応援コメント

押し出される チェーホフ『桜の園』」への応援コメント

  • 今回の解説も面白かったです^^*
    悲しいけれど、それぞれの登場人物は新たな生活へと歩み出しているのですね。
    変わらずにいる物も場所がないのは現実でもそうだよなあと思いました。

    作者からの返信

    なにごとも移ろっていきますものね。その事実をどう受けとめ、どう引き受け、どう立ち向かい、どう諦めるのか。いずれ何処かへ押し出されてしまうものだからこそ、生は常に重大事であり得るのだ、などとも感じます。


  • 編集済

    確かに、と思いました。結局のところ、物事とは、なるようにしかならならず『押し出されて』しまうものなのかもしれません。
    また、どこかで『押し出され』ることを願っている節もある。
    結果、それを知っているからこそ、気を取り直したり、諦めがつくのかも。

    今回も、とても面白く勉強させて頂きました。ありがとうございました。

    作者からの返信

    主体性や自己決定が、実際にはどの程度可能なのか。人間には限界がありますよね。しかし世界は常に動いており、人間はその大きな流れに押し出されていくという事実が、逆説的に、人間に〈動く〉余地を与えているのかもしれません。
    ご覧いただき誠にありがとうございます!

    編集済
  • 「遠いものの表現」が大変勉強になりました。
    聴覚を刺激して奥行きを持たせる。
    戦争フィルムに悲し気なクラシックを流すと、なぜああもしっくり来るのだろうと不思議に思っていましたが、あれも遠いものの一種なのかと思いを馳せておりますー(・v・)

    作者からの返信

    わぁい、ありがとうございます!
    聴覚と奥行きの関係から、戦争フィルムとクラシックを想起できるのは、うちはとはつんさんの感性の鋭さを表していますね……!
    クラシック音楽は、主にルネサンス/バロックから世界大戦までの文化運動なので、戦争フィルムが映し出しているのはまさにクラシックの終わりであり、他方、クラシックが響かせているのは戦争から遠く離れたところにある何ものかですよね。


  • 編集済

    チェーホフに関しても完全に無知でありましたので、プロフィールにまず驚きました。本業があって、小銭稼ぎのために書き散らしていたとは……なんだか現代的ですね(不遜ながら共感のごときが湧いてきます)

    《真面目な話をしている真っ最中にきゅうりを食べ始める人とか出てくるよ。》

    「うわあ、いいなあ!」って思ってしまいました。ものすごくおもしろいし、センスを感じます。たしかに示唆するところがありますね。ヴォードヴィルとしての隈取りと言いますか。

    キツネ先生のご見解にもハッとさせられました。たしかに、存在という出来事は静止をゆるさないところがあって、好むと好まざるとにかかわらず(たとえ「自分は止まっている」と思い込んでいたとしても)押し出されてしまうのが現実であるように思われます。自分の人生を振り返ってみてもw

    今回もとっても楽しかったです!
    ありがとうございました!

    作者からの返信

    チェーホフってすごい面白いひとなんですよ!
    今回は紙幅(?)の関係で扱うことができませんでしたけど、体調が優れない中でいきなりサハリン旅行に出て流刑地の惨状を告発したり、コレラが流行る中で多くの村々の間を往診して回ったり。かと思えば、いつも持ち歩いている手帖にはナンセンスなジョークを大量に書き付けているんですよね。「コレラが怖くって死にました」「自分が幽霊だと思って気が狂った人。夜更けになると歩きまわる」「彼女の顔には皮膚が足りなかった。眼を開くには口を閉じなければならぬ。およびその逆」……。今際の際の言葉は何故かドイツ語で「私は死ぬ」。ユーモラスな短編、ニヒリスティックな短編をたくさん書き、モチーフがあまりにもバラバラだから、評論家からは「彼の頭の中には何もない」と評されることもあったそうです。彼の人間観察の深さと温かさには、ナボコフも一目置置いていました。
    彼の作品の脈絡を少しでも掴まえられたなら僥倖です。

  • 人間の営みってそうだよなぁ、と、納得するような物語ですね。桜の園。
    物質的なもので不変を保証されているものはなく、家だろうと園だろうと、持ち主は変わり形も変わり、別の姿に開発されるか、風化して自然に還ってゆく。住んでいる場所が田舎で山に呑まれる廃屋を目にすることが多かったり、実家が被災地ですっかり様変わりした様子を見たりするので、余計にそう感じるのかもしれません。
    失ったもの、手放したものに、あきらめをつけ、新しい生活に心を向けることで、人は悲しみに面したとしても前に進めるのかもしれませんね……。

    作者からの返信

    すべてが流れ去ってしまう無常観というのは、日本人には文化的にお馴染みの感覚かもしれませんね。はとりさんのお話を聞いて、方丈記を思い出しました。
    否応なく変わってしまい、変わってしまうことによって先に進める、ということは、哀しいことでもあり、優しいことでもあり。生きている以上は、変化を前向きに捉えたいなと個人的には思います。一方で、例えば文学のような芸術においてこそ、〈変わらないもの〉という想像上の理念を追究してみたいと思う次第です。


  • 編集済

    今回もわかりやすく、とても興味深い内容で楽しく読ませていただきました。

    失われる『桜の園』。
    これを見て、昨年我が家の近所にだた一本だけ、40年以上その場所で時を重ねてきた桜の老木が切られてしまった事に思いを馳せたのです。

    >人類全体の前進のあり方だ。
    >やむにやまれぬ事情によって前進してしまう。言い換えると、世界や社会、環境や自然の状況によって前に押し出されてしまう。
    >人間の、ひいては生物の存在の条件は、(中略)決して立ち止まり続けることはできない。

    もう、激しく共感いたしました。
    毎年、満開の美しい花を咲かせてくれていた巨木が切り倒されてしまった事を、ずっと「悲劇」だと思い続けていたのです。
    ですが、その木があった場所に今は新しい家が建ち、新たな家族の笑いが溢れています。
    それは否応なしの前進であり、チェーホフとキツネさま仰るところの「喜劇」なのかも知れません。

    新たな気づきを、今日も有難うございます꒰˘̩̩̩⌣˘̩̩̩๑꒱♡

    作者からの返信

    長い年月を経て、桜の老木の跡地に建てられた家には、そうと気づかれずとも在りし日の桜の美しさが宿っているのかもしれませんね。そして、そのご家庭の笑顔こそ、失われた桜の象徴かもしれません。新しい幸せのかたちを見つけるお手伝いをできたのだとしたら、チェーホフも嬉しく感じているかもしれませんし、キツネも誇らしいです。
    素敵なご感想をありがとうございます!