思い出の慰砂魚

狂フラフープ

思い出の慰砂魚

 崖崩れの迂回路は思った以上に長々と続き、見かけた食事処に寄ろうと決めた。

 もう何十年も前の話だが、その店を選んだ理由をはっきり覚えている。

 店先に顔を覗かせた店員。ひどい猫背の、けれどとてもうつくしい人だったから。


 ひとつしかないメニューを頼んで出てきたのは、湯引いた川魚で、タレはおろか醤油さえ添えられていない。だが一度口に運べば、それが正しいのだとわかった。

「これは何という魚ですか。ひどく、言葉にしづらい不思議な味で」

 何となしに投げ掛けた質問に、彼女はあからさまに恐縮し謝罪の言葉を口ごもった。

「いえ、不味いと言っているのではなくて、単純に気になってですね」

 悪いことをしただろうかと言葉を足すと、彼女は怯えと恥じらいの向こうから身を乗り出して嬉しそうに語り出した。

慰砂魚イサナと呼んでいます。この辺りの山の、上流だけに棲む魚です。この山の澄んだ砂と、水でしか生きられません。水が澄んでいるというのは、食べ物が少ないという意味でもありますから。ひどく淡白で、何度食べても味をすぐに忘れてしまう。だからまた食べたくなると、そう言ってくださる方がいます」


「庭に山水を引いて、生け簀代わりにしています。ご覧になりますか?」

 案内されて、溜め池を見た。

 魚は白く、細く、底の方で動かなかった。その儚げなうつくしさに、思わず手を延べた。 

 指先が水面へ届く前、強い力で腕を掴まれ、こう繊細な魚は触れただけで負担になるだろうと反省する。

「すみません。弱らせてしまいますね」

 彼女は小さく首を振り、

「いいえ。指を食い千切られます」

 私は息を呑んだ。

「餌があれば、限度を知らず喰らい続けます。満たされれば、死にます。かつえの中でしか生きられない。そういう魚なのです」



「――あの。よければ、また来てくださいね」

 会計を終えて店を去ろうとしたとき、その男が現れた。

「なんだ、客なぞ居るのか?」

 息が詰まる程の酒の臭いを撒き散らし、薄ら笑う。

「どうだ、不味かったろう。金は返せんが」

 言葉と彼女の反応で、その男が身内とわかった。年の頃から父親だろうか、と思う。

「いえ、私は、」

 望んだ答えが返ってこないと知ると、男は露骨に機嫌を損ねた。そんなものがお好みとは、と聞こえよがしに悪態をつく。

「あの、表からではなく、裏からと、」

 彼女がおずおずと声を掛け、つんざくような張り手の音が響いた。

「誰のおかげでそのお遊びができると思ってるんだ?!」

 男はレジスターから金を掴み取り、生け簀に飲みかけの酒瓶を投げつける。彼女はただうつむき、その仕打ちを耐えていた。

「おれの女房だ! 何か文句があるか?!」

 私は抗議の声を上げる間もなく、胸ぐらを掴まれ、通りへ放り出された。

 鍵を掛けられた引き戸を叩いていると、近くの家々から敵意の目が向けられていることに気付く。

 引き下がりながら、強く強く拳を握った。


 思えば彼女に出会うまでの私は、哀れな者を見ると自分が救わねばと強く激しく思い込む性質だった。

 近くに宿を取り、明くる日にもう一度その場所を訪れた。

 折よく男が外出するのが遠目に見えて、私は店の扉へ急いだが、扉は鍵が掛かっていた。     

 昨日見た勝手口を思い出す。

 庭に踏み入ったとき、何かにつまづいた。

 よろめいた先の庭石は盤石そうに見えて、足を載せた途端に容易く揺らいだ。

 このままでは溜め池に落ちると確信したとき、延びてきた手に掴まれ、辛うじて踏み止まる。

「大事ありませんか」

 彼女だった。

 私が落ち着くのを待って用件を訪ねた彼女に、私は昨日の出来事を口にする。

「家の中で主が何をしても、皆が知らぬ顔をします。そういう土地なのです」

 それを何でもないことのように口にする彼女に、それを強いるこの土地に、私は激しく憤った。

「貴女は何故この家に嫁いだのです」

「借金がありました」

 ああ、やはりそうなのだ、と合点した。

「私と逃げましょう。貴女はこんな場所にいてはいけない」

 正面から肩に手を掛ける私に、彼女は驚くほど冷静に返した。

「慰砂魚は、この山の砂と、湧き水でしか生きられません」

 そして私は哀れな女を救うのに夢中だった。

「どうして魚など。こんな魚、」

 言いかけたとき。彼女の目が、何かまるで別の生物であるかのような光を帯びて、私はうろたえ、ひとたまりもなく言葉を失くす。


「わたしは慰砂魚です。思い出の中以外には生きられない。死んだ父母と過ごした家も、写真の一葉さえ残っていません。あるのは父と育てた慰砂魚だけ」

 真っ直ぐな視線と言葉。そこに篭る焼け付くような熱に、私は顔を背けようとした。

 その頬を、細く白い指が追い掛けて捉える。

 誰かにすがることでしか生きられない女だと思った。

 その女が覆い被さるように口付けて、腰の砕けた私へ妖艶に笑う。

「もういらしてはいけませんよ」

 私はその言葉に逆らうことができなかった。


 勝手口を抜けて振り返ったとき、草を結び、庭石を元の位置に戻す彼女が見えた。

 もう何十年も昔の話だ。

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