現代の日本語 井上ひさし『私家版日本語文法』【創作のための読書♯2】

◆ご挨拶

こんにちわ、だいなしキツネです。

今日は【創作のための読書】シリーズの一環として、井上ひさし『私家版日本語文法』を台無し解説していくよ! 創作のためには現代語を華麗に駆使する能力が不可欠だよね。そのためには日本語文法の正確な知識が必要だと思わないかな?

しかし実は、〈正確な〉文法なんて日本語には存在しないのかもしれないということを、井上ひさしの模索を通じて確認してみよう。


◆井上ひさしとは?

井上ひさしは、1934年に山形県で生まれた、日本を代表する作家だよ。幼少期には孤児院に預けられ、南奥方言圏内独特の言語観や人間観を養ったようで、その影響は彼の作家活動全般に見てとれるね。高校ではあの樋口陽一と同級生だった。上智大学在学中に執筆活動を始め、1972年には『道元の冒険』で岸田國士賞、『手鎖心中』で直木賞を受賞、1981年には『吉里吉里人』で日本SF大賞を受賞する等、すごいことになる。

「難しいことを易しく、易しいことを深く、深いことを面白く」がモットーで、人間の機微に鋭く、何事も軽快に、それでいて諧謔的に描き出すのが特徴といえるだろう。よくこんなに淀みなく書ける人がいるなと感心してしまうのだけど、本人はとても遅筆だったというから、やっぱり推敲の賜物なのかな。


◆『私家版日本語文法』とは?

それでは、今日の本題である『私家版日本語文法』を見ていこう。この本は、井上ひさしが伝統的な日本語文法論を片っ端から読み漁っては独断と偏見で論破するという、台無し解説のお手本のような作品だよ。楯突く相手が国語学の大家である山田孝雄や民俗学者の柳田國男、大作家の三島由紀夫だったりするから気持ちいいよね。リスペクトは感じるんだけどね。とはいえ、たまに取り上げる公文書や政治文書に対する批判は容赦ない。政治意識の高い作家たる所以だね。

この作品は、『日本語文法』と銘打ってはいるけれど、体系的な日本語文法論というよりは日本語文法に関する短いエッセーの集成といった感じかな。

内容を大まかに見ていくと、

・日本語は形容詞の数が実に少ないけれど、これは互いの心持ちがわかっていたから形容の必要がなかった、のではなく、互いの腹の底が知れないからこそ形容しなかったのではないか。それゆえ枕ことばのような約束事を重んじて、これに同調して済ませてきたのではないか。(「枕ことば」)

・擬音は表現を類型化して卑俗にするという意見があるけれど、我々は宮沢賢治のような擬声語の優れた使い手を知っており、その格調高さたるや自由にお持ち帰りくださいと言わんばかりだ。古くは和歌で、新しくは漫画で続々と擬声語が活用されており、これは言葉の原初の創造にまでさかのぼって考えられるべきだろう。(「擬声語」)

・古代の日本語では、主格や目的格をあらわす格助詞「が」があまり使われなかった。それがいつの頃からか「が」まみれになり、と思えば次は係助詞「は」が覇権を争い始めた。「が」と「は」の使い分けには百家争鳴の感あるが、井上ひさし自身は「『が』は強く指し示し、『は』は穏やかに提示する」という説を穏やかに提示する。(「格助詞「が」の出世」「ガとハの争い」)

・時制を支配するのは体制の権威の象徴であり、混乱の種。(「時制と体制」)

・日本人は受身上手というけれど、「…と思われる」「…が注目される」等の自然可能的な受身表現が日本語にもたらされたのは、明治期の近代小説においてである。これは当初、「なるようにしかならない」という受け身な考え方から脱却するための出発点として用いられたが、今日では公文書の中でも頻発される事態となっており、良い意味でも悪い意味でも言葉が人間の生き方を作り出すようだ。(「受身上手はいつからなのか」)

・日本語の無数にある人代名詞は、我々日本人がすべての対人関係において間を持続させることを願い、つまりは間抜けと呼ばれることを恐れ、この隙間を埋めるために開発されたものではないか。(「自分定めと縄張りづくり」)

・日本語の卓越したコソアド体系は、日本人の縄張りづくり的気質とぴたりと一致する。つまり、いったん定めた間合いを固定するための働きをもつのがコソアド体系であり、だからこそ論理的で整合的な体系を有しているのである。我々は、コレ、ソレの場では、実に礼儀正しい。もしこの礼儀を損なえば、たちまちのうちにアレ、ドレの場に追いやられ、ヨソモノ扱いされるのだ。(「ナカマとヨソモノ」)

・造語力の高さではドイツ語が有名だが、そのドイツ語をこともなげに翻訳してみせる日本語も大概のものだ。漢字をぺたぺたくっつけていけば用語ができるし、「~化」「~的」「~風」「~がる」「~ぶる」「~めかす」「~ぽい」「~らしい」と無限につくれる。それにしても、そうして新しくつくった造語の大半が、「おこがましい」とか「はしたない」とか「脂っぽい」とか「あくどい」とか、悪口なのは何でなの。(「尻尾のはなし」)

・「おやじしんだ」の意味がわからなくなるから、漢字はなくならない(※親父死んだ、おや地震だ)。そもそも漢字と仮名文字の使い分けができるんだから、わざわざローマ字とかに頼って表音化しなくてもよかろう。漢字が読みにくいときにはルビをつければいいんだよ。(「漢字のなくなる日」「漢字とローマ字」「振仮名損得勘定」)

・敬語は恩の売り買いである。我々が自分を過少に示すのは、相手に恩を売らないためだ。「してやっておくれ」という短い表現の中には既に二つの売りがある(※「やって」の部分に第三者への売りの要請、「おくれ」の部分に自分への売りの要請がある)。敬語に関する実用書が絶好の売れ行きなのは、恩のこまかい売り買いの存在を証明している。(「恩の売り買い」)

・敬語についての言語表現を欠いていても、それにかわる身体表現の中に敬語表現は含まれ得る。人の前を通るときに腰をかがめる行為、話し相手の目をなるべく正視しないようにする行為、他人の家を訪問する際は一応押し問答をする行為など。あるいは、自分自身のことを語るときにわずかに戸惑いの色を浮かべること、第三者を話題に出すときに手をこすったり顔を撫でたりすること等は、一種の間接敬語である。これを等閑視して敬語を論じることはできまい。敬語に関する複雑な言語表現は、その分、身体に楽をさせることになる。(「敬語量一定の法則」)

・nの音には幻性と否定性がある。宮沢賢治はその辺りをよく理解しており、『無声慟哭』ではn音を多用し、「雨ニモマケズ」ではこれを巧みに避けることで清澄な祈りを伝えている。(「n音の問題」)

・日本語の発声は、二音に固まる性質をもつ。一回の努力で発音することができるのが二音までなので、3音以上の言葉は、二音+一音のリズムに分解して発声することになる。(「2n+1」)

・日本語の正書法など成り立たない。それができると思い込んでいる奴らは虹の橋を渡ろうとするロマンチストだ。(「日本語は七通りの虹の色)

・単語ひとつだけではなかなかウソをつくことはできない。人間は、真実を相手に伝えようとして様々な技巧を駆使する。省略、強調、婉曲、反語、誇張、擬人化……これらの技巧はすべて人間の発話をウソへと向かわせる。一つの誠を言うためには、八百のウソをつくしかない。(「ウソについての長い前書き」)

などなど。


読むことで世界観が変わるような作品を芸術と呼ぶのだとしたら、この本こそがまさに芸術作品だ。次の引用を見てみよう。日本語の形容詞飢饉をどうやって克服するか悩むくだりだよ。


「舶来品を片仮名で使う手ははないでもない。下手をするとペダンチックで、なにやらスノビッシュで、どうにもイディオチックで、この文章みたいになってしまうから、この手の形容詞はなるべくならば願い下げにしたい。第二の方法は、二字繋ぎの漢語に<ナ>をつけるやり方……だがこれはどうにも安易な、安直な、手軽な感じがする、ちょうどこの文章のように。第三の方法はやはり二字繋ぎの漢語に<……的>なる的(まと)をぶらさげて形容詞をつくるという、本邦の知識人から積極的、圧倒的、絶対的、驚倒的、信仰的、神懸的、盲目的支持を受けているやり方だが、連続的、集中的、持続的使用をするとまるでこの文章のように知性的を瞬間的に通り越し痴呆的作文になってしまうので、良心的物書きはこの手の形容詞に警戒的、消極的態度を取らざるを得ない。」(井上ひさし『私家版日本語文法』新潮文庫p13)


これを読んだ後に真面目な哲学書をみると面白いよ! <的>のオンパレードでコントにしか見えないからね。でも、〈的〉をつかう文章が文法的に誤りだともいえないだろう。一見読みにくく悪文の典型とされる判決文も、専門家にとっては定型に則っていて読みやすい文章だったりする。大切なのは、書き手と読み手のコンセンサスなんだね。井上ひさしが言いたいのは一般論ではなく、「自分の日本語文法をどうしたいか」ということに他ならない。それは、作家として読者に与える影響を自分でコントロールしたいという欲望だ。その土台となるのが自分の、自分だけの日本語文法なんだ。


【創作のための読書】において重要なのは、こうした細部に目を凝らすこと。細部が読者に強烈なインパクトを与えるということを自覚するところから創作は始まる。


◆台無しのご先祖


ところで、井上ひさしは要所要所で自分の文法論を持ち上げて、「このような文法授業の一時間があったら、自分はもっとましな日本語使いになったのではあるまいかと思うのだが、いかがなものであろうか」などとぼやくのだけど、キツネたちは知っている、そんなものがなくともお前は達者な日本語使いだった。


もっとも、キツネのような一般市民は、井上ひさしがまとめてくれた文法論、その成果物を踏まえて、新たな創作に乗り出すことができる。創作活動をする中で、「が」と「は」の使い分けに悩まない人はいないんじゃないかな? これに対する一流作家の見解を知り、そのまま受け取るのではなく自分なりの文法論を模索していく。それが作家の基本的な態度だ。井上ひさしが見せてくれたのは、既存の文法論を換骨奪胎していこうという気概。キツネたちが見習うべきもそこなんだね。


というわけで、今日は井上ひさし『私家版日本語文法』を台無し解説してみたよ。

ちゃんと台無しになったかな??

それでは今日のところは御機嫌よう、さようなら。

また会いに来てね! 次回もお楽しみに!

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