第97話:私刑。
暗く湿気た地下室の牢屋。あの目の前に居る繋がれた男は……。
「……はっ」
気持ち悪くなって、片手で口元を押さえる。そうだ、目の前の男はジークとリン、私が八歳の頃。孤児仲間の一人が道を突然飛び出し、馬車を引く馬を驚かせ、その場に留まることを余儀なくされ苛立った男が、感情のまま仲間を切り殺した。その張本人が今、目の前に居る。
「ナイ?」
非公式な場だから、珍しくジークが声を掛けて、たたらを踏んだ私の顔を見る。
「顔色が良くないな。外に出るか?」
「だ、大丈夫。――ジーク……リン……覚えていないの……?」
仲間を切り殺した男はおそらくお貴族さまだ。馬車に家紋があり、逆らってはならない人物だと理解していたのに、当時の私は怒りに身を任せて噛みついた。男が更に逆上すればジークやリンの身も危なかったと、後から気が付いて一人で猛省していた記憶がある。
「何がだ?」
「?」
どうやら二人は覚えていないようだ。小さかった頃だし、生きるか死ぬかの毎日だったし、何人も孤児仲間は死んでいる。
だから二人が覚えていなくても仕方ないし、責める気もない。前世の記憶がある所為か、幼い頃の記憶がはっきりと残っている私の方が異常だし、男が年を経て痩せているのも二人が気付いていない原因の一端だろう。
「――閣下、夫人。申し訳ありませんが、少しだけお時間を頂けますか?」
「ええ、構いませんよ」
「水を持たせましょう、少しお待ちください聖女さま」
ジークがこの屋敷の主人たちに声を掛けると、私の視界、ようするに牢屋の中の男が映らないようにに二人が前に立つ。伯爵家の騎士が急いで階段を登っていく音が、やけにはっきりと聞こえた。
「ナイ、黙るな」
「ちゃんと教えて」
リンが私の片方の脇に腕を回して、おぼつかない足を支えてくれる。二人に伝えてもいいものなのだろうか。
現場は二人も見ており、一緒に仲間の死を悲しんでいたのだから。そして仲間を埋葬することもできないまま、ただ彼の死体が街の衛兵に回収されるまで放っておくことしかできず、己の無力さを痛感したのだ。
「随分と前になるけれど……あの子が馬車の前を飛び出して、切られた時のこと……覚えてない?」
「お前、まだ覚えていたのか」
「ナイも覚えてたんだ。でも、なんで今?」
そっか。仲間が死んだことを覚えていても、その原因を作った男のことまでは覚えていないようだった。
覚えていない方が良いに決まっている。私のように、こうして突然訪れた再会で、心の中に仄暗い感情が満ち始めているのだから。
「あー……うん。覚えていないならいいんだよ。思い出さない方が良いだろうし」
思い出さない方が良い、知らない方が良い。牢の中の男はジークとリンの母親が亡くなってしまったことに関わっている人物なのだから。
さらに余計なものまで背負わなくていい。私の軽率な行動で、更に彼らの心に傷を負わせるようなことになって欲しくはない。
「ナイの態度で何かがあったのは察することが出来るし、今黙っていても俺たちが思い出してしまえば結局は同じだぞ」
「…………あの子を切った本人だよ。今、目の前に居る男の人」
私を真っ直ぐ見据える紫色の瞳四つに射抜かれ、結局は吐露する羽目になる。
「え」
「そうか。――……言われてみれば確かにあの時の太った男に似ている」
痩せているし、月日が過ぎている所為で随分と老けているし、ド派手で目立つ衣装だったあの時とは打って変わって、平民服に身を包んでいるから、同一人物と分かり辛い。
「失礼いたします、水をお持ちいたしました」
護衛の騎士の人に礼を言って、カップに入った水を一気に飲み干す。行儀が悪いけれど、今の気分をどうにか変えたかった。水を飲んで少し落ち着いた私を見て、伯爵さまがこちらへとやってくる。
「聖女さま、ジークフリート、ジークリンデ。――あの男をご存じで?」
私が居るから、敬語にならざるを得ない伯爵さまが、男を背にしつつ一瞥する。
「はい。存じているかと思いますが、私は貧民街出身の孤児です。その時に少々……彼とは面識があります。ただ、覚えているかどうかは分かりませんが」
孤児の存在なんてお貴族さまから見れば、路傍の石だ。そんな昔のことは覚えていないだろう。仮に覚えていたとしても、鼻で笑われるのがオチである。
「少し詳しくお聞きしてもよろしいでしょうか?」
他愛のない話だし、伯爵さまに話したところで何の問題もない過去の出来事である。数分もしない内にあの出来事を話し終えると、伯爵さまと奥方さまは微妙な顔をして牢の中の男を見るのだった。
「なるほど。二人だけではなく聖女さまとも関係があったとは。――とはいえ王都の中の出来事ですから、そういうことがあっても不思議ではないのでしょうね」
そう言って、伯爵さまが訥々と語り始める。
牢の中の男は二代目で、先代である父が功績を上げて叙爵したそうだ。その方法はヤクザの様な強引な手法を取り、悪名が広がっていったそうな。
ただ男は王都の不動産を随分と多く取り扱っていた。伯爵は男と接触し、家を一つ用意して欲しいと頼むと、人好きのする笑みを浮かべて快諾した。
「私の失敗でしたねえ」
そう零しながら伯爵さまはまた言葉を続ける。
迷惑を掛けないようにと黙って伯爵邸を去ったお手付きの侍女を探すことに、そう時間は掛からなかったそうだ。女の身ひとつで王都を出て、違う街で定住するには随分とお金が掛かる。伝手もない元侍女は、王都の安宿で日々をどうにか凌いでいたのを伯爵さまが見つけ、男が紹介した家を与え支援をした。
そして奥方さまの妊娠と侍女の妊娠報告がなされ、伯爵さまが知ることになる。
長子と同時期に腹違いの子が出来るのは不味いし、日々腹の大きくなる奥方さまの姿を見て、お手付きの侍女との再会は諦め金銭支援のみに徹したそうだ。
「その考えが甘いというのです。何故、関りの薄い者に安易に金銭を渡すのか……」
今度は奥方さまが、たじろぐ伯爵さまに変わって言葉を紡ぐ。
金銭支援は家を用意した不動産屋、ようするに男を仲介して行っていた。ただ随分とアコギな手法で商売をしていた目の前の男は破滅する。
お貴族さまの間では良い噂はなく、知らぬ間に地雷を踏んでいたのだろう。男の貴族としての栄光は直ぐに終わり、家も財産も失って露頭に迷う羽目になったそうだ。
それが最近のこと。
「ジークフリードとジークリンデは手に職をつける為に職人の家に弟子入りしたと聞き、独り立ちの準備を始めていると思い込んでいましたから、私。すっかり騙されていましたよ」
母親を失いジークとリンが路頭に迷っていたという事実を、伯爵さまが最近まで知らなかった理由がようやくわかった。
事業を手広く広げたあげく資金繰りがどんどん悪くなっていたので、小金を得ようと必死だったらしい。
最初はきちんと手渡していたそうだが、お金に困っていた男は一家族分の生活費でも魅力的だったらしく、途中から着服し始める。伯爵さまには迷惑を掛けられないと、元侍女……ようするにジークとリンの母親はその事実を伏せたまま、働きに出て体を壊し治療を受けられないまま亡くなってしまったそう。
お手付きの侍女が死んだ事実を隠したまま、お金だけ男は得ていたそうな。
相手が伯爵さまだったので、ここ最近までバレなかったようだ。そうしてちょっと、いや大分間抜けな伯爵さまに変わって奥方さまが事態に介入して露見。
「さあ、聖女さまでも、ジークフリードでもジークリンデでも構いません。目の前の男の首を落としてしまいなさい。――これで少しは気が晴れるでしょう?」
果たしてそうなのだろうかと、三人顔を見合わせるのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます