元祖・三幕構成論 アリストテレス『詩学』【創作のための読書#1】【光文社古典新訳文庫全部読む#1】

◆ご挨拶

こんにちは、だいなしキツネです。

今日から【創作のための読書】シリーズを開講するよ。ついでに【光文社古典新訳文庫全部読む】シリーズを開講するよ。矢継ぎ早に何を言い出したのか? それはキツネにもわからない。追々考えていこうね。

というわけで今回は、三浦洋訳アリストテレス『詩学』を台無し解説していくよ!


アリストテレス『詩学』の深みにどっぷりハマろうとすると、アリストテレスの『魂について』も『ニコマコス倫理学』も『政治学』も『形而上学』も突き合わせて読まなければお話しにならないから、今回はちょっと違う角度からこの作品に向き合ってみよう。それは、現代の物語創作論の元締め的な地位にある「三幕構成論」の元祖としての『詩学』、現代三幕構成論の重力圏から解き放つものとしての『詩学』についてだ。アリストテレスの『詩学』は、原題を直訳すると『創作術について』とすべきものだから、まさに創作論の元祖なんだよね。その功罪をこの機会に確認しよう。

 

◆アリストテレスとは?

その前に、そもそもアリストテレスとは誰かって話。解説が必要かな?

アリストテレスは、紀元前384年に生まれた古代ギリシャを代表する哲学者だよ。彼はギリシャ北部のスタゲイラに生まれ、17歳になってからアテナイの学園アカデメイアに入学する。そこではプラトンに師事し、20年ほどの学究生活を送ったようだ。その後、あのアレクサンドロス大王の家庭教師となったり、自らの学園リュケイオンを創設したりして、後世に多大なる影響を与える。アリストテレスの研究成果はいったん西欧では忘れられるけれど、東欧とイスラム教圏には引き継がれており、12世紀頃から西欧においてもスコラ学を通じて復権、「万学の祖」としての地位を揺るぎないものとした。

『詩学』との関係でいうと、アリストテレス自身はソポクレスら三大悲劇詩人が没した後の生まれであって、古代ギリシャ演劇の一番華やかな時代を経験していない。そのためか、『詩学』は演劇を扱う論考でありながら、上演としての演劇論ではなく戯曲についての物語創作論といった内容になっている。アリストテレスは演劇を上演ではなく戯曲として嗜んだ。プラトンと異なり、演劇が人に与える悪影響についてさほど心配していなかったのはこの辺りの事情が関係しているのかもしれないね。(※プラトンは詩人は知性に害毒を与えるものだから追放すべきだと論じたことがある。三大悲劇詩人に対する群衆の熱狂を目の当たりにしていたのかもしれない。)

 

◆『詩学』とは?

さて、本題の『詩学』について。

現代の駆け出し作家さんたちは、シド・フィールドの三幕構成論は聞いたことがあっても、アリストテレス『詩学』をじかに読んだことはない人が多いかもしれないね。『詩学』はアリストテレスにとっては『弁論術』と並んで創作学を探究した著作で、人間の言語行為における修辞的要素と演劇的要素の分析を行ったものだよ。

『詩学』の功績は、創作方法論探究の端緒を開いたこと。人類の歴史上この著作が初めて「よい作品を作るのには何が必要か」を論じたんだ。これが現代において、シド・フィールドの三幕構成論として再構成されるんだね。三幕構成論を知らない方は、今すぐ「三幕構成」で検索して、Wikipediaの記事を読もう。三幕構成論その他の劇作理論解説書の類いは書店にわんさか置いてあるけれど、実際のところ、Wikipediaのこの記事が一番充実した内容になっているというのがキツネの評価だよ。

三幕構成論をざっくりと解説すると以下の通りだ。

 

1.物語とは、行為の連鎖のことである。作中の行為は因果関係をもって相互に結びついていなければならない。

2.物語を三幕に分けて構想する。三つの幕の分量比率は、概ね1:2:1である。

3.第一幕では、物語の設定が描かれる(※主要な登場人物の性格と目的、世界設定、物語の中心となる課題など)。第一幕の終わりには、ファースト・ターニングポイントがある。これは主人公が後戻りできないような大きな状況の変化のことである。第一幕全体は、このファースト・ターニングポイントに向かって有機的に連結している。例えば、ファースト・ターニングポイントのきっかけとなる出来事は、第一幕の半ばには展開されることだろう。

4.第二幕では、物語の対立・衝突が描かれる。主人公は課題に直面し、その困難を乗り越えて目的を達成しようとする。第二幕は三幕構成の中で比重が最も高く、ここで主人公の成長・変化が描かれることとなる。第二幕の中間には、ミッドポイントと呼ばれる転機がある。このミッドポイントは作品全体の中間地点でもあり、物語の展開を引き締める役割を持つ。そのため、このミッドポイントにおいて主人公の状況はまた一変し、より過酷な状況に置かれることが望ましい。第二幕の終わりには、セカンド・ターニングポイントがある。セカンド・ターニングポイントをもって第三幕へと展開するが、これは逆にいえば、物語の最大の困難を解決する一歩手前の状況、すなわち最大の危機的状況への移行を意味する。この危機を演出するために、ミッドポイントからセカンド・ターニングポイントの間には物語の勢いを生む様々な工夫がなければならない。

5.第三幕では、物語の解決が描かれる。第三幕の中心にはクライマックスが存在し、これを解消することで物語は解決される。それは主人公の目的が達成されるか、されないかの結論でもある。クライマックスは、主人公の成長・変化を試す最大の試練でもある。第三幕のラストとは、物語のエンディングであるため、このエンディングにおいて主人公の成長・変化の意義は問われることとなる。それは物語全体の印象へと直結する。

6.主人公が始めにどのような人物で、何をなし、どのような人物となって終わるのか。それを問うのが物語である。

 

以上。より詳細な道具立てはWikipediaに書いてあるから、気になってしょーがないというきみは聖杯探しのつもりでWikipediaに立てこもろう。でも、迷路みたいだから気を付けてね。ここに書いてあることに囚われて想像力が制限されてしまったと感じた人は、せっかくだからアリストテレス『詩学』と向き合った方がいい。なぜなら、アリストテレス『詩学』こそがシド・フィールドの三幕構成論の基礎であって、逆にいうと、『詩学』に書かれていないことは個々の創作指南書の独自説に過ぎないからだ。敢えてこんなことをいうのは、キツネ自身がいろんな作家さんの創作指導をしてきた経験上、三幕構成論との向き合い方に悩む人が多いということを知っているからだよ。

まさにこれが『詩学』の罪ともいえるだろう。『詩学』は定義づけにこだわる。詩作とは何か、悲劇とは何か、悲劇を構成する要素はしかじかでその優先順位は云々……。しかし、「よい作品とは何か」が事前に定義されてしまうと、あとは自分の創作をそれにどう合わせていくのかという問題に直面せざるを得ない。つまり、『詩学』の議論を創作する際に守るべき準則と捉えると、想像力に負荷がかかる。そうじゃないんだ。キツネたちはむしろ『詩学』の議論を換骨奪胎して、自由に参照すべきなんだね。キツネたちが創作において踏まえるべきはごく一部のみなんだ。それ以外の枝葉末節はある種の成功例の一つに過ぎない。参考にするもしないも自由と捉えれば、作家に残るのは武器だけだ。

三幕構成論を駆使して豊かな創作を行った作家さんの例としては、乙一『GOTH』などがあるよ(※『ミステリーの書き方』参照)。その他、三幕構成論で分析できる映画脚本事例はシド・フィールド『映画を書くためにあなたがしなくてはならないこと』、ブレイク・スナイダー『SAVE THE CATの法則』などを確認してみよう。ちょっと皮肉めいた言い方になるけれど、創作指南書はどれも牽強付会の感がある。例えば、シド・フィールドには、物語の主題に関するアプローチが足りない。ブレイク・スナイダーは自分の創作理論の鋳型に分析対象を切り詰める傾向がある。スティーヴン・モファットとマーク・ゲイティスが脚本を書いたドラマ『SHERLOCK』の展開の速さと豊かさを、彼らの分析方法で汲みつくせるだろうか。映画『スリー・ビルボード』『パラサイト』『オマールの壁』の主題の深さを捕捉できるだろうか。そうは思えない。けれど、三幕構成論を参考材料の一つとして活用するのは、いつだって有益なんだ。

 

◆行為の模倣説

ここからは、アリストテレス『詩学』の分析のうち、現代の創作論においても中核となり得る議論を選りすぐって紹介するよ。

一つめは、行為の模倣説だ。アリストテレスは、創作の本質を「模倣」であると指摘している。

物語の創作において模倣の対象となるのは、行為だよ。行為者の性格は、その美徳や悪徳によって個性づけられる。

物語は人物そのものの模倣ではなく、行為と人生の模倣だ。幸福も不幸も行為のうちにあるわけだから、行為こそが人生の目的であり、行為にはその人物の性格が一緒に取り込まれる。行為なくして物語は成立しえない。要するに、物語というのは、行為の模倣でできているんだね。

このように、物語と行為の関係に着目するのがアリストテレスの卓見だ。登場人物の行為や性格と関係なく、だらだらとした描写や注釈が流れる退屈な作品を見たことはないだろうか。それは無駄なんだ、ということがアリストテレスによって論じられている。意味をもつのはひとえに「行為の模倣」なんだね。

なぜ模倣がそんなに大事かというと、それが人間の本性に関わっているからだ。すなわち、人間は幼少期から何かを模倣することに長けている。他の動物との違いはまさにこの模倣の巧みさだ。われわれは模倣の精巧さに感激し、喜びを感じる。これは、模倣が学びの一環であるからに他ならない。われわれは模倣を通じて真理に近づくのだ。

……この考え方は、実はアリストテレスの師であるプラトンの説には真っ向から反対するものだよ。プラトンは、模倣は真理から遠ざかる行為だと侮蔑していたからね。アリストテレスはこれを転倒させることによって、模倣を人間の本性として価値づけ、さらには芸術、物語といった人間の営為に意義を与えたんだ。このことが、既にみた三幕構成論の「1.物語とは行為の連鎖のことである。」に繋がっているんだよ。

 

◆カタルシス

二つ目は、カタルシスだ。カタルシスという言葉は既に人口に膾炙して久しいのではないだろうか。ある種の浄化作用のことで、『詩学』においては、悲劇の本質の定義の一環として出てくる。曰く、

 

「悲劇とは、真面目な行為の、それも一定の大きさを持ちながら完結した行為の模倣であり、作品の部分ごとに別々の種類の快く言葉を用いて、叙述して伝えるのではなく演じる仕方により、憐れみと怖れを通じ、そうした諸感情からのカタルシスをなし遂げるものである。」

 

カタルシスの正確な意味は議論百出して通説をみないのだけれど、物語というものに既に馴染みのあるキツネたちにとっては、正確な意味づけなどなくても「カタルシス? ああ、あれのことね」と何となく理解してしまっているではないだろうか。物語がクライマックスを迎え、解決を迎え、その物語を通してでなければ得られなかったであろう独特の感覚を抱くとき、それをカタルシスと呼ぶ。

それはつまり作品によって異なるはずだ。作品固有の形があるはずだ。あなたが作家なら、あなただけのカタルシスを目指して物語を書き進めるはずだ。われわれはそれを目指したい。

アリストテレスが「よい物語」に求めるのは、そういうこと。

 

◆物語の完結性

三つめは、物語の完結性だ。

物語は、一定の大きさを持ちながら完結した行為の模倣である。言い換えると、全体としてのまとまりが不可欠である。始まりも終わりもないものは物語だと認識できない。だから、ここでいう完結性は、まず始まりがあり、中間があり、終わりがある、という三段階のプロセスを必然的に有している。始まりとは、それ自身が何かに後続している必要のないもののことで、要は話の起点となり得るもののこと。中間とは、それ自身の前後に他の部分が存在したり発生したりすることを本性とするもので、要は始まりと終わりの間で必然的な関連性を有しているもののこと。終わりとは、それ自身の後には何もない、何も必要がないもののこと。

組み立ての優れた物語は、任意のどこから始まってもよいものではないし、どこで終わってもよいものでもない。また、物語の各部分は、ある部分を移し変えたり抜き去ったりすると物語の全体が変質し、動揺してしまうように組み立てられていなければならない。あってもなくてもよいものは、統一性を構成する部分ではないからである。ある出来事が起これば必然的な展開で他の出来事も起こるという関係が重要である。

以上の議論こそが、三幕構成論の出発点となるもので、これは論理的な要請なんだね。つまり、ありとあらゆる物語が必然的に有している型の自覚なんだ。ただ、アリストテレスが「よい物語」として強調したのは、これら三幕の要素が必然的な関連性、すなわち因果関係を有しているということだ。現代の三幕構成論が必然性を強調しがちなのもこれが原因だ。一方で、20世紀に勃興したアンチロマン、アンチテアトルなどの流れは、このアリストテレス的な「よい物語」観への大々的な反対運動だったんだね。明確な意図のもとで、三幕構成の枠組み自体を批判の俎上にあげることは可能だということだよ。

 

◆逆転と認知

四つめは、逆転と認知に関する考察だ。

逆転とは、物語の成り行きが予想に反した方向へと急転すること。認知とは、それまで認識されていなかった事柄が明らかになること。アリストテレスが参照するソポクレス『オイディプス王』においては、コリントスからの使者がオイディプス王に福音をもたらそうとして、逆に破滅の知らせを届けてしまうという事件があった。これは逆転と認知が同時に起こった事例だ。アリストテレスはこうしたダイナミズムを高く評価する。三幕構成論におけるターニングポイントやミッドポイントの考え方は、突き詰めれば逆転と認知の問題でしかない。その発生のタイミングも物語上の必然性さえあれば任意の場所で構わない。そのタイミングに応じた効果があるはずだ。逆転と認知を繰り返せば繰り返すほど、物語のサスペンスは増し、テンポは速くなる。アリストテレスが『詩学』をまとめた古代ギリシャ時代やシド・フィールドが三幕構成論をまとめた20世紀と比べると、現代は時代の流れがより加速しており、物語のテンポも断然速くなっている。行為の連鎖と必然性、逆転と認知のプロセスを徹底することで、シド・フィールドよりも緊密な物語構造を構想することは可能だろう。先ほど挙げた『SHRLOCK』はその好例だね。他には、クリストファー・ノーランとジョナサン・ノーランの『ダークナイト』『インターステラー』なども、三幕構成論の従来の鋳型にはおさまらない傑作だと思うよ。

 

◆人物造形の一貫性

五つめは、人物造形の一貫性だ。

アリストテレスは人物造形に関しても一家言あったようで、「悲劇なら優れた人物を描いて欲しい」とか「女性は勇敢じゃない方が好みだ」とかテキトーなことを言っているけれど、現在に通じる議論もある。例えば、物語の登場人物にはその人間としてのリアリティが必要であり、リアリティを基礎づけるのはその人物の性格の一貫性だという理解。

アリストテレス曰く、一貫性のない性格の持ち主ならば一貫性のないことが一貫していなければならない。こうした一貫性の土台があって初めて、出来事の必然的な展開と解決がもたらされると考えていたようだ。確かに、人物造形が一貫しており、そこにリアリティがなければ行為と出来事の必然性は想定できない。人物造形が大事だという一般論はよく耳にするけれど、それはこうした洞察に基づくものなんだね。

 

さて、そろそろ話を切り上げよう。アリストテレス『詩学』には他にも見どころがたくさんあるよ。冒頭に述べたように、アリストテレス思想の一部として捉えたときには、単なる創作論を超えた豊穣な人間論、芸術哲学の展望がひらける。あるいは、模倣論の元祖として捉えた場合には、現代思想にまで繋がるアウエルバッハやアドルノ、ベンヤミンのミメーシス論の沃野がひろがる。でも、それは今日の本題ではない。

アリストテレスの態度は、自分の理論に断固とした論証を与えることだ。論証というのは、実際には反証の呼び水となるもので、その批判検討の応酬が大きく人類の精神史をなしている。もしきみがアリストテレスの『詩学』や三幕構成論を偏狭だと感じるのであれば、ぜひ批判してあげて欲しい。その先に豊穣な創作の可能性が待ち構えていることを、アリストテレスだって期待しているはずさ。なにせ彼は、問答法の始祖であるプラトンの弟子、ソクラテスの孫弟子なのだからね。

 

というわけで、今日はアリストテレス『詩学』を台無し解説してみたよ。

ちゃんと台無しになったかな??

それでは今日のところはご機嫌よう。

また会いに来てね! 次回もお楽しみに!

 

◇参考文献

アリストテレス『詩学』(光文社)

シド・フィールド『映画を書くためにあなたがしなくてはならないこと』(フィルムアート社)

ブレイク・スナイダー『SAVE THE CATの法則』(フィルムアート社)

日本推理作家協会『ミステリーの書き方』(幻冬舎)


◇動画版

編集が間に合ってないよっ。

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