け。おののき震え恐懼しろ! お前が真実の詩だと思って玩んでいたものに、突けば噴き出す温かな血潮が流れていたことをようやく知れ!」

 ごとり。女海賊の首は、一息に斬り落とされました。

 さても稀代の大悪党、女海賊を打ち取ったるは、若き美貌の国王。豊かな髪と柔らかな肉体を甲冑に包み、されどその瞳の力強さ美しさ、薔薇の花かような頬のあでやかさだけは隠しようも無し。めでたきかな。王はぢやんぬ・だるくよろしく、男装の姫君であった。

 王の花のかんばせは民草の心を惑わし、国中で鶏姦が流行したと云。ただしこの美貌の少女王、よわい三十のとき、恋に狂った小姓の美少年にしいされる運命さだめ。降り注ぐ薔薇の花弁の中、二人、心中のように窒息したと云。

 されど若き王は己のくらい運命など知らぬ。哀れみたまえ。無明の闇の底へと続く道をゆっくりと下り出した、この年端もいかぬ少女おとめを。

 歳上の女を殺したばかりの少女王は返り血を手の甲で拭い、少年のような残酷さでニヤッと笑う。

「誰の体にも流れているものを恐れるやつがあるか」

 あゝ無惨やな。女海賊は、この王の血を分けた姉なのでした。



 薔薇の花なぞ要らなかった。

 お前だけが居れば良かった。

 恐いもの、ひとつだけ。

 愛しいものも、ただひとつだけ。

 恐いものと愛しいものは、きっとずっと一緒だったから。

 主人の居ない部屋。冬の日の口づけ。言わずもがな、夜のとばり

 待ち続けるのは、得意なのです。お前が言う。誰も居ない部屋の中で。

 誰の体にも流れているものを恐れるやつがあるか。俺とお前の体には、そっくり同じものが流れているのに。

 同じだから、いけなかった。隣人。子供の。濡れた鏡。

 恐いもの、たくさんあったね。私たち、それでも手を取り合って、震えながら大きくなったね。

 お前は毎晩夢の中で俺の手を握ってくれたのだけれど、しかしそれは俺がお前の手を無理やり掴んで離さなかっただけのことなのだろう。俺は起きて、泣きながら詩集のページを全てナイフで引き裂いた。勇敢な女海賊。優しい農婦の娘。瞳の綺麗な女乞食。みんなみんな、この手で引き裂いてやった。

 刃が折れ、本から血が流れた。気付けばお前は皆んな死んでいた。俺が殺したのだった。

 お前の肉体から流れ出た血は虹色に輝き、天空のさなかより降りくだる薔薇の花弁となった。そうしてたちまち海となって溢れ出す。耀かがや黄金きんの波。きらめく白銀ぎんの泡。

 薔薇の花弁降りしきる俺たちの生まれ育った部屋で、俺は死ぬ。一人寂しく孤独な道行みちゆき、独りぼっちのはなびら心中。

 薔薇の花なぞ要らなかった。本当は、俺も好きだった。お前の好きな、すみれの花。今更、言ったって遅いけど。


 恐いもの。


 夢見る夜の波間のように、今、ゆるゆるとお前が開いていく。



 来ない客だけが愛しかった。

 お前だけが恐ろしかった。

 俺は、お前だけを愛していた。

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海崎たま @chabobunko

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