倫理の生まれるとき 伊藤亜紗『手の倫理』
◆ご挨拶
こんにちわ、だいなしキツネです。
今日は、伊藤亜紗『手の倫理』を解説していくよ!
じつはキツネは社会福祉士のひとりとして、日夜、福祉の現場で奮闘中だよ。キツネの体験談なども交えながら、みんなで福祉のことを考えてみよう!
今回、この本を選んだ理由は、これが人間のコミュニケーションのあり方を一から考え直させる内容だからだ。福祉の現場ではいま、クライエントの権利の擁護・代弁、いわゆるアドボカシーを大切にしようという動きが強い。それ自体は素晴らしいことなんだけど、支援する人間に少しでも勘違いがあると、このアドボケイト機能は「支援者が代わりに権利を擁護・代弁してあげる」という一方向的な関係に傾きやすい。だからここで一度、福祉とは何か、倫理とは何かを改めて捉え直そうという姿勢が大切なんだね。
ではまずは、本書の著者である伊藤亜紗の紹介から始めよう。
◆伊藤亜紗とは?
伊藤亜紗は、1979年生まれの日本の美学者で、専門は美学、現代アート。2022年現在は東京工業大学の教授だよ。幼い頃から虫や花が大好きで、生物学者を目指していたこともあるという。そのせいだろうか、「生きる」ことの活き活きとした感覚にとても敏感な研究者、という印象だ。主な著書に『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』『目の見えない人は世界をどう見ているか』『どもる体』『記憶する体』など。身体性と社会性の接点で、相互のジレンマ、ジレンマから飛躍するための足場を模索しているように見受けられるね。美学というと高尚で抽象的な議論を思い浮かべがちだけど、伊藤亜紗はそんな空中浮遊を一切しない。高度な美学や倫理学の議論を参照しながらも、キツネたちの生活の現場に立ち戻ることを忘れない、どかんと地に足をつけた現代思想家だと言えるだろう。
◆『手の倫理』とは?
『手の倫理』は、伊藤亜紗が2020年に発表した著作で、人が人にさわる/ふれるとき、そこにはどんな交流が生まれるのかを考える作品だよ。「さわる」と「ふれる」の用語の違いから、人のコミュニケーションの様相に探究の手を伸ばしていく。題材として介助や養育、性愛、看取りなどを扱うので、まさに福祉の現場を一から見つめ直す契機となる論考だね。現代倫理学の先端議論に目配せしながら、当事者へのインタビューが豊富に参照されるのが特徴だ。
◆「さわる」と「ふれる」の違い
まずは、本作のキータームである「さわる」と「ふれる」の違いから確認しよう。伊藤亜紗は、哲学者坂部恵の議論を参考にして、この二つを次のように区別する。
さわる:一方的な接触。物的なかかわり。痴漢は「さわる」。
ふれる:相互的な接触。人間的なかかわり。恋人は「ふれ合う」。
「さわる」が悪だというわけではなく、例えば医師による触診のように、専門的な触覚が要請される場面もある。一方で、介助の現場では不躾に「さわる」のではなく人間として「ふれる」ことが要請されることもあるだろう。逆に、診察の場面で医師に「ふれられた」ら気持ち悪いのではないか。このように、「さわる」と「ふれる」の混同は人を大きく傷つけることがあり得る。わたしたちには、接触面のほんのわずかなディテールの違いを態度として読み取る能力があるんだ。結果として、接触には人間関係の本質が反映される。ここに触覚の倫理という問題が浮上してくる。現代では、他人の身体をリスクとみなす生き方が共有されている。しかし、不快な「さわる」を避けようとして、必要不可欠な「ふれる」まで捨ててしまっては産湯とともに赤子を流すような愚行をおかすこととなろう。
◆触覚の倫理
西洋思想は視覚優位の伝統を有している。かの有名な「イデア」とは、「見られたもの」の謂いである。近現代の多くの思想家も「まなざし」をモデルとして自己と他者との関係を捉えていた。主観/客観という表現には誰しも馴染みがあるだろう。
しかし触覚には、視覚へと還元できない特徴がある。幼少期には物を触ることによって物の性質を知り、それによって引き出される自分の性質を知ることが肝要だ。手を通して世界と出会い、自分自身と出会うんだね。これは教育学ではよく知られた事実だよ。
視覚障がい者にとっては「まなざしの倫理」はリアリティをもたない。レヴィナスは「他者の顔」との邂逅を他者性の不可欠の契機と捉えていたけれど、顔が見えない人は他者と出会えないというのだろうか。もちろんそんなはずはない。「顔」という視覚の倫理が相対化される局面があるということは意識されてよいだろう。「まなざしの倫理」は健常者の身体をモデルとしている。そうではなく、顔へのまなざしを共有しない者が、なお他者と出会う現場はどこか? それは、距離ゼロの他者関係を形成する場面だ。すなわち触覚の共有。その状態の良し悪しは生死に直結する。
倫理とは、普遍的な義務の要請ではなく、個別具体的な状況において何をすべきかという価値判断を問うものだ。「すべきだができるとは限らない」という混迷の状況においてこそ倫理が問題となる。触覚の倫理を探究することは、この迷いと向き合うこととなるだろう。不可欠なのは、具体的な行為を通して倫理について考えていくこと。例えば、「多様性」という曖昧な言葉で現状を追認することが倫理にかなうとは言い切れない。分裂、分断を肯定し、マイノリティへの迫害が看過されるような事態は現にある。むしろ、異なるものの間をつなぎ、同じ社会を構成する者同士として認めあうことの方に意義があるのではないか。触覚は物理的な接触であるから、必ず他者とのコミュニケーションが生じる。避けようもなく他人に口出しをすることになる。人間とは、ふれることによって干渉し、干渉されるもの。社会における多様性を曖昧に認めるよりも、人間一人の中にある多様性を探り合うことの方が大切なんだ。他者にありきたりなラベリングを施してよしとする風潮を、触覚の倫理は拒絶する。
ここで、西洋の触覚論について整理しておこう。
西洋の触覚論は「さわる」偏重だった。物にさわるときの認識論が中心で、他者の身体にふれる経験は等閑視されていた。西洋において、触覚は劣った感覚だったのだろう。感覚のヒエラルキーの最上位に君臨していたのは視覚だ。なぜ触覚は視覚より劣っていたか? それは、触覚には距離がないためだ。視覚は対象を自己から切り離して理性的に分析する機会を与える。これに対して、触覚は物理的に接触しない限りは認知が成立せず、しかも快不快の感覚と切り離すことが困難だ。欲望に関連しやすい触覚は、理性にとってリスクでしかない。
加えて、持続性の問題もあるだろう。触覚で得られる情報には時間的な制限があって、イデアのように抽象的で永続的な世界とは比べるべくもない。
しかし、だからこそ触覚に独自の価値を見出す余地はある。それが対称性の問題だ。わたしがわたしにさわるとき、さわられているのもまたわたしである。この主体と客体の入れ替え可能性を対称性と呼ぶ。曖昧な「わたし」の存在の輪郭を、まさに触覚が与えているということだ。
さて、この「さわる」に関する伝統的な議論を、ただちに「ふれる」場面に当てはめることはできない。伊藤亜紗は、「ふれる」に関する距離ゼロ、持続性、対称性の次元を丁寧に探究する。
◆ふれるとき、距離はゼロなのか?
「さわる」が表面をなぞるものだとすれば、「ふれる」は内面の知覚へと入り込むことだ。つまり、距離はゼロではなくマイナスなんだ。触感は触り方次第であるということを思い起こそう。赤ちゃんの柔肌を思い浮かべて? 表面をなぞるだけなら、そのなめらかさを感じることになる。でも、ぎゅっとふれあうときには、その子の体温と鼓動を通じて、安心感、緊張感、体調などを感じ取ることができるだろう。その子がいま何を考えているのか、そこまで読み取れることもある。生き物の身体は視覚にとっては不透明だが、触覚にとっては透明なんだ。あるいは、棒やロープを使った接触を考えてみよう。この場合、表面のふれあいの感覚は制限されるが、そのことによって逆説的に、身体の奥にある相手の心情が伝わりやすいという指摘がある。もちろん、ふれるということは常に安心を提供するものではない。むしろ、人との出会い直しを要請される瞬間だ。
◆安心と信頼
次は、安心について考えてみよう。
常に安心した生活を送ることができれば、人は自由になれるだろうか。必ずしもそうではないということが、安心と信頼の区別によって明確になる。安心とは、相手のせいで自分がひどい目にあう可能性を意識しないこと。信頼とは、相手のせいで自分がひどい目にあう可能性を自覚したうえでひどい目にあわない方に賭ける、ということ。社会的不確実性を認めて行為することが信頼なんだ。社会的不確実性がないということは、裏返せば全てがコントロールされているということ、具体的な場面における迷いを要請されないということ、すなわち倫理が問題とならない局面だね。きみはそんなリスクのない状況で、活き活きと生活することができるかな? キツネはそうは思わない。ふれることによって相手を知り、ふれられることによって主導権を手渡す、それがたとえ綱渡りだったとしても、その賭けの中でこそ人とのかかわりが生まれる。キツネたちがお互いのことを本当に認め合える社会はそうして形成されると思うんだ。とはいえ、信頼の基礎には安心の経験が必要だと思う。そのことはあとでキツネが私見として述べよう。
◆さわるからふれるへ
実際にふれるまでには、相手との信頼関係が必要だ。そうしてふれることによって初めて、お互いの意思や衝動を伝えあうことが可能となる。ふれるというのは持続的な行為だ。その最中にしか生じ得ないコミュニケーションがあるだろう。
コミュニケーションというのは多義的な用語だよね。キツネは以前、ハーバーマスの『コミュニケーション的行為の理論』を紹介した。そこでのコミュニケーションとは、当事者が相互に了解を得ようとする合理的な行為であって、決して他者を戦略的に操作しようとは意図しないものだった。
「ふれる」ことのコミュニケーションは、アナログで、持続的で、非コード的で、同期的な行為だ。実際にふれなければならないし、ふれている間でしか成立しないし、その意味するところは事前に明確化されていないし、相手と同時に成立する。ふれるといっても、それが常にマルチモーダルであることには注意が必要だろう。マルチモーダルとは、コミュニケーションの手段が複数あること、つまりは「ふれる」以外の情報伝達(※表情、声音、匂いなど)が同時に行われているということ。キツネはこのマルチモーダルに着目することで、ようやく『手の倫理』を自分の福祉の現場に活かせると感じているよ。これも後で述べよう。
伊藤亜紗は、概ね「さわる」が伝達モードで、「ふれる」が生成モードに基づくと分類する。伝達モードとはメッセージが一方向的で役割分担が明瞭なもの、生成モードとはメッセージが双方向的で役割分担が不明瞭なもののことだね。生成モードにおいては、やり取りの中で生じるメッセージのズレが次のコミュニケーションを生み出していく。コミュニケーションが意味創造の場として機能するんだ。こうしてみると、ハーバーマスが全く論じていない「ふれる」コミュニケーションは、彼が重視する生活世界の意味資源生成の現場としてこの上なく重要であると考えられるだろう。キツネたちが触覚の倫理を探究すべき所以だね。
伊藤亜紗は、障がいに関わる場面では、コミュニケーションが伝達モードに偏りがちであると指摘しているよ。パターナリスティック(※後見主義的)な判断が常に有効ではないということに、福祉関係者は自覚的であるべきだ。共に考え、共にその場で生み出していくという生成モードの発想は、現に身体的接触があるかどうかにかかわらず重視したいポイントだ。伊藤亜紗はこれを「さわるからふれるへ」と標語化しているよ。倫理は常に生成的だといえるだろう。逆にいうと、「すべきこと」を模索しながら「できない」ことに直面する現場でもある。できないことをその限界において認め合うことが、次のステップにつながるはずだよ。
◆対称性と共鳴
生成モードのコミュニケーションにおいて実際にやり取りされているものは何だろうか。伊藤亜紗はこれを「共鳴」と呼ぶ。生成モードにおいては役割分担が不明確なので、どちらが発信者で受信者なのか、境界が曖昧になる瞬間がある。このときむしろ生じているのは共鳴現象、すなわち、一方から他方へのメッセージの移転ではなく、同時的に同じメッセージが生起し共振しているということなんだ。伊藤亜紗は指摘していないけれど、これは倫理学の古典的な議論である、道徳感情論を思い出させる。人間は相互に独立しているが、他者への共感を通じて他者の問題を内面化し、自己規制を行う。それが相互に作用しあって、道徳的な社会が形成されると論じるものだ。根本には、道徳に対する独自の感受性が人間には備わっているという確信がある。道徳感情論は、道徳的義務を普遍化するための方便でもあったが、『手の倫理』における共鳴は、抽象的議論ではなく具体的実践の中に見出される。例として挙げられるのはブラインドランナーと伴走者のあいだで交わされるコミュニケーションだ。彼らは緩やかなロープで繋がっており、行為ではなく動作を共有する。二人は同じ動きをするが、このとき同じ感覚を共有する。一方が楽しくなると他方も楽しくなる。一方が疲れると他方も疲れる。個人の体力差にかかわらずこの現象が生じるという。ブラインドランナーは言葉で伝えられずとも、ロープで制動されずとも、道の先が曲がっているのか、坂があるのか気づけるという。ロープは神経線維そのものなんだ。この神経を通じて感情は直接共有される。どちらが伝えたということでもなく「偶然同じことを考えたていた」ということが生じ得る。緩やかなカーブを自然と曲がっていくように、感情は緩やかに伝わっていく。伝えようとしていないことまで伝わっていく。これは生成モードの究極形態とも呼べるだろう。対称性とは、主体と客体の入れ替え可能性、わたしの輪郭を問い直すことだった。この点、他者とふれることによる共鳴は、わたしの輪郭を社会化する過程であるともいえるだろう。その社会化が決して観念的なものではなく、実感そのものだということが特徴だ。
もっとも、注意しなければならないのは、受け入れる用意があるからこそ伝わっていくということ。メッセージは信頼のあるところにだけ伝わっていく。福祉の現場でもまずはラポール(※信頼関係)の形成が重要だと言われることには理由がある。
◆フレームの混同
最後に伊藤亜紗が問題とするのは、不埒な手。これまで「ふれる」と「さわる」の区別を明確にしてきたが、実際にはこの両者は容易に混同し得る。そして、混同したときにこそ最大の危機が訪れる。介助の現場で性を想起すること、性の現場で介助を想起すること。さわらなければいけないときにふれ、ふれなければならないときにさわってしまうのではないかという危機感。職業倫理が自分の精神の奥底で牙を剥く瞬間というものを想像してみよう。これは確かに気持ちの悪いことだ。しかし、このときにこそ倫理という概念は活性化するのではないか、というのが『手の倫理』の結論だ。
「触覚は道徳的でないかもしれない。でもそれは確かに、いやだからこそ、倫理的でありうるのです。」
そう断言するとすれば、その人は、自分の精神は常に不確かな領域にふれており、だからこそ不退転の覚悟をもって他者を傷つけない、すなわち他者にふれないのだと決意していなければならないだろう。そうでなければ、「すべきだけどできないかもしれない」という倫理の要請は、ただの無責任へと転化するからね。
◆福祉の現場で
以上、一部私見を交えて『手の倫理』を紹介したよ。本書は具体的なエピソードが豊富だから、そうしたものに興味がある人はぜひ本文を確認して欲しい。また、最後の章「不埒な手」が世間的にやや評判が悪いように見受けられるけれど、キツネは先ほど述べたとおり、倫理に対する不退転の覚悟が求められていると受け取ったよ。
さてここからは、話をキツネの体験談に移そう。キツネは社会福祉士として、主に何らかの虐待を受けたひとを支援する活動をしているよ。こうしたひとびとをケアしようというとき、じつは接触行為というのは厳禁なんだ。それは虐待を想起させるからね。また、そういう厳しい状況にあるひとは、他人を信頼することに対してとても消極的になっている。当然だよね。もっとも信頼できるはずのひとから暴力を受けてきたのだから。こんなとき、信頼を前提とした「ふれる」を倫理的要請として認めることは難しい。実のところ、「傷つけられるかもしれないけど、そうでない方に賭ける」という信頼の基盤には、「自分は決して傷つけられない人間だ」という安心の経験が不可欠なんだ。そうでなければ賭けの根拠が失われてしまう。そして、虐待を受けてきたひとびとというのは、まさにその根拠を奪われて避難しているんだよね。とはいえ信頼を抜きにこの社会を生きていくのは、決して望ましいことではない。それは自分の選択肢を狭め、将来の可能性をそぎ落としてしまうものだから。
だから、キツネが『手の倫理』を読んだときに思ったのは、信頼への架け橋、「ふれる」ことへの架け橋となる経験が必要なんだということだ。手の倫理でも扱われていた共鳴現象。ブラインドランナーとの伴走経験がない人でも、じつは同様の体験をしたことがあるのではないだろうか。同じ空間にそっと居合わせるだけで、そっと、相手も同じことを考えていると確信できた経験はないだろうか。キツネの福祉の現場では、相手にふれてあげることはできない。けれども、そっと寄り添ってあげることはできる。このとき、手ではなく、空気を介して、確かに何かがふれていると実感することがある。わたしたちが、まだ言葉になっていない思いを汲み取る機会は少なくない。ヒントとなるのは、マルチモーダルだね。ひとがひとに「ふれる」のは、手だけではないということだ。先ほどの『手の倫理』の紹介において、キツネは最後に「ふれない」ことの重要性を指摘した。自分が決して加害者にならないという職業倫理は確固として必要だ。けれど、それでも「ふれる」ことを目指すことは必要ではないかと思うんだ。手でふれられないのであれば、どうやってふれるのか。眼差し、声かけ、食卓、香り。アプローチはたくさんある。それはケアの現場で生成的に模索されるべきことだろう。
キツネの経験としていえることは、「すべきだ」と思えることを実際にやってみて「できないんだ」と気づく体験が、誰にとっても重要だということだ。この点、パターナリズムの弊害は由々しい。失敗させないことが福祉だと勘違いしてはいけないよ。共に失敗して、それでもなお共に考え、共に歩んでくれるひとがいるという経験の方がかけがえのない価値があるんだ。そうした経験を通じて初めて、ひとは、信頼への架け橋をわたることができる。
キツネはそう思っているよ。
以上、今日は伊藤亜紗『手の倫理』を解説してみたよ。
社会福祉について考えるきっかけにしてもらえたら幸いだよ。
それでは今日のところはご機嫌よう。
また会いに来てね! 次回もお楽しみに!
◇参考文献
伊藤亜紗『手の倫理』(講談社)
アダム・スミス『道徳感情論』(講談社)
ユルゲン・ハーバーマス『コミュニケーション的行為の理論』
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