与える男
行方かん(YUKUKATAKAN)
1
わたしの記憶が、確かならば。
そんな決まり文句があったな、と思う。
料理番組の中で使われていたものだ。
放送当時は小学生だったから、のめり込んで観ていたわけではなかった。それでも、シェフ同士の料理バトルが概要だった、その番組がおおいにうけて、MCが発するその決めゼリフもおおいに流行ったことは、うっすら覚えている。
「わたしの記憶が確かならば」
そんなおぼろげな記憶の中のセリフが、この口をついて出る日がこようとは。
「なんだか聞いたことある。料理の達人だっけ」
一緒に受付の順番を待っていた
昨日、美容院で施してもらったマツエクの角度が、どうにも気に入らないらしい。特急に乗っていた時から、ずっとこんな調子だ。
「達人だろうが鉄人だろうが、どちらも半端なく料理の腕が優れていることには、違いないけど」
「凄腕シェフがどうしたって?」
「あれ。中村くんではないのかな」
絨毯の上を、パンプスで歩くことには不慣れだ。いや、そもそもパンプス自体を履き慣れていないのだ。
さほど高くないヒールだというのに、何度もけつまずきながら進んできた、高級感のあるエンジ色の廊下。そこを、階段とは逆の方向から、颯爽とやってくる男性がいた。スーツ軍団を引き連れている。
そちらを指さした。
「誰。シェフの知り合いなんていないし、
綾乃は、まだ鏡の中を覗き込んでいる。
「
その名前を放った時、ちょうどその本人が隣を追い越していった。
見下ろしてくる目と、視線が絡み合う。
涼しげながら愛嬌も感じられる、奥二重。高い鼻筋。薄い唇が、微笑むように少しカーブしていた。
光沢のある黒いジャケットの背中が通り過ぎたあとに、爽やかなミント風味の風が薫る。
「中村、蕎……?」
その後ろ姿をさす、綾乃の指が震えている。
イベントの参加者である、他の女性たちも気づいたようだ。受付の列、その先のホールの中でも、甘いどよめきがさざ波のように湧き上がった。
「わたしが先に言いました」
「アイドルグループの……」
「去年までね。グループを脱退して、事務所も変えて、この春からは俳優業」
「中村蕎がなんで? この婚活イベントって、落ち目タレント救済企画じゃなかった?」
綾乃はわたしのワンピースの肩を掴んで、ぐらぐらと揺らしてくる。
「わたしを差し置いて興奮しないで」
「そ、そうだよ! 詩依子の推しじゃん! 確かならば、なんて曖昧な記憶の相手じゃないでしょうが! なんでそんな冷静なの」
「ねぇ、不思議。現実味がないのかも」
そのバナー広告を、ECサイトを漁っていて見つけた、と綾乃が知らせてきたのは、一ヶ月ほど前。
綾乃がよくショッピングに利用するそのサイトは、動画配信サービスを関連会社に持っている。オンライン上でのみの放映権しか認可されていないが、番組の人気はそれなりにあった。
『憧れの芸能人と結婚できるかも?』
綾乃から送られてきたバナーには、怪しすぎるコピーが付けられていた。
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