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「これって、訴えること、できますよね?」
ふかふかすぎるクッションに、逆に座り心地の悪さを感じつつ、言った。
この目で確かめたことがなくても、地球の周りは大気圏が取り囲んでいると知っているように、ホテルのスイートルームとは最上階にあるものと知っていた。でも、知識としてあるだけのことで、リアルに大気圏を見る機会など一生ないだろうというのと同じく、一生その場所に縁はないだろうと思っていた。
今自分がその室内にいることが、にわかには信じがたい。
「何罪ですか」
真正面のソファーにふてぶてしく座る、あいかわらず完璧な顔面のアイドル俳優が、唇を尖らせて言う。
少し離れた別のソファーには、スーツ姿の男性が座っている。危なっかしい子供を見守るような不安げな表情で、わたしたちのやり取りを窺っていた。
「セクハラに決まっているでしょ」
わたしが言うと、中村蕎は即答する。
「誤解です」
「自分の泊まる部屋に呼び出して、いきなり性行為を強要したことの、どこに誤解だと言い張る予知があるのか」
秒で平手打ちをかまされたのちに通報されたとしても、文句は言えないはずである。
「強要はしてない。試しに一回、俺に抱かせてって言っただけ」
「百歩譲って強要じゃないとしても、普通にアウトなセリフだからね、それ」
彼はため息をついて、両手を掲げ上げてみせた。
いや、それ、こっちがやりたい反応ですから。
「蕎、順を追って話さないと。言いたいことがきちんと相手に伝わらないよ」
とうとう見かねたらしく、スーツの男性が口を挟んできた。
エレベーターを降りたところで待ち伏せていた彼は、銀縁メガネが似合っていた。笑顔にはどこか疲れが滲んで見えるけれど、たぶんわたしより年下。以前に見たことがあるような、ないような気もした。
彼が名刺を差し出し、「中村蕎のマネージャーです」と自己紹介してきた時、綾乃は歓喜で飛び上がり、わたしは、これやばいのでは、と青くなった。
即座に、「わたし、何も気づいていません」と言い訳していた。
中村蕎のサプライズ的な出演には、何か裏がある。
その事実に気がついてしまったわたしは、社会から抹殺されるのかもしれない。本気でそう震えたのだ。
「説明できる理由があるなら、きちんと説明してください」
物騒な疑惑についてだって、まだ晴れたわけではないのに。その上、部屋に入って早々、抱かせてくれ、などと。冷静でいられる自分を褒めてあげたい。
十代のうちから世間から隔離されて、養成所で修業していたというアイドルよりは、サラリーマンであるマネージャーのほうが常識がありそう。そんなイメージ頼りの根拠から、彼の言葉に乗っかってみた。
「まず、あなたがわたしに話した、出演の理由。あれは嘘なのか、本当なのか」
とりあえずそこが解消されないことには、落ち着いてそれ以上の話を聞けそうにない。善人の顔をしたマネージャーが、いつその懐からリボルバーを取り出すか知れないのだ。
「えぇん? めんどくさぁい」
中村蕎は背もたれに片方の肘を乗せて、頭を抱え込むようにして、子供みたいに拗ねた。
「安西くん、代わりに説明してよぉ」
誰だ、こいつ。
普段は円熟味さえ醸し出しながら、笑うと顔中シワだらけになるギャップで、多くの女性のハートを撃ち抜き続ける、国宝級イケメンアイドルはどこへ行ったのだ。
安西と呼ばれたマネージャーは苦笑いを浮かべている。
「わかった!」
わたしは指をまっすぐ中村蕎に向けた。
「この腑抜けぶりが表に出ないように、身体でわたしを丸め込もうと言うのだな!」
「誰が腑抜けだ」
「あれ。でも、腑抜けはこの部屋にきて初めてわかったことか。わたしを呼び出す理由にも、サプライズ出演の理由にもならない」
顎にこぶしを当てて考え直す。
「だから、誰が腑抜けだよ」
「お前だよ」
「改めて辛辣」
中村蕎はのけぞったあとで、大きくさっぱりと笑い出した。
「詩依子さんを呼び出した理由なら、単純明快だって」
「何なの」
「抱かせてほしいから」
おもむろにパンプスを脱ぎ、振りかぶる。
「嘘、嘘。いや、嘘じゃないんだけどさ」
「超人気アイドルの言うことなら、どんな女も二つ返事で聞くとか思うなよ」
「そうじゃなくて。降伏するから、武器は下ろしてよ」
推しに向かっての暴言は、こちらが先に失礼なことを言われた応戦だ。それにしたって、少しは怒るのかと思いきや、中村蕎は笑顔。ますます謎、と言うか、怪しさ満載である。
とりあえず手を下ろす。
彼は自分の鼻先を指さした。
「俺、アゲメンなんだ」
言葉を失う。思考を失う、と言ったほうがたぶん正しい。あまりに突拍子もないセリフが飛び出てきたことに恐れをなして、一瞬、脳の中の働く細胞たちが全撤退してしまった。
それを羨望されたとでも取ったのか、中村蕎は得意になって続ける。
「わかる? アゲメン。女性を出世させる男のこと。俺がそうなの」
「……わたしを出世させてやろうって?」
そういう才能を持つ女性を題材にした映画ならば、知っている。それの男性バージョンだと言いたいらしい。
そんな馬鹿げたことを本気で言っているのだとしたら、彼はかなりやばい。
「出世させるっていうのは、言葉のあやというか。要は、詩依子さんを幸せにしてあげたいわけで」
「ほう」
いかに鈍いわたしと言えども、ここまでくれば、さすがに彼の腹の底にあるものが見えてきた。ため息をつく。
「わたしが、結婚したくないって言ったからだよね。結婚というものに夢も見られない、不幸でかわいそうな女は寂しいだろうと。馬鹿にしているんだ」
やっぱりあれは失言だった。
「そうじゃなくて」
彼は慌てる。これもおそらく「ふり」なんだろう。
「詩依子さんに結婚願望がないって知ったから、呼び出したことは確かだよ」
「ほらやっぱり」
「でも、幸せにしてあげたい気持ちは嘘じゃないんだ」
「相当なテクニックをお持ちのようで。悪いけど、別に寂しくもないし、そういうことにそこまで興味もないんだよね」
所詮、彼も他の一般人と同じ、一人の男性だということか。むしろ、認知度が高い分、女性と交際することも難しく、欲求の捌け口すらないのだろう。
幻滅したと泣き崩れるほど若くないけれど、急に現実に引き戻された気がしてがっかりはする。
「だから、そういうことじゃなくて」
「蕎……これは勝てないよ。一旦出直したほうが」
安西くんが弱々しく言葉を挟む。
いや、出直さないで、と言いたい。一回こっきりとわかっていても、ずっと推してきた相手ならウェルカムという女性もいるとは思う。でも、わたしはごめんだ。
「どんな形であれ、興味を持ってもらえて光栄です。ありがとうございました。ますますのご発展を願っております。それでは、ごきげんよう」
棒読みで言いながら深々とお辞儀をしたあと、立ち上がった。
さあ、戻って夕食にしよう。綾乃もお腹を空かせているはず。
中村蕎は、うがぁ、とうなって自分の髪の毛をかき乱した。
「俺の、力は、本当なの! どうして信じてくれないんだよ」
「あほか」
拒否の理由が、アゲメンの力が信じられないからだと思っているらしい。信じがたい。
画面越しでは見破れなかったが、彼は少し残念な脳みそをお持ちのようだ。
「一回! 一回試してみてよ。そしたらわかるから」
「お試しキャンペーンか。ご期待に添えなかったら、保障してくれるとか言うのかい」
「うぬう、わかった!」
「え」まさか保障できるの?
先程のわたしと同じように、中村蕎はわたしに人差し指の先を突きつけた。
「なら結婚、結婚してください!」
思わず投げていたパンプスがその額で跳ね返って、高い天井にシュプールを描いた。
与える男 行方かん(YUKUKATAKAN) @chiruwo
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