リメインズ・オブ・ファイア
山本アヒコ
リメインズ・オブ・ファイア
「ハァイ」
左手を上げて声をかけた。しかし反応はない。手のひらを左右に揺らしたが無駄だった。居場所を見失った左手が下がる。
距離は約九ヤード。射撃訓練と同じ距離で足を止める。湿った土に靴のソールがほんの少し沈む。体重をバランスよく両足に分散し、姿勢を正しくするのは訓練の初歩だ。考えることもなくできるように何度も訓練したはずだったが、今は初心者のように確認する。標的を正面に捉えるのも基本だ。
九ヤード先にあるのは同心円が印刷された紙の標的ではなく、椅子に座った一人の人間だった。ややうつむいた横顔が見える。椅子は粗末なもので肘掛けは片方が無くなっていて、脚も見るからに手作りしましたという修理のあとがあった。
背後にある建物も似たような姿だった。家というより小屋がふさわしい。全て木材のこの建造物は、なぜ腐って崩壊していないのか不思議に思える。
椅子に座る人物のニットキャップからはみ出た長い髪は、しばらく洗っていないのだろう絡まり具合だ。何枚も服を着こんで膨れた体は、春になってもまだ寒い山のなかなので理解できるが、服として機能しているのかと疑うほど汚れてしまっている。
もう少し近づこうと足を動かした瞬間、顔がこちらへ向いた。口元までボロボロのストールを巻いているので両目だけが見える。急に重くなった足を慎重に戻す。
「チャペルの人間が何の用?」
くたびれた姿からは想像できない強さの声。そこで相手がまだ四十才にもなっていない女性だと思い出す。彼女の両目が左右に動く。
「一人だけ? 隠居した女一人なら同じ女一人で用が足りるってわけかな」
「落ち着いてガートルード。私は話をしに来ただけです」
黒人の女性は左手のひらを出しながら笑顔で白い歯を見せる。
「チャペルが話だけ、ね」
微動だにせず鼻で笑う姿に思い出したものがあった。同僚の男が自分のデスクに飾ってある戦車のフィギュア。オリーブ色のみで染められた頑丈な車体と大威力の弾を発射する砲身。一度熱心に戦車のスペックについて講義されたが、右から左へ聞き流した。動かなくてもただ存在するだけで恐怖し威圧する破壊者。
右腕が震えた。いつでも行動に移せるよう腰の銃にそえられていた指が冷たい。暑くもないのに額と首の後ろから汗がにじむ。動いていなかったはずだ。常に彼女の全身を視界に入れて、まばたきすら見逃さまいと注意していた。
それなのに今、ガートルードの銃口がこちらを向いている。
「……」
肘掛けに置かれた腕の上に、拳銃が乗っている。もちろんもう片方の手がグリップを握り、いつでも撃てる状態で。椅子の肘掛けが片方だけ無い理由を理解する。拳銃を持つ腕を自由にするためだ。
忘れてはいなかった。しかし彼女はただガートルードという名前と活躍を資料で読んだだけで、実際に目にしたことがなかった。
『凶弾』ガートルードを。
口のなかから唾液が失なわれていくのを感じる。唇が荒野のようにひび割れてしまいそうだ。軍の新兵として延々走らされた時のよう。軍で何年もしごかれ戦地も経験し、自分の能力を理解してチャペルの一員となった。卵のからがついたひよこを卒業し、いくつもの任務を経験した。命の危険を何度もくぐり抜けた。危機を乗り越える自信があった。だが間違っていた。
自分は男と遜色ない力があると自負している。実際に戦場でそれを証明してきた。いつもの戦場であればガートルードに敗北することはないだろう。戦車や装甲車に多数の友軍と塹壕と航空支援。
だが、ガートルードの戦場は違う。休日の街中、地下鉄の車内、自宅。日常こそが戦場だった。歩道を歩いていて横を通りすぎる車から銃で撃たれる。あるいは暴行され拉致される。車や郵便物、自宅ドアへの爆発物。安全圏の存在しない生活。地獄を生き残り、復讐を遂げた。
ガートルードの銃弾は何十人もの命を奪った。ありえないからこそ彼女は『凶弾』と呼ばれる。
ガートルードに対していくつものシナリオを考えていた。優しく、冷静に、高圧的に、怒らせる、同情させる。何もかもが不可能であると理解した。残る言葉はひとつ。
「……パパラルディの生き残りがいる」
時が凍ったかのような静けさ。ガートルードの前には焚き火があったが、今にも消えそうで木の割れる音はしない。風もなく細い煙が糸のように上へ伸びている。
「全て殺したはず」
「その通り。でも幹部の一人の息子だか兄弟だか自称している。嘘かもしれないけど、それは問題じゃない。パパラルディの名前は今も力がある。そのせいで組織が大きくなりはじめている」
パパラルディは違法カジノ、麻薬、人身売買などを行う巨大犯罪組織だった。ガートルードはパパラルディに家族を奪われ復讐を決意し、パパラルディ血族の殲滅を成し遂げた。
ガートルードは剥製か蝋人形のように動かない。もしかしたら本当は死んでいて、自分は彼女の亡霊と話していたのではと思えてきた。「彼女は死人だ」上司が言っていたことを思い出す。生きることに喜びがない、生ける屍。
足音が聞こえ、頭を殴られたかのごとく動揺する。ガートルードが立ち上がり、こちらへ歩いていた。地面は落ち葉や小枝に細かい石が混じっているのに、不自然なほど音がしない。そのまま横を通りすぎた。
荷物は何ひとつ持っていない。必要がないのではなく、最初から彼女は何も持っていなかったかのごとく。
凶弾に殺されることなく、賭けに勝利した。だが確実に何かを失った。ガートルードと対峙することは、死者が向かう道に足を踏み入れるのと同じだった。
「ガートルードは悪魔と契約したんだ」
彼女がガートルードの元へ行くのを知った誰かから言われた。
悪魔との契約に、何を代償としたのだろうか。
焚き火の煙は消えていた。炭となった枝のなれ果ての中に、太陽が地平線に消える瞬間にだけ見えるような、微かな光が残っている。
リメインズ・オブ・ファイア 山本アヒコ @lostoman916
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