3

「詩依子。ディナーは外に食べにいこう。おいしい店、リサーチしておいたんだ」


 収録が終わると、綾乃はウキウキと言った。あんなに気にしていたマツエクについては、途中でどうでもよくなったようだ。


 参加者たちには、配信会社からホテルの部屋があてがわれていた。食事はつかないけれど、宿泊は無料。出演料の代わりみたいなものなんだろう。


「もうそんな時間なんだなぁ」


 腕時計に目を落とす。今何時か確認するのは、受付してからこれが初めてだと気づいて少し驚く。

 ずっと閉め切られたホールの中にいるせいで、時間の感覚がまるでない。朝早くスーツケースを引いて家を出たことが、ずいぶんと遠い昔の出来事のように感じられた。


「わたし、なんだか疲れた。ルームサービスにしない?」


 ため息と一緒に吐き出すと、綾乃は信じられないとでも言うように、目を真ん丸にした。


「ええ! せっかく都内まで出てきたのに? 明日はもう帰るのですが!」

「じゃあ、明日。こじゃれたモーニングでも食べて帰ればいいじゃない」

「そんな早く起きれないって。年寄りじゃあるまいし」


 綾乃が残念がる気持ちは、わからないでもない。

 都内まで特急一本と言うと、たいそう利便性が良く聞こえるけれど、駅に到着するまでには車で三十分以上かかる。ショッピングモールもなければ、ファストフードのデリバリーすらない。わたしたちが暮らすのは、そんなド田舎だ。

 いろんな意味で自由だった二十代までならまだしも、気軽に都会に出てくることも、遅くまで滞在することも、日々の暮らしに追われる今はなかなかに難しかった。


 でも、申し訳ないが、諦めてもうよりしかたがない。

 ホテル内のレストランに足を運ぶ気にもなれないくらい、すっかり疲れ果ててしまったのだ。


 あのあと、相手を変えて計十五回のフリートークタイム、レクリエーションタイムが設けられた。

 入れ替わり立ち替わり、初対面の男性たちと会話するのは、思っていた以上に精神にきた。最初のカップリングの頃には、体力的にもへとへとだった。


 カップリングの方法は至ってシンプル。配られたカードに、いいなと思う相手の名前を書いてMCに渡す。一致すればカップルが成立。自動的に、明日以降の収録への参加が決定する。


 わたしと綾乃は、明日の朝に帰る。つまり、カップル不成立だったというわけだ。


 悔しいとは思わない。

 参加者はわたしたち以外、全員が二十代で、その点について切なさは感じるものの、別に本気で婚活に挑みにきたわけでもない。


「そういや、中村蕎と少しはいい雰囲気になれた?」


 いまだ諦め切れないといった雰囲気の綾乃だが、わたしが部屋へ向かって歩き始めると、下唇を突き出しながらもあとをついてきた。ルームキーを指でくるくる回している。


 ぐっと腹の底にのしかかるものを堪える。つんのめりそうになった。


「なれるわけない。聞いていたくせに。緊張で、何を話したのかもよく覚えていないよ」

「そりゃそうよね。中村蕎だものね」

「余計なことまで、言っちゃったし」

「なに、余計なことって」


 綾乃はざっと絨毯を蹴って横に並んだ。その時点ではもう聞き耳の店じまいをしていたのか、その顔は本当に何も知らないふうに見える。


「……来世でも結婚するつもりないって」

「あら」


 中学以来の親友は、とたんになぜか楽しそうな顔つきになった。


「珍しい。警戒心の強い詩依子が、初めて会う相手に本音を漏らすなんて」


 綾乃は拍手しそうな雰囲気さえある。


「別に、常にバリケードを張っているわけではないけど」

「張ってるでしょ。そびえ立たせているでしょ」

「誰が城壁だ。もしそう見えるんだったら、それは後天的な性質でござる」


 わたしは元来、他人ウェルカムな人間なのである。

 その点について、綾乃も異論はないようだ。「まあね」とぞんざいに鼻から息を抜く。


「あんなことがなかったなら、詩依子は心に石造りの壁を建設することもなかった」

「こうなったら、物見櫓もつけたい気分」

「ひょっとして、誘ったの迷惑だった?」


 綾乃は身体をやや前に傾けて、覗き込むようにして顔を見てきた。不意にしおらしくなる親友の様子が、付き合い立ての彼女のようでおかしい。


「そんなことないよ。これはこれで、楽しかった」


 綾乃なりにわたしを心配してくれていることは、よくわかっている。感謝はしても、迷惑だなんて思うわけがない。思っていたら、最初から話に乗らない。


「おお、やった」

「もう若くないんで疲れたけどね。中村くんとじかに話せたし、いい冥土の土産になった」

「こらこら、三十で生き急ぐな」


 エレベーターの前まできて、止まる。上の階を目指すために、ボタンを押して待っていると、あとから他の女性三人組が追いついた。お互いに軽く会釈する。


 絶対的に瑞々しさが違う、自分たちより十は若い彼女たち。真剣に婚活したくて参加を決めた人も、中にはいるんだろう。


 だから、声高に主張はしないけども、結婚するつもりはさらさらない。

 過去の出来事が、わたしの心に風穴を空けたことは確かだ。でも、それを新しい出会いが埋められるなんて、淡い期待すら抱かない。


「でも、良い兆候かも」


 到着したエレベーターに乗り込んでから、綾乃が言った。

 三人の女性たちは乗らなかった。部屋が下の階なのか、もしくは、一階にあるレストランに向かうのかもしれない。


「ん?」

「つい口を滑らせるとかさ。彼にはそれくらい心を許したってことでしょ?」

「そういうことではないと思う」


 眉をひそめるわたしは昔、素行の悪そうな他校女子に呼び出され、財布の中身をうっかりポロリしたことがある。その理屈が通るのだとすると、彼女たちにもオープンマインドしていたことになってしまう。

 ちなみに、お金は奪われなかった。期待外れの金額だったらしい。


「結婚するつもりもないのに参加したんだって、逆に興味持たれたりして」

「中村くんに? ないな」


 即答すると、綾乃は深いため息をついた。


「夢のないことよ」

「いつまでも夢見る少女ではいられないって、歌にもあったじゃないか」


 あの歌手の名前は何だったっけ、とぼんやり考えていたら、綾乃が「そういえば」と切り出した。もう少しで思い出せそうだったのに、バスタブの排水口に吸い込まれる残り湯のごとく、脳の奥底に吸い込まれていってしまう。


「なに」

「中村蕎。カップルにならなかったなぁって思って」

「あ」

「でも、そりゃそうか。企画とはいえカップルになんてなったら、相手の女の子が大変な目に遭いそう」


「だめじゃない?」


 素っ頓狂な声が出たことに、自分で驚いた。


「そうよ、だめに決まってる。そんなことが起きたら、番組がお蔵入りだ」

「そうだけど、そうじゃなくて。そう、そうなんだ」

「詩依子、何言ってるの? 大丈夫?」


 そう。思い出した。

 成立したカップルの中に、推しの姿はなかった。明日からの収録に、彼は参加しないということだ。

 でも、彼が言っていたリベートの話。あれが本当のことなら、番組に出続けないと意味がないのでは?


 いや、待て。


 やっぱりおかしい。

 よく考えたら、中村蕎の出演が公表された時点で、配信側に対して大ブーイングが起きたって不思議ではないのだ。契約者どころか、むしろ解約者が増える。そんなことは火を見るよりも明らか。さっきは推しに会えた感動と緊張で、頭がうまく回っていなかった。

 まさか出演を公表しない? いや、それこそまるで意味がない。番組の内容を明かさずに、出演の公表だけするとか? いやいや、そんなこと不可能でしょう。


「どうしたのよ、いったい」


 綾乃の問いかけを無視して考えても、一向に答えが出ることはなく、そのまま目的の階に着いてしまった。ドアが開く。

 スーツが視界に入った。 


「内田詩依子さん。ちょっとお時間よろしいでしょうか?」

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