第175話:【後】傷。

 ハイゼンベルグ公爵家別邸のお風呂場は、教会宿舎のお風呂よりも大きくて綺麗だ。脱衣場で服を脱いで丁寧に畳んで、籠の中へと入れる。介添えの侍女がナイに付いているはずだけれど、姿が見えない。


 「リン?」


 きょろきょろとしている私に気が付いたようだ。


 「あ、うん。侍女の人が居ないから」


 「無理を言って席を外してもらったんだ。聞かれても困らないけれど、リンとゆっくり話したかったし」

 

 一体何を話すのだろう。最近の出来事だろうか。少し前に『人が居ない場所なら問題はない』と言っていたことがあった。その時のことだろう。おもむろにナイが上着を脱ぐ。


 「ナイ、傷が……!」


 綺麗に無くなっていた。彼女の身体には孤児時代に負った傷が至る所に残っていた。兄さんと私と出会う前から無茶をしていたのだろうし、出会ってからも無茶をすることが多く生傷が絶えなかった。

 一番酷い傷が、あの日の夜に男が負わせた腕の傷だった。少し肉が削げていたから自然に消えることは難しかったのだろう。


 「うん。話したい事ってコレのこと。――風邪引くと駄目だし、先に湯舟に浸かろう」


 私たちの傷はナイが聖女になったばかりの頃に『苦手だから練習台になって』と笑いながら、私たちに申し出た。その時はなんにも気付かずに『分かった』と言って、彼女に傷を治してもらっていた。暫くして、それが彼女の方便だったと気付いた時には遅かった。


 ナイも傷が残っているのだから治そうと言っても『お金が勿体ない』の一点張りだった。傷を治そうと告げる教会の神父やシスターにも同じことを伝え、それでも喰い下がると『仲間と共にあの貧民街で生きた証だ』と口にする。

 そう言われてしまうと多くの人が言い淀み、さらに踏み込むことが出来なかった。だから、彼女の傷は今の今まで残っていたのに。


 「ほら、掛け湯しないと」


 「うん」


 ナイは聖女に召し上げられ宿舎生活が始まると、毎日お風呂に入っていた。二日か三日空けるのが、王都の人たちの普通だというのに。

 出来ることなら毎日入ってさっぱりしたいし、寝る前に入ると良く眠れるから気持ちいいよと笑ってた。孤児生活の時には一切言っていなかったから、一度試して余程気持ちよかったのだろう。

 

 掛け湯を終えて私が先に湯舟に入ると、ナイが遅れて入る。教会宿舎の浴槽より大きくて、二人で入っても余裕が十分にあったけれど、話をするのならばと彼女の背に回り込んで後ろから抱きしめた。

 これが私たち二人のお風呂での定位置で、慣れ親しんでいる。話をする時も、彼女が疲れて寝落ちしないように見張っている時もだ。


 「……格好つけて傷を残してたけど、良い機会と思って治してもらったんだ」


 そう言って左腕を少しだけ水面から出したナイ。おそらくあの国でだろう。エルフの人は魔術に長けていると聞いたし、長命で技術開発に余念がないそうだ。

 綺麗さっぱり、傷があったことが信じられない程に治ってる。それを見て凄くホッとした。彼女の身体に残っている傷を見る度に後悔が押し寄せていたから。どうして私は魔術を使えないのか、使えてさえいれば彼女の傷を治せていたというのに。


 「良かった」


 抱きしめている腕に力を込め、身体を更に寄せる。


 「え」


 「本当に良かった……」


 治してくれたというならば誰でも良い。


 「ごめん。そこまで気にしていたなんて思ってなかった」


 自分のことは勘定に入れないことが多い彼女。お金が勿体ないというのも本心だろう。もしかしたら『孤児仲間と生きた証』もその為の方便の可能性だってある。でも、割と頑固な所がある彼女が、どうして折れたのだろうか。


 「ずっと気にしてたよ。だってあの時ナイは私を真っ先に逃そうとしてくれたでしょ」


 そう言って、彼女の左腕に傷があった場所を優しく握る。


 「……あ。分かってたの、リン?」


 「分かったのは最近……かな。その、遠征とかで軍の人たちが話しているのを聞いたりするから」


 男の人が多い世界だ。知識は自然についたように思う。兄さんも目の前の彼女も、そういう知識は疎いと感じているようだけれど、必要なことだろうと本能的に受け入れたから。


 「…………そっか。リンも大人になったねえ」


 くくく、と笑うナイ。パシャリと湯面の音が鳴る。


 「何の相談もせずに消したのは、これから人目に触れる機会が多くなるし、傷を見て『治そう』って言われることもきっと多くなるから」


 ナイが今回引き起こしたことが、国をあっと驚かすものだった。私も信じられないけれど、これから環境がガラッと変わってしまうのも、なんとなく分かってる。

 爵位を与えると王さまから言われたし、屋敷も与えてくれるって言ってた。だから彼女のお世話をする人が必要だ。貴族って面倒で、そういう体面は大事にしているから。他にも人を雇うことになるのだろう。


 「ごめん、ちょっと疲れたかな。――これからを考えると、どうにも気が重くなっちゃった。アリアさまにも格好つけて説教したのに、凄く馬鹿だよね」


 彼女の介添えをする侍女たちが同じ人とは限らないだろう。教会や王族、公爵家の人間、いろいろと入れ替わり立ち代わり。

 聖女という立場は高潔やら清廉やらとイメージが周囲の人に刻まれていて。身体に傷なんてあり得ないと、反応する人が大多数。その度に、同じ言葉で否定するのは疲れる。


 「そんなのどうでも良いよ。良かった本当に、良かった……」


 疲れても恰好が悪くても、ナイはナイだ。


 「ごめんね。ずっと気にしてたなんて思ってもいなくて……」


 腕だけを伸ばして頭を撫でてくれる。


 「ナイは自分のことになると途端に鈍くなるから」


 「う……。よく言われる」


 ふと下を見る。少しだけ生え揃えていた彼女の下がつるつるになっていた。

 

 「あれ、剃ったの? 絶対に残すって言ってたよね」


 身支度をするシスターさんたちに言われて、慌てて拒否をしていたことを思い出す。衛生面で剃っている人が殆どだったけれど、ナイは見た目が子供だから、大人の証としてここだけは死守すると言ってたというのに。


 「公爵家の侍女さんの圧が凄かったんだよ……勢いに負けた……怖かった」


 う、と泣きそうな顔になるナイを更に抱きしめる。


 「お揃いだ。嬉しい」


 「そんなことで喜ばれても」


 「ナイ」


 これからも一生ナイの傍で兄さんと私で彼女を守っていく。『黒髪聖女の双璧』と二つ名で呼ばれていることは知っているし、もっと有名になれば彼女の名声にも繋がる。

 ナイだって私たち以外を専属護衛にする気はないと教会に公言しているから。でも気持ちはちゃんと伝えよう。


 「ん?」


 「これからも一緒に居ようね」


 「うん、きっとジークとリンが居ればなんでも乗り越えられる。それにあの二人も居るしね――……って、リン! 締まってる、力強い!!」


 「え、あ、ごめん! ちょっと力入れ過ぎたね」


 死ぬかと思ったと小声で彼女が零していた。そんなに強くした覚えはないけれど、魔術師系の人は身体強化を苦手としているから仕方ない。


 ナイをないがしろにする人が居れば、ぶん殴る。単純で明確で分かりやすい。私は兄さんみたいに知恵は働かないけれど、力にだけは自信があるから。彼女の立場は随分と上がっているので、これから今までと同じ生活が送れるとは限らない。


 でも……それでも、彼女の傍に居させて欲しいと願うのだ。

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