勝利劇としてのオイディプス ソポクレス『オイディプス王』【光文社古典新訳文庫全部読む#2】
◆ご挨拶
こんにちは、だいなしキツネです。
今日は【光文社古典新訳文庫全部読む】シリーズの一環として、河合祥一郎訳ソポクレス(※ソフォクレス)『オイディプス王』を台無し解説していくよ!
◆ソポクレスとは?
ソポクレスは、紀元前496年頃、ギリシャのアッティカで生まれた劇作家だよ。裕福な市民の子どもとして育ち、十分な教育を受けて詩才を発揮、28歳頃には大ディオニューシア祭のコンテストで優勝、古代ギリシャの三大悲劇詩人のひとりとしての名声を確立していく。その後はアテナイの政治にも参加して将軍になる等、多方面の活躍を見せた。政治活動と並行して戯曲の執筆活動は続き、生涯で123篇もの作品を書いたという(※現存するのはそのうちの7篇)。そして、67歳頃になってついに『オイディプス王』を執筆したんだね。この作品は、大ディオニューシア祭のコンテストでは恐らく二位に甘んじたけれども、アリストテレス『詩学』による評価を通じて、今では西欧文学史上最高傑作との呼び声も高い名作だ。それを今回、キツネと一緒に見ていこうね。
◆河合祥一郎訳『オイディプス王』の特徴
『オイディプス王』の内容に入る前に、河合祥一郎訳の特徴を確認しておこうか。この翻訳は、ギリシャ語原文からの翻訳ではなく、英語訳からの重訳だよ。とはいえ、河合祥一郎はギリシャ語と英語の対訳版を底本として、原文の韻文構造を確かめながら翻訳を施した。結果として、河合祥一郎訳シェイクスピア劇のように原文のリズムを尊重した翻訳となっているんだ。ギリシャ語には英語と異なる独特のリズムがあるから、その再現には苦労したようだけれど、平易ながらも迫力のある出来栄えとなっている。ギリシャ悲劇の特徴は音楽性にあるから、それを出来るだけ反映しようというこの試みは、数ある『オイディプス王』の翻訳の中でも一読に値するはずだよ。
◆『オイディプス王』とは?
オイディプス王は紀元前429年頃に発表された作品で、当時のアテナイはペロポネソス戦争の真っ只中、それも未曾有の疫病に苛まれている時代だった。この辺り、ゲーム好きなら『アサシン クリード オデッセイ』で鮮やかに再現されているから、ご確認いただいてもよいかもしれない。あのゲームはソクラテスにもアルキビアデスにもソポクレスにも会えるし、何よりも『オイディプス王』の背景となった疫病、昏い時代の予感といったものを追体験できる。そう、見逃してはいけないのが、『オイディプス王』の内容はそれが発表された時代と呼応しているということだ。『オイディプス王』が素材として用いるオイディプスの伝承には市民が疫病に悩まされているという設定はなかった。でもソポクレスの作品においては、まさにこれを解決するためにオイディプスがその過酷な運命と対峙することになるんだ。市民が直面している問題に対する為政者の態度、責任意識というものが主題化されているんだね。
ところで、ギリシャ悲劇は、主に年に一回、大ディオニューシア祭で神に捧げる宗教儀式として行われていたコロス(合唱)が発展して物語性をもったものだと考えられている。つまり、合唱の合間を連続性のあるエピソードで繋ぐことによって一定のまとまりを持たせるようになったということだ。日本の歌物語が和歌の詞書(ことばがき)から発展したものだと推測されているのに似ているね。和歌が歌物語の本質であるように、コロスがギリシャ悲劇の本体なんだ。また、宗教儀式の一環であるから、その表現には一定の形式がある。すなわち、コロスが舞台上に登場して、退場するまでが一つの作品となっている。言い換えると、コロスは出ずっぱりなんだね。コロスが何人で構成されるのか、コロスにどのような役割を持たせるのか、それにもルールがあったようだけど、この点はソポクレスの発案によって人数を15人に増やしたり(※もとは12人だった)、俳優としての役割を与えたり(※それまでは物語に関与しないのが普通だった)といった新規性が見られた。ソポクレスの創意工夫はこれにとどまらず、舞台上に上がる俳優の数を三人に増やしたり(※元は二人だった。コロスも俳優として参加することを考えると、ソポクレスによる登場人物数の広がりは大きい)、舞台上に背景美術を置いたりしている。いずれにせよ、それが宗教儀式であり、公共性の高いものであったからこそ、時代の風潮、市民の願いといったものを反映しているのかもしれないね。
それでは、肝心の『オイディプス王』のあらすじを見ていこう。
◆あらすじ
1.プロロゴス(序:コロス登場前の前座)
物語の舞台となるのはカドモスの国テーバイ。テーバイはいま謎の疫病に苛まれ、市民は救いを求めている。かつて残酷なスフィンクスからこの国を解放することで異邦人ながらもその王座についたオイディプスは、市民を襲うこの新たな苦難を再び自らの力で打開することを約束する。オイディプスは義弟のクレオンをデルポイの神殿へと遣わして神託を得る。神託は次のように告げていた。「この地より、穢れを追放せよ。その穢れをのさばらせ、不治の病を蔓延らせてはならぬ。」疫病の原因は、テーバイの前王でありオイディプスの妻イオカステの前夫であるライオスがころされて、その犯人が未だ捕まっていないからだという。ライオスは盗賊にころされていた。オイディプスは王ごろしの犯人を突き止め、その仇を討つと約束する。
2.パロドス(コロスの入場歌)
デルポイより届いた御言葉の意味は何か。償いとは何か。耐えがたき悲しみは果てしなく、国中に蔓延る病を打ち払う武器もない。生まれくる子は皆死ぬ。飛び立つ鳥の素早さで黄泉の国へと去っていく。テーバイの守り神よ、燃え盛る松明をもち、破壊の神を打ち倒せ。
3.第一エペイソディオン(第一場)
盲目の預言者テイレシアスがオイディプスの前に呼び出される。彼はすべてを見通している。しかしオイディプスに真相を打ち明けるのは気が引けるようだ。彼は頑なに口を閉ざしていたが、オイディプスの無礼な挑発に屈する形で、次のように告げる。「ライオス王ごろしの張本人。そいつは今ここにいる。異邦人とされるが、実はテーバイの生まれ。だが、生まれがわかっても、その男には喜びとならぬ。今は目が見えるが、盲人であり、今は豊かだが、乞食であり、異国の地にて杖で道を探り歩く者。子らにとって、父にして兄弟。産んだ母にとって、息子にして夫。父をころし、父の女を孕ませた男。さあ、この謎を解くがよい。」
4.第一スタシモン(コロスの群唱舞踏)
聖なる預言がこの胸を搔き乱す。ライオスごろしの犯人がオイディプスだとは思いもよらぬ。王は賢者として、スフィンクスからテーバイを救ってくださったのだから。お告げの真実が確かめられるまで、オイディプスを責められない。
5.第二エペイソディオン(第二場)
オイディプスはクレオンとテイレシアスが共謀して王座を狙っているのではないかと思い込む。しかしクレオンは身の潔白を主張する。そこにオイディプスの妻でクレオンの姉であるイオカステがあらわれる。イオカステはオイディプスを窘める。預言など人間の身でできるものではないというのだ。曰く、かつてライオスに神託が下った。イオカステとの間に生まれる子どもにころされるという内容だった。ライオスは自らの子を人に命じて捨てさせた。結果として、ライオスは息子にはころされず、三つの道が一つになる場所で、異国の盗賊によってころされることになった。だから預言など気にする必要はない。……しかし、オイディプスは混乱する。彼もかつてデルポイの神託を受け取っていた。その内容は、自分が母親と交わり、実の父親をころすというものだった。だから彼は父であるコリントスの王ポリュボスと母メロペのもとから旅立った。その旅の末、確かに、三つの道が一つになる場所で、老人をころしたことがあったのだ。
6.第二スタシモン(コロスの群唱舞踏)
傲慢は暴君を生む。いずれ収拾がつかなくなり、奈落へと真っ逆さま。もしお告げが真実を告げないのであれば、誰がデルポイへと詣でようか。ゼウスよ、不滅の力をもってこれを治めよ。
7.第三エペイソディオン(第三場)
コリントスから使者がやってくる。オイディプスの父ポリュボスが亡くなったため、コリントスの王座を託したいたいという。オイディプスの旅が父ごろしと近親相姦の危険を避けるためだったと知った使者は良かれと思って次のことを教える。すなわち、ポリュボスはオイディプスの血縁ではない。ポリュボスには子どもがいなかったため、孤児のオイディプスを受け取ったのだ。ポリュボスにオイディプスを渡したのは、誰あろう、この使者である。そして使者は、ライオスに仕えていた羊飼いからオイディプスを受け取ったのだった。真相を悟ったのだろうか、イオカステはこれ以上真実を知ろうとするなとオイディプスを諫めるが、オイディプスは聞く耳を持たない。
8.第三スタシモン(コロスの群唱舞踏)
キタイロンの山々よ。汝こそオイディプスの母親であり故郷であろう。われらが王を育てた汝を称えてわれらは踊らん。
9.第四エペイソディオン(第四場)
オイディプスはかつてライオスに仕えていたという羊飼いと面会する。羊飼いはライオスの子を預かり、その子どもをころすようにと命じられていたが、つい憐れみをおぼえて、その子をコリントスの使者に渡してしまったという。これを聞いたオイディプスは嘆く。「ああ、これで何もかも明らかになった。すべて真実なのだ。光よ、もはやお前を目にすまい。生まれてはならぬ人から生まれ、娶ってはならぬ人を娶り、ころしてはならぬ人をころした呪われた人間なのだ、私は!」穢れの正体は白日の下に晒された。
10.第四スタシモン(コロスの群唱舞踏)
やがて死すべき人の運命(さだめ)。その人生の儚さよ。いったい誰が満足のいく幸せを得られよう。すべては消えゆくむなしい幻。
ああゼウスよ、オイディプスほどに成功をおさめた者がいただろうか。そして今、これほど惨めな者がいるだろうか。
ライオスの子よ、いっそあなたを知らなければよかった。われらに新たな命を授けたあなたは、今、われらの目を暗闇へと閉ざしてしまう。
11.エクソドス(最終場)
使者が告げる。イオカステは自ら命を絶った。オイディプスはそれを見て、自らの目を突き刺した。そしてオイディプスは決断した。自らを国中の見せしめにすると。自らの呪いを自らに受け、自らその身を追放すると。そして舞台にあらわれる、盲目となったオイディプスが。コロスとオイディプスの間で、嘆きの歌が交わされる。コロスはオイディプスに同情し、オイディプスはその優しさに感じ入る。オイディプスは娘二人と別れの挨拶を交わす。これからは、両親が自分の墓場と定めたキタイロンの山奥を彷徨い歩くという。自分はおぞましい罪の報いを受けて、非業の死を遂げなければならない。
コロスは唄う。見よ、これがオイディプスだ。あのスフィンクスの謎を解き、英雄だったその人が、なんと残酷な海に呑まれたことか。これよりのち、誰一人幸せとは言えまい。命が果てるそのときに、悲嘆にくれずに生涯を無事に終えたとわかるまで。
以上が『オイディプス王』のあらすじだよ。
◆悲劇としてのオイディプス
ここで、ギリシャ悲劇の定義を確認しておこう。アリストテレスによれば、
「悲劇とは、真面目な行為の、それも一定の大きさを持ちながら完結した行為の模倣(再現)であり、作品の部分ごとに別々の種類の快く響く言葉を用いて、叙述して伝えるのではなく演じる仕方により、憐れみと怖れを通じ、そうした諸感情からのカタルシス(浄化)をなし遂げるものである。」(※アリストテレス『詩学』)
憐れみとは、不幸になるべきではない優れた人物が不幸になったときに感じるもの。怖れとは、自分と似た人物が不幸になったときに感じるもの。カタルシスについては諸説あるものの、大まかにいえば、悲劇を通じて得た苦の感情を劇的に解消するものだよ。
こうした定義に照らしあわせると、『オイディプス王』が悲劇であることは論を俟たないね。穢れの正体を突き止めて追放するという真剣な問題意識のもとで、全篇を通じて強固な因果律によって結ばれ、豊かな韻律を響かせ、演じ、歌い、オイディプスという優れた人物に憐れみの感情を抱かせるとともに、その自己追放という断固とした解決を目の当たりにすることでカタルシスを得るものだ。
また、劇作構造上オイディプスが優れているのは、逆転と認知の効果が巧みに仕組まれている点にある。逆転とは、物語の成り行きが予想に反した方向へと急転すること。認知とは、それまで認識されていなかった事柄が明らかになること。『オイディプス王』においては、第三エペイソディオンにおいて使者がオイディプスから近親相姦の恐怖を取り除いてやるために、オイディプスの来歴を語ることによって、逆にオイディプスが近親相姦をしているという事実が明らかになるという形で、逆転と認知が同時に発生する。(※正確には、認知は第四エペイソディオンで起きているという有力な異論がある。)
せっかくだから少し作家の視点で分析をするとね、まず、オイディプスにまつわる伝承は、おそらく当時の観客のほとんどが知っていた。だから作家としては、この観客の予想と駆け引きを行うことで大きな効果を得ようと目論むんだ。(※なお、万が一オイディプスの伝承を知らない観客でも、序盤の第一スタシモンでは既に犯人がオイディプスであると確信できるように配慮されている。)
冒頭から疫病への対処がテーマ化されるけれど、この時点で既にオイディプスの従来の伝承とはズレが生じている。つまり、作家の独創が介在することが仄めかされている。従来のオイディプスの伝承は(※推測の域を出ないものの)、オイディプスがライオスに捨てられてコリントスの王ポリュボスに育てられたこと、実の父親と知らずにライオスを殺めたこと、オイディプスがスフィンクスを打ち破りこの成功によってテーバイを治めたこと、テーバイ王となったあとに図らずも実の母親と交わったこと、に限られる。実はホメロス『イリアス』にはオイディプスが戦場で死んだとの記述があるため、『オイディプス王』でみられる自己追放のモチーフ自体、ソポクレスの創作であった可能性があるんだ。いずれにしても、年に1回、新作がかけられる大ディオニューシア祭において、「このオイディプス王がどのような物語なのか、どのような結末を迎えるのか」は必ずしも明確ではなく、観客との高度な駆け引きにおいて展開されていたと考えた方がいいだろう。その点、オイディプスやイオカステの破滅を彼らの傲慢さや不信仰と結びつける描写は、行為と結果の運命的な関係を裏付けて観客の納得を得る工夫ととれるし、認知のタイミングがオイディプスとイオカステの間でわずかにズレているところは(※イオカステが第三エペイソディオンのラストではもう事情を確信しているのに対して、オイディプスは第四エペイソディオンまで望みを繋いでいる。あるいは逆に、第一エペイソディオンの時点でオイディプス自身が既に真相を直観しながらも反対事実を躍起になって探しているともとれる。)、悲劇的なアイロニーを強調する仕掛けでもある。ちなみに悲劇的アイロニーとは、自らの運命を知らない登場人物と既にそれを知っている観客との間で生じる齟齬のことで、観客は登場人物よりも運命に近い立場でその物語を見守る形となるため、登場人物の所作の一つひとつから汲み取られる意味内容が大きくなるんだ。
そして、観客との関係で何よりも大きいのが、この作品の主題が「運命の皮肉」といった人間の手出しできないものではなく、「疫病という危機を前にした政治的対処」だったことだ。これは当時のギリシャ市民にとっては喫緊の課題であったろう。当時のギリシャは疫病とペロポネソス戦争の真っ只中だったのだから。疫病も戦争も個人では如何ともしがたい。そこに為政者の立場から断固とした解決をもたらすということが、この作品の最大のカタルシスとなっている。そう、オイディプスは敗残者ではない。テーバイを蝕む穢れの正体を見事突き止め、これを追放することでテーバイを救った、孤高の英雄なんだ。
◆勝利劇としてのオイディプス
古代ギリシャ時代の悲劇/喜劇の概念と、近代演劇以降の悲劇/喜劇の概念は異なる。ギリシャ悲劇の定義は先ほど見た通りだし、ギリシャ喜劇については(※アリストテレスによれば)「観客よりも劣った人間を描く(模倣・再現する)もの」だという。結果としてほとんど風刺劇になるね。
これに対して、近代演劇においては、悲劇は「主人公が挫折するもの」であり、喜劇は「主人公が成功するもの」だ。目的の不達成/達成で分かれるんだね。(※喜劇の意味が大きく変遷しているのは、ダンテ『神曲 Comedia 』の影響かもしれないね。ダンテの Comedia は勝利劇に他ならない。)
こうしてみると、現代のわれわれにとって、『オイディプス王』は本当に悲劇だろうか? なんなら当時のギリシャの観客にとっても、悲劇の印象を逸脱した作品だったのではないだろうか。オイディプスは諸悪の根源たる自身を国外追放することによって、当初の目的を達成しているのだから。それに、「見えているのに見えていない」という悲劇的な状況を、自らの眼を突き刺すという行為によって「見えていないのに見えている」という逆転に至るというモチーフも象徴的だ。戦争や疫病の解決という個人の枠組みを超えた問題について、自らを犠牲にしてでも解決してみせるという人間性の強さ。これは、個人という卑小な存在への諦観を超越する契機となる。いや、もう少し厳密に言おう。オイディプスは自分を犠牲にするだなんて曖昧な決断をしたのではない。どうあっても他者を加害しない、という明確な決断をしたんだ。
だからこそ、アーサー・ミラーやフリードリヒ・デュレンマットといった20世紀を代表する劇作家たちは、好んで『オイディプス王』を研究したんだろうね(※アーサー・ミラー→『るつぼ』『セールスマンの死』、フリードリヒ・デュレンマット→『巫女の死』『貴婦人故郷に帰る』)。戦争や疫病といった危機の時代は、残念ながら今も続いている。そして、この状況に対して個人がどう立ち向かえるのか、一人の身で何を引き受けることができるのか、人間の意思は何を決断し得るのか、その難問は、逃げずに見つめなければならない。昏い時代に目を閉ざしてはならない。それでも視界が暗闇に閉ざされたとき、導きの糸となるものはただ一つ。人間は、最も困難な決断を自分で下すことができるという、オイディプスのあり方だ。
というわけで、今日はソポクレス『オイディプス王』を台無し解説してみたよ。
ちゃんと台無しになったかな??
それでは今日のところはご機嫌よう。
また会いに来てね! 次回もお楽しみに!
◇参考文献
ソポクレス『オイディプス王』(光文社)
アリストテレス『詩学』(光文社)
◇動画版
https://youtu.be/jhJGR6MuWqY
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます