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「詩依子。ディナーは外に食べにいこう。おいしい店、リサーチしておいたんだ」
収録が終わると、綾乃はウキウキと言った。あんなに気にしていたマツエクについては、途中でどうでもよくなったようだ。
参加者たちには、配信会社からホテルの部屋があてがわれていた。食事はつかないけれど、宿泊は無料。出演料の代わりみたいなものなんだろう。
「もうそんな時間なんだなぁ」
腕時計に目を落とす。今何時か確認するのは、受付してからこれが初めてだと気づいて少し驚く。
ずっと閉め切られたホールの中にいるせいで、時間の感覚がまるでない。朝早くスーツケースを引いて家を出たことが、ずいぶんと遠い昔の出来事のように感じられた。
「わたし、なんだか疲れた。ルームサービスにしない?」
ため息と一緒に吐き出すと、綾乃は信じられないとでも言うように、目を真ん丸にした。
「ええ! せっかく都内まで出てきたのに? 明日はもう帰るのですが!」
「じゃあ、明日。こじゃれたモーニングでも食べて帰ればいいじゃない」
「そんな早く起きれないって。年寄りじゃあるまいし」
綾乃が残念がる気持ちは、わからないでもない。
都内まで特急一本と言うと、たいそう利便性が良く聞こえるけれど、駅に到着するまでには車で三十分以上かかる。ショッピングモールもなければ、ファストフードのデリバリーすらない。わたしたちが暮らすのは、そんなド田舎だ。
いろんな意味で自由だった二十代までならまだしも、気軽に都会に出てくることも、遅くまで滞在することも、日々の暮らしに追われる今はなかなかに難しかった。
でも、申し訳ないが、諦めてもうよりしかたがない。
ホテル内のレストランに足を運ぶ気にもなれないくらい、すっかり疲れ果ててしまったのだ。
あのあと、相手を変えて計十五回のフリートークタイム、レクリエーションタイムが設けられた。
入れ替わり立ち替わり、初対面の男性たちと会話するのは、思っていた以上に精神にきた。最初のカップリングの頃には、体力的にもへとへとだった。
カップリングの方法は至ってシンプル。配られたカードに、いいなと思う相手の名前を書いてMCに渡す。一致すればカップルが成立。自動的に、明日以降の収録への参加が決定する。
わたしと綾乃は、明日の朝に帰る。つまり、カップル不成立だったというわけだ。
悔しいとは思わない。
参加者はわたしたち以外、全員が二十代で、その点について切なさは感じるものの、別に本気で婚活に挑みにきたわけでもない。
「そういや、中村蕎と少しはいい雰囲気になれた?」
いまだ諦め切れないといった雰囲気の綾乃だが、わたしが部屋へ向かって歩き始めると、下唇を突き出しながらもあとをついてきた。ルームキーを指でくるくる回している。
ぐっと腹の底にのしかかるものを堪える。つんのめりそうになった。
「なれるわけない。聞いていたくせに。緊張で、何を話したのかもよく覚えていないよ」
「そりゃそうよね。中村蕎だものね」
「余計なことまで、言っちゃったし」
「なに、余計なことって」
綾乃はざっと絨毯を蹴って横に並んだ。その時点ではもう聞き耳の店じまいをしていたのか、その顔は本当に何も知らないふうに見える。
「……来世でも結婚するつもりないって」
「あら」
中学以来の親友は、とたんになぜか楽しそうな顔つきになった。
「珍しい。警戒心の強い詩依子が、初めて会う相手に本音を漏らすなんて」
綾乃は拍手しそうな雰囲気さえある。
「別に、常にバリケードを張っているわけではないけど」
「張ってるでしょ。そびえ立たせているでしょ」
「誰が城壁だ。もしそう見えるんだったら、それは後天的な性質でござる」
わたしは元来、他人ウェルカムな人間なのである。
その点について、綾乃も異論はないようだ。「まあね」とぞんざいに鼻から息を抜く。
「あんなことがなかったなら、詩依子は心に石造りの壁を建設することもなかった」
「こうなったら、物見櫓もつけたい気分」
「ひょっとして、誘ったの迷惑だった?」
綾乃は身体をやや前に傾けて、覗き込むようにして顔を見てきた。不意にしおらしくなる親友の様子が、付き合い立ての彼女のようでおかしい。
「そんなことないよ。これはこれで、楽しかった」
綾乃なりにわたしを心配してくれていることは、よくわかっている。感謝はしても、迷惑だなんて思うわけがない。思っていたら、最初から話に乗らない。
「おお、やった」
「もう若くないんで疲れたけどね。中村くんとじかに話せたし、いい冥土の土産になった」
「こらこら、三十で生き急ぐな」
エレベーターの前まできて、止まる。上の階を目指すために、ボタンを押して待っていると、あとから他の女性三人組が追いついた。お互いに軽く会釈する。
絶対的に瑞々しさが違う、自分たちより十は若い彼女たち。真剣に婚活したくて参加を決めた人も、中にはいるんだろう。
だから、声高に主張はしないけども、結婚するつもりはさらさらない。
過去の出来事が、わたしの心に風穴を空けたことは確かだ。でも、それを新しい出会いが埋められるなんて、淡い期待すら抱かない。
「でも、良い兆候かも」
到着したエレベーターに乗り込んでから、綾乃が言った。
三人の女性たちは乗らなかった。部屋が下の階なのか、もしくは、一階にあるレストランに向かうのかもしれない。
「ん?」
「つい口を滑らせるとかさ。彼にはそれくらい心を許したってことでしょ?」
「そういうことではないと思う」
眉をひそめるわたしは昔、素行の悪そうな他校女子に呼び出され、財布の中身をうっかりポロリしたことがある。その理屈が通るのだとすると、彼女たちにもオープンマインドしていたことになってしまう。
ちなみに、お金は奪われなかった。期待外れの金額だったらしい。
「結婚するつもりもないのに参加したんだって、逆に興味持たれたりして」
「中村くんに? ないな」
即答すると、綾乃は深いため息をついた。
「夢のないことよ」
「いつまでも夢見る少女ではいられないって、歌にもあったじゃないか」
あの歌手の名前は何だったっけ、とぼんやり考えていたら、綾乃が「そういえば」と切り出した。もう少しで思い出せそうだったのに、バスタブの排水口に吸い込まれる残り湯のごとく、脳の奥底に吸い込まれていってしまう。
「なに」
「中村蕎。カップルにならなかったなぁって思って」
「あ」
「でも、そりゃそうか。企画とはいえカップルになんてなったら、相手の女の子が大変な目に遭いそう」
「だめじゃない?」
素っ頓狂な声が出たことに、自分で驚いた。
「そうよ、だめに決まってる。そんなことが起きたら、番組がお蔵入りだ」
「そうだけど、そうじゃなくて。そう、そうなんだ」
「詩依子、何言ってるの? 大丈夫?」
そう。思い出した。
成立したカップルの中に、推しの姿はなかった。明日からの収録に、彼は参加しないということだ。
でも、彼が言っていたリベートの話。あれが本当のことなら、番組に出続けないと意味がないのでは?
いや、待て。
やっぱりおかしい。
よく考えたら、中村蕎の出演が公表された時点で、配信側に対して大ブーイングが起きたって不思議ではないのだ。契約者どころか、むしろ解約者が増える。そんなことは火を見るよりも明らか。さっきは推しに会えた感動と緊張で、頭がうまく回っていなかった。
まさか出演を公表しない? いや、それこそまるで意味がない。番組の内容を明かさずに、出演の公表だけするとか? いやいや、そんなこと不可能でしょう。
「どうしたのよ、いったい」
綾乃の問いかけを無視して考えても、一向に答えが出ることはなく、そのまま目的の階に着いてしまった。ドアが開く。
スーツが視界に入った。
「内田詩依子さん。ちょっとお時間よろしいでしょうか?」
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