悪とは何か ジュリア・ショウ『悪について誰もが知るべき10の事実』
◆ご挨拶
こんにちわ、だいなしキツネです。
今日はジュリア・ショウ『悪について誰もが知るべき10の事実(原題:Making Evil)』を台無し解説していくよ!
◆悪って何よ
キツネは悪とは何かを理解したいと思っているよ。悪の定義は文化、宗教、時代によって様々だ。
例えばキリスト教の正統的な理解によれば、悪は本質的には存在しない。この世界は善なる神様が作ったものだからね。一見して悪と思われるものが現実に存在するのは、人間によって善が十分に遂行されていないからだ。つまり、悪とは善の欠如態なんだね。これを善一元論という。
これに対して、ゾロアスター教は明確な善悪二元論に立つ。この世界は善神と悪神の対立の場だと考えられている。人間はその闘いに翻弄されながらも、善神に協力することが望ましいとされる。このゾロアスター教の影響を受けて、キリスト教内部にもグノーシス主義などの異端派が生じることとなった。
さらに別の立場として、日本仏教の浄土真宗を参照してみよう。親鸞は「わたしは善悪のことはわからない」と言いながらも、この世には悪人しかおらず、阿弥陀仏はこれを救おうというものだと唱えていた。ここでいう悪とは、善悪の判断すらつかない根本的な無力をいう。人間には究極的には善悪の問題を解決できないと考えているんだね。ちなみに善人とは、自分が悪人だと気づかずに善行ができると勘違いしている愚か者のことだ。ざっくり捉えると、これは悪一元論といえるだろうか。
さて、あなたならどの立場に立つ?
このままだと特定の宗教に依拠しない限り決められないと思わないかな。
そこで哲学を参照しても、形而上学的前提に適合しないものを悪とみなしたり、物理的害を悪とみなしたり、道具的価値のないものを悪とみなしたり、公益に反するものを悪とみなしたり、まぁ様々だ。現代では大まかにいって、倫理や道徳に反するものを悪と呼ぶだろう。けれど、倫理や道徳に異議を唱えたい場合にはどうすればよいのだろうか。
功利主義への違和感を示した小説としては、アーシュラ・K・ル=グイン『オメラスから歩み去る人々』が有名だ。異議を唱える方法が〈歩み去る〉しかないのだとすれば、それは寂しい。もちろんキツネはただ歩み去るのではなく、議論がしたい。その議論の前提としては、やはり悪とは何かを考えなければならないんだ。
◆悪について誰もが知るべき10の事実
そこで本書『悪について誰もが知るべき10の事実』。著者のジュリア・ショウはよほどニーチェに触発されたのか、至るところにニーチェからの引用が散りばめられているよ。
「悪く考えることから悪が生まれる」
「道徳的な現象というものは存在しない。現象の道徳的な解釈があるだけだ」
「人は誰かを悪しき敵、つまり「悪人」とみなせば、これを自分の基本概念とし、そこから考えついたもの、それと対をなすものとして「善人」を思いつくーーそれは自分自身だ!」
「狂気が個人に宿ることはまずない。しかし集団、政党、民族、時代にはいつでも存在する」
以上、すべてニーチェ。さすが『善悪の彼岸』に突進するだけあって香ばしい雰囲気があるけれども。ニーチェの言わんとすることは、悪とはラベリングだということだ。人間の客観的性質として悪があるのではなく、社会的作用によって悪が生まれる。
本書は、この社会的作用の実態を掴むために多数の科学実験を参照する。スタンフォード監獄実験、キュート・アグレッションの実験、サディズムを調査するための虫殺し実験、トロッコ問題について細かく条件を入れ替えた実験、配偶者への攻撃性を調べるための人形実験。そうして判明したのは、以下の事実だ。
1.人間を悪とみなすのは怠慢である。
2.あらゆる脳はすこしサディスティックである。
3.人殺しは誰にでもできる。
4.人の不気味さレーダーは質が悪い。
5.テクノロジーは危険を増大させる。
6.性的逸脱はごく普通のものである。
7.モンスターとは人間のことである。
8.金は悪事から目を逸らさせる。
9.文化を残虐行為の言い訳にすることはできない。
10.話しにくいことも話さなければならない。
……知ってた。
◆ヒーローは必要か
ジュリア・ショウが強調するのは、世間に悪人とされるものは、必ずしも異常者ではないということ。これは、油断しているといつでも自分が悪人になり得るということだね。それを防ぐには、悪人を他者だと思ってはならない。自分が悪人と社会的・生物学的前提を共有しているのだということを忘れてはならない。人間には進化論的な生存本能として、他者を加害する傾向があるのだということを意識しなければならない。
しかし、ルールを破ることと、既存の枠組みの外で考えることは思考パターンがよく似ている。前者は犯罪に、後者は勇敢な行動に繋がるけれど、根っこの部分は同じだ。
実践においてその区別はどうつければいい?
ジュリア・ショウによると、ヒーローへの想像力を高めるべきだそうだ。そのためには、普段からヒーローとは何かを考え、人々と話し合う必要がある。また、その機会が訪れたときにはヒーローとして行動できるよう心の準備をしておかなければならない。さらに、ヒーローは必ずしも一人でなくてもよく、仲間を探していいことを理解すべきである。
さて、ここでいったん落ち着こう。
本書の主張はわかった。概ね異論はない。想像力が大切なのはその通りだろう。
けれど、何がヒーローであるのかを社会的に規定されているときに、これを相対化する原理は何なんだ?
特攻隊が崇拝されている時代があった。告発が推奨される社会があった。異教徒を排除することが天国への切符になると信じる人々が確かにいた。
これへの異議申し立ては「ヒーローへの想像力」という曖昧な認識で実現されるのだろうか。むしろ、ヒーローの行動として悪が先取りされる危険は決して少なくないはずだ。
キツネには、ヒーローという概念そのものが危険と思えるよ。ヒーローでなくてもいいから悪はなさない、と考えられた方がいい。しかしそうなると、そもそも悪とは何かという最初の問いに戻るんだ。残念ながら、その答えは本書によっても与えられることはなかった。
そもそもこの本の目的は悪人を相対化して、悪への共感能力を高めることだった。これは善悪が明確に区別できるという思い込みを捨てさせようという試みだ。つまり、善悪の彼岸を目指しているんだね。でも、キツネは思うよ。善悪の彼岸に辿り着いてしまうと、結局、悪は放置されるのではないかと。彼岸に辿り着けば悪が解消されると考えるのは、現実逃避だ。ヒトラーはニーチェから強い影響を受けていた。それがたとえ誤読によるものであろうと、誤読可能なニーチェの道徳論からヒトラーの独善が生まれたことは否定しがたい。そして、彼の誤読の仕方は、ジュリア・ショウによるニーチェの読解とどれほどの違いがあったのだろうか。
◆反-排除の思想
最後に、キツネの当面の立場を述べておくよ。
悪が何かもわからない状況で、それでも悪をなさないための唯一の指針は、排除の拒絶だ。どのような理由があっても、他者を排除しないということ。排除に加担しないということ。
少し想像すればわかるように、これを実現するのは決して容易ではない。排除しなければ危険だという状況も当然あり得るだろう。正当防衛が成立するような急迫不正の侵害がある場面では同様のことはとても言えない。けれど、何をもって「急迫不正の侵害がある」と見なすのか、それを考える際には反-排除の視点は重要だ。戦争もテロリズムもホロコーストも、相手が危険だという認識を自身の正当化根拠としている。先制攻撃や敵の抹殺を目標とし始めたら、もはや歯止めは利かないだろう。人類の歴史をみるに、排除に加担しないという意識こそがこの問題を模索するための第一歩ではないかと思えるんだよ。
ちなみに、注意深い方は気づいているかしれないけれど、キツネは善とは何かをさほど重視していない。善は相対的であって欲しい。悪をなさずに済むのであれば、あとは自由に生きたいよね。
というわけで、今日はジュリア・ショウ『悪について誰もが知るべき10の事実』を台無し解説してみたよ。
ちゃんと台無しになったかな??
それでは今日のところは御機嫌よう。
また会いに来てね! 次回もお楽しみに!
◇参考文献
ジュリア・ショウ『悪について誰もが知るべき10の事実』(講談社)
フリードリヒ・ニーチェ『善悪の彼岸』(光文社)
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