第3話
『空と海の遥けき人』
瀬戸内海に面する小さな街へ行った時の話。
その街の観光は、ほぼ海しかない。日がな一日海にいた。浜辺を歩いて砂浜の貝殻を拾ったり、時々カニがうかつにも砂の表面に出て来て、人影に逃げていく姿を見たり、打ち寄せる波に海の海蘊{もずく}やワカメを手に持って海女{あま}になったりしていた。
宿泊施設は、恐らくその街にはそこしかない、海の目の前の少し古い建物だった。泊まった部屋はあいにく海の反対側に面していた。部屋にいる時は、廊下に出て海側に面する窓の前にある、テーブルと椅子のコーナーで飲み物を飲みながら海を眺めていた。
日が海に沈みゆくそのあとは、空も海もその境界が分からない程に真っ暗となる。窓の外はこんなにも光一つない暗闇に、部屋の窓から見える住宅の灯りにほっとする。上の階にある大浴場に行き、風呂に浸かりながら話し声に聞いた。
「今日、海で遭難者がでたのよ。今も空から海から捜索が続けられているのよ。」「部屋の窓から時々、空にも海にも灯りが見えるでしょ?あれは救難救助のヘリコプターと船の灯りなのよ。」
えっ!知らなかった。私の部屋は街側だから、海は廊下に出なければ見えない。心臓がドキドキ鼓動が早くなるのが分かった。
「早く見つかるといいわね。」「ほんとよねぇ」
(本当にそうですね…)私も心の中で同じ気持ちでいた。
風呂から上がり、部屋への帰りに海側の窓から幺微{かすか}な汐の香が届く程の海の近さを、外の恐らく空の暗夜に思った。エレベーターで、なんとなく1階のフロントまでのボタンを押した。
ドアが開くと、正面玄関の前に救急車が停まっていた。音を消したサイレンの明かりが、ガラスの入口の扉越しに点滅しているのが見えた。他の窓の外もその照明が点滅していて、植木が赤く照らされていた。
ロービーを歩いて行くと、救急車からストレッチャーが降りてきて、玄関の自動扉が開き中に入って来た。違和感を感じながらすれ違いざまに、強い汐の香がした。海の淵の香だ!私は振り向いてストレッチャーを見ると全体に白い布が掛けられていた。
言葉が無かった。今ほんのさっき無事を願っていたばかりだったのに。私は思わずその場の床に座ってしまった。涙が込み上げ耐えきれず嗚咽して泣いた。ホテルの係の人が来てくれて支えられて立ち上がり、ロビーを見ると数人の外国人がストレッチャーを取り囲んで皆泣いていた。
ホテルの人が「明日、飛行機で本国へお帰りになるそうです」そう教えてくれて、その人も目にいっぱいの涙を溜めていた。
一人の外国人の若い男性が、ストレッチャーを押して歩き出した。その人は真っ直ぐに顔を上げてその先へ、その先へ、その先がまだあるんだ、と強い意志が伝わってくるような姿勢の歩みだった。
翌朝、私はまだ宿泊する予定で、今日は1日どう過ごそうかと、街の案内ガイドブックを見ながら部屋にぼんやりと過ごしていた。早朝にヘリコプターの音を聞いたような気がした。朝食のあと、外へ出た。
海の潮の香が強くする波間の中まで歩き行くと、昨日と変わらない風景、家族連れやカップル、たくさんの人達と、海はどこまでも何も他にはない、延々と水平線からやって来てやがて大きな波となって波打ち際に寄せては返し、波が引いたあとの砂浜には昨日のカニが歩いていた。
天気はどんよりと曇り、気分も少し曇っていたが、夕方、サンセットクルーズ船に乗り、沖まで出て海の波をこの波、この波、と一つづつ見ては消えていく海の満たされた海水面を眺めて、今の私の日常にはない海に満たされる思いがした。
空は曇ったままで、あいにくサンセットは見えなかった。段々と薄暗くなり、宇宙の色が空に透けて見え始め、あぁ今日も空と海は一つに灯りもなく夜を迎えるのだな、と水平線を今のうちに見ておこうと船のデッキにいた。
私の少し離れた隣に3人の若い外国人男性がいた。手には大きな花束を持っていた。その人達も言葉少なく、ずっと海をただ見つめていた。
昨日の、あの海の淵の香の人の友人なのだろう、と思って私も隣で同じような気持ちで海を波を一つひとつ目で追いながら見ていると、高波と高波の間にまるで停止しているかのような海面があった。
以前、テレビで海難救助の番組を見たことがある。夜は視界も悪く、特に悪天候の時は空から海面への着陸は相当に難しい。だけと、波が止まるような瞬間がある、それまでずっと海面を凝視して待つのだと、海難救助の人が言っていた。
私は思わず大きな声で、「迎えに来たわ、あなたを迎えに来たわ」と叫んだ。隣の外国人の男性達も、その停止している海面を見ていた。そして外国の歌を歌い始めた。それは、おそらく海の淵の人の国の国歌なのだろうと思った。
歌い終えると、1人の男性が手にしていた花束を海へと捧げた。私も手を合わせてその花束を波間にいつまでも見送った。3人と無言に目を合わせて、静かに下船した。
夜のニュースでお名前が報道されたが、私はあえて見なかった。同じ時間の中に、偶然に居合わせた人は確かにそこに居た。その時間は続いている。目に見えない存在は、本当に終わってしまったの?遠くへ行ってしまったその先へ、その先へと想いは続いているのだと私は思う。波がどこまでも続いているように。
今でも海凪に潮汐の香に思い出す。
あの海の淵の名前も知らない空と海の遥けく人を。
追記。
私がロビーであまりにも泣いていたので、外国人の年配の女性が私の近くにきて、私の手を取りストレッチャーの側に連れて行き、ストレッチャーの布をめくりお顔を見せてくれた。白人の若い男性だった。胸に銀色のペンダントを付けていた。
その女性はその人の母親で、私のような恋人がいて泣いていてくれるような気持ちになった、と言って2人で泣いた。その泣き顔は今も忘れられない。
海の淵 かおりさん @kaorisan
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