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きたよ、現実味。
二人掛け用のテーブル席。
真向かいに座った、素材のせいだけでは絶対にない、光を放ち神々しいスーツの持ち主を、直視できるわけがない。胸元のネームプレートばかりを熱く凝視しているから、あり得ないと思いつつも、そろそろ溶けてくるのでは、と心配になってしまう。
「詩依子さん、ですか」
「ふ、はい」
「腐敗? ふふ。おとなしいんですね」
誰かが噴き出しやがったのが聞こえて、暗殺者ばりに目線だけで会場内を探る。斜め前方に、綾乃の後ろ姿があった。うつむいて肩を揺らしている。特急料金の請求は確定である。
ホテル内の広々としたホール。ここにも、エンジ色の絨毯が敷き詰められている。普段は、宿泊客のディナービュッフェの会場として使われたり、企業の入社式が催おされたりする場所なんだろう。
そこに、十五組のテーブル席が設置されている。撮影クルーがハンディタイプのカメラをかついで、回るように移動していた。
「僕、蕎って言います。ここには名前だけだけど、姓は中村」
白魚のような、とはよく言ったもの。細く白く長い指が、ネームプレートを触った。そこには、ファーストネームと共に年齢も記されている。彼は二十七歳。
女性側は配慮して欲しいところだったが、それだとフェアではないとでも言うのか、わたしのプレートにもがっつり記載されている。三十歳。
一瞬、ギャグのつもりなのか、と勘繰った。
「知っとります」
大袈裟でなく、きっとこの国に暮らす女性の大半が知っている。
そんな有名人が、しかも、五年前のデビュー当初から応援してきたアイドル様が、ノンフィルターの状態で同じ空間にいる。向かい合って座っている。平常心でいられるものか。
さっきは唐突すぎたのだ。目に映る現実に、ようやく感情が追いついた。
「本当ですか。嬉しい」
弾ませた声に、取って付けた感はないけれど、まさか本気で自己紹介していたわけでもあるまい。驕った印象に取られないように、どこへ行ってもそうしなさいと、事務所側から躾けられているのかもしれない。
売れっ子は大変だと同情しつつも、落ち着かない。
上品なコーヒーカップに手を伸ばす。おおう、手が震えている。ソーサーとカップの底が擦れ合って音が鳴る。ちょっとした地震並みだ。震源地はわたし。
噴き出す推し。
「こういう、婚活的なイベントは初めてですか?」
「そそうですね。いや、粗相したわけではなくて。あの、はい、初めてです」
「そんなに緊張しなくて大丈夫ですよ。こう言っては何ですけど、どうせ番組の企画です。やらせみたいなもんだから。気楽に」
いや、無理です。
ガチガチになっているのは、三十路を過ぎて人生初の婚活だからでも撮影のせいでもなく、アリーナ席からの眺めよりも断然近い距離に、自分の推しがいるからですって。
五分間のフリートークタイムは、実のある話を何もできないで終わらせる自信しかない。
「今は、番組作るほうもいろいろと大変みたいで。視聴率のために、ノリでカップルにさせられたり、無理やりスキンシップさせられたりも、ないはずですし」
「それはおおいに残念な」
「え?」
「い、いえいえ!」
つい本音が。
手を振った拍子に、顔が上がって、とうとうその姿をしっかり見た。
「それとも、番組の収録が初めて? 大丈夫ですよ。リラックスして……どうしました?」
「救命士の御園尾くんが……目の前に」
「あ、それ。今やらせてもらっている、僕の役名。ドラマ、観てくれているんですか?」
当たり前だけど、はにかんだ笑顔もそのまんまだ。
貧血を起こしそう。鉄分は身体の中に申し分なくあるはずだけど、くらくらと眩暈に襲われ、再び首を折る。動悸が激しい。誰か気つけ薬をおくれ。
「……み、観ております。全部チェックしてます。ドラマだけじゃなくて、バラエティも」
「え、嬉しい! ひょっとして、僕のファンとか?」
目を輝かせて身を乗り出してくる、キラキラ顔面の破壊力が凄すぎて、血流が一気に顔にのぼった。今度は噴火の危機。とっさに声が出せず、関節から外れて飛んでいくのではという勢いで、頭を上下させた。
「うわー、嬉しいです!」
ああ、可愛い。泣きそう。青くなったり赤くなったり涙ぐんだり。立派に情緒不安定だ。
でも、しかたがない。例え演技だとしても、整った顔をくしゃくしゃにして屈託なく喜ぶ推しが、大好物でないファンなどいるものか。
「……だ、だから、びっくりしましまして」
我ながら、そこで噛むか、と自分の頬を殴り飛ばしたくなった。何だ、しましまって。馬の仲間か、迷彩より見つけにくい柄の服を着たメガネキャラか。
そして、三十代の本気のヘドバンは、ともすると脳の血管がぶち切れそうになるのだ、という事実にもびっくりしている。
「あぁ、ですよね。実は、僕もびっくりして」
緊張で噛み噛みの女性の相手など慣れっこなのか、推しはまったく動じない。年上のファンに気を遣ってスルーしてくれているのかと思うと、ありがたいやら恥ずかしいやら。
「え?」
「出演、急遽決まったんですよ」
「急遽」
「そう。なので、参加者リストの公表には間に合わなくて」
そういうことでしたか。
ふと見れば、会場内の女性陣の誰もが、合点がいった、とうなずいていた。
なるほど。皆さん、自分たちの相手そっちのけで、こちらの会話に全神経を集中させていたわけですね。
わかります、その気持ち。わたしだってこの持ち時間が終了したあとは、そっちの立場になる確率百パーセントだ。
「で、でも、よく受けましたね。このオファー……」
それまでよりずっと声量を落として、こそこそと言った。
「よく、と言うと?」
周りに聞かれないほうがいい話だと察知してくれたらしく、同じく小声で訊き返してくる推しだが、質問の意図はわかっていないご様子。
「え? えっと……だって、何のメリットもなくないですか?」
配信側が、広告の公開に間に合わないくらい間際になってから、唐突に彼を参加者に加えた理由は、なんとなくわかる。
たぶん、急に不安になったのだ。
怪しいコピー付きとはいえ、そのバナーをタップして開くこと自体はためらわなかった。
送信元ははっきりしている。詐欺の心配はない。どういう内容かも、開く前にだいたい推測できていた。
思った通り、それは婚活イベント。
男性と女性十五人ずつを都内の某所に集めて、集団お見合いのようなものを開催する、といった概要だった。その様子を撮影して、ウェブ上の番組として放映するという。リアルな恋愛模様を観察できるドキュメンタリーは、いつの時代も人気の高いジャンルだ。
男性参加者は芸能人。すでに、主催者側でリストアップされていた。女性の参加者を募るバナーだった、というわけだ。
ただ、芸能人は芸能人でも、その面々は最近めっきり露出の少ない方々。
予算の問題なのか知らないが、それでも、かつて一度でも一世風靡した芸能人を起用することは、多少は話題になるんだろう。掴みさえ良ければ、あとは編集次第で視聴率をキープできる。そう考えたのではないだろうか。
ところが土壇場で、それ過信かも? と不安になった。
そこで保険として、今最も飛ぶ鳥を落とす勢いの人気俳優、中村蕎に白羽の矢を立てた。あり得る。
だけど、中村サイドが受ける恩恵が見当たらない。
「そんなことないですよ」
推しの笑顔に嘘は感じられないけど、わからない。
なにせ俳優なのだ。ゲスト出演したドラマでの演技がうますぎて、それ以降、役者としての仕事のオファーが殺到し、本来のアイドル活動に支障が出たという逸話があるほどの、演技派俳優なのだ。
「でも……他の出演者さんなら、わかりますけど……」
そっと会場内を見回す。
一時期、その顔を見ない日はないというくらい、バラエティー番組に引っ張りだこだったお笑い芸人。辛口批評で一躍時の人となったが、飽きられるのも早かったインテリ系コメンテーター。デビュー作が歴代一位の興行収入を叩き出したものの、それっきり泣かず飛ばすのアクション系俳優。
彼らにとっては、人気の動画配信サービスからのオファーは、起死回生のチャンス。落ち目タレント救済企画とは、我が親友ながら言い得て妙である。
だけどもちろん、中村くんにはそんなもの必要ない。
「なるほど」
控えめに辺りを見渡して、中村くんはうなずいた。
「けっこう辛辣ですね。詩依子さん」
「……ふ、ふああ、すみません」
やばい、幻滅されたかも。
いや、そもそもこうして、言葉に耳を傾けてもらえているだけで奇跡。ミラクルなのだ。
わたしみたいな一般人が、しかも年上の三十路女が、国宝級のイケメンアイドル俳優に、好かれるとか、嫌われるとか、そんな次元に達することができると考えるほうが、おこがましい。
「うーんと、そうですね。この番組は、ウェブ上でしか公開されないでしょう?」
中村くんは、まるで子供に言い聞かせるような口調で話し始めた。
「サービスを契約している人しか、視聴できない」
「はぁ……」
「つまり、僕が出演することで、新規の契約者が増える可能性が高い」
「それは、まぁ……」
わからなくもない。
中村くんの出演については、撮影の最中か配信直前か、いずれにしろ正式に公表されるんだろう。そうなれば確かに、それまでサービスの契約に踏み切れなかった、彼のファンの何人かは、背中を押されるのかもしれない。
「その対価が、いくらか入るってことですか……」
おずおずと窺ってみる。
しかし、せっかくの憧れの相手との貴重なトークタイムに、なんて色気のない話をしているのか。
「内緒ですよ」
中村くんは人差し指を唇に当てて、にっこり笑った。
そんな王道の仕草。鼻血吹くってばよ。
でも、本当にそう?
「納得、いってない感じですね」
「え? うーん……」
彼の話を疑うわけではないけれど、新規の契約数は、期待するほど多くない気がする。
だって、放送される予定の番組は、恋愛バラエティーなのだ。
ドラマや映画ならわかる。でも、彼の、特に熱狂的なファンは、自分と同じ立ち位置の女性たちと絡む様子なんて、死んでも見たくないに違いない。やらせとわかっても、だ。
「でも、事実なんですよ」
「はぁ」
それ以上の詮索はやめにした。
彼がそう言うんなら、そうなんだろう。それもまた、事務所側からあてがわれている、テンプレートの答えなのかもしれないが。どちらにしたって、わたしには関係のない話。
それよりも、この貴重な時間をもっと楽しまねば。こんな近くで推しと話せる夢のような機会なんて、この先もう二度と訪れないのだから。
「じゃあ、僕も質問です。詩依子さんは、どうしてこの企画に応募したんです?」
前のめりになって、急に好奇心をあらわにした彼に、少し面食らう。新任の教師に興味津々でしかたがない、小学生さながらの雰囲気だ。どちらかと言うとクールな印象だったから、意外な思いがした。
「それはまぁ……」
濁してみる。
「お付き合いとか、結婚したいなと思う芸能人がいたから?」
「まさか」
そこは即答だ。
「あ、じゃあ、お友達の付き添いかな。さっき、一緒にいましたよね」
「そうじゃなくて」
「え?」
「結婚なんて、来世でもするつもりないので」
彼が目をしばたたく。
しまった、と舌打ちしたくなると同時に、MCが吹く五分間終了のホイッスルが鳴った。
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