最終話 薄皮

 気が緩んだのか、発注者の名前を見てみた。

 責める気はない、ただなんとなく見てしまった。今回ミスをしたのは川崎さんだった。

 

 休憩室で一服していると、川崎さんが入ってきた。どうしたらいいか分からず視線を泳がせていたら声をかけられた。


「あの……私のミスした商品を伊東さんが他の店舗に回してくれたんだって聞いて。本当にありがとう。手間をかけさせてしまってごめんなさい」


 川崎さんは頭を下げた。ショートヘアの川崎さんはこんな時、なびくほどの髪の毛の長さはない。けれども香りが飛んだ。シャンプーだろうか香水だろうか。

 レジの人は白衣を着ている。川崎さんの白衣の襟元でネックレスが揺れる。鎖骨も見えている。

 私が白衣を着たら毎日Tシャツかブラウスの襟が見えるだろう。鎖骨が見えることはないだろう。それが私なんだ。私は立ち上がる。


「ううん仕事だし気にしないで。頭を上げて。それに私今、チャンスだって思っている」


 えっという顔をする川崎さん。勢いをなくしてはいけないと思い私は続ける。

 この間あんな風に気まずくなってしまった私に、こんなにはっきりと謝罪と感謝を述べることが出来るんだ。川崎さんは、そういう人なんだ。


「この間川崎さんがはっきり言ってくれたから気づけたの。みんなが愉しもうとしているのに私だけ偉そうだって。その通りだったよ。ごめんなさい。私は傲慢ごうまんだった。

自分を見直すきっかけになった。それに、私も愉しむことにしたの。川崎さんのおかげで気づけた、ありがとう」


 川崎さんは戸惑った表情をしている。それはそうだろう。仕事上の謝罪と感謝の意を述べに来たのに、相手から仕事以外の感謝を伝えられるなんて。

 しかしこのタイミングを逃したらきっと言えないと思った。川崎さんと気まずいままだときっと仕事もやりづらいと思ったから。


 なりふりかまわず行ってもいいんだ。きっと私にはそれくらいがちょうどいいのかもしれない。もっと簡単に物事を考えたっていい。


「今度、私に合うアイシャドウ選んでくれるかな? 化粧品のこと全然分からなくて。川崎さんメイク上手だし、お願いしたいな」


 私は控えめに、しかしはっきりと言った。川崎さんはようやく理解したといった感じで笑顔になった。

 休憩時間が終わるので私は休憩室を後にした。川崎さんも仕事に戻った。


 言えた。自分の正直な気持ちを言えた。それがこんなに嬉しいなんて。

 今まで本音を出すなんて滅多になかった。いつも虚勢を張って自分の恥ずかしさを隠そうとしていた。それが結果的に痛い人になっていたことを本人は気づかないのだから、私は倍恥ずかしかったのだ。

 私は本当に馬鹿だった。傲慢だった。無知だった。こんな私に、胡桃は根気強く何年も友達でいてくれた。いつも助けてくれる。

 胡桃だけじゃない、川崎さんも前田さんも、私の人生に刺激を与えた。お局様が私を信頼して仕事を預けてくれたのも嬉しかった。少し前まで私の人生には胡桃と天竜くん以外、関係ないと思い込んでいた。


 そんなはずはなかった。私に呆れているはずなのに、真剣にぶつかってくれた川崎さん。川崎さんの本音がなかったら私、ずっと気づかなかった。

 川崎さんと前田さんのことをもっと知りたいと思った。同時に、自分の気持ちももっと大事にしようと思った。

 

 目の前が光り輝いて見える。蛍光灯はこんなに眩しかっただろうか。

 ううん、今までは自分が見ようとしていなかっただけだ。さなぎが蝶になる光景が浮かんだ。

 今の私はきっとそれに近い。いや蝶だと綺麗に表現しすぎかな。じゃあ脱皮か、それも違う。

 卵の殻が割れた感じかな。そうだ、卵の殻くらいの硬さだったんだ。いつだって割れるんだ。

 じゃあ今の私は、殻の内側の薄皮まで来た。薄皮を破って、予想出来ない方向へ飛び出したっていい。

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うす皮 青山えむ @seenaemu

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