3月22日
朝、自然と目が覚める。また一日が始まった。半分しか開かない寝惚け眼をこすって制服に着替える。リビングでは朝食が出来ていた。母が作ったようだ。トーストにバターを塗り、目玉焼きに塩だけかける。ベーコンはそのままいただいた。ほとんど空のリュックを背負い、家を出る。鍵を閉めて、指差し確認。栞に会いに行く。
駅前は人通りが多い。僕が人を避けつつ歩いているとぶつかりそうになったおじさんに「邪魔だよ」と小声で言われ、肩を押された。僕は無視した。自分より二十も三十も年下の人によくあんな強く当たれるものだと思う。僕は十個下の小学生にだって怒りが沸いたことは無い。コンビニでミントのタブレット菓子とペットボトルのお茶を買った。店員に釣り銭をぶっきらぼうに投げられた。びっくりしながら小銭をしまう。逃げるように店を出た。その眼鏡のおばさんの店員に「はい、ありがとうございます」とぼそぼそ言われる。僕は無視した。ホームで電車を待っているとクラスメイトに会った。僕に栞の自殺未遂を知らせたあの女子だ。同じ駅を利用していたなんて知らなかった。
「常磐くん。彼女と上手くいってるらしいね」
僕は首を傾げた。
「どっちかわからないって? あはは。美海と別れたのは知ってる。しおちゃんと復縁したらしいじゃん。昨日二人でデートしてたんでしょ。見てた人がいたみたい」
その子は笑顔だった。栞と比べたらずいぶんと醜い笑顔に思えた。
「しおちゃんって今はめちゃくちゃ気色悪いんでしょ。どんな感じだった? 病んでた? リスカの痕はあったの?」
僕は無視した。「滅茶苦茶」という言葉を使う女子には辟易する。
「あれ、ホントに付き合ってるの? マジで? やめなよ。あんな気持ち悪い子」
彼女はその場から立ち去った。お前の方が断然気持ち悪りいぜと思った。満員電車に乗ってからは両手で吊革を掴んで窓の外に目を遣っていた。途中で乗って来たスーツを着た女性がじろじろ視線を送ってきたが、意味の無いことだろうと思って無視した。高校のある駅で降りると女子高生がスカートの裾を掴んで泣いているのを目撃した。制服を見ると知らない高校だった。大方痴漢にでも遭ったのだろう。可哀想だが何もできないので僕は無視した。階段の手前で車椅子に乗る男性が歩行者の波に阻害されて立ち往生していた。周囲の人間はことごとく無視していたので、僕も無視した。駅前の柱の陰では浮浪者がタバコを吸っていた。僕は無視した。腰丈くらいの身長しかない小学生が定期のぶら下がるランドセルを背負い、一人で駅の方向へ向かっていた。タクシーがせわしなく客を拾っては下ろしていた。自転車が僕の真横を飛ばして行った。ロータリーの向こうの道路でも車が何台も目まぐるしく通過していた。駅前のゴミ収集所ではカラスが袋をついばんでいた。駅前の大通りの雑居ビルにはいくつも看板が出ていた。パン屋、美容院、漫画喫茶、不動産屋、学習塾、フィットネスジム、ファミレス。どれも煤けていた。信号待ちをしていると隣にしわくちゃの服を着た老人が立った。老いた犬を散歩していた。何やら騒音がすると思ったら、安っぽい車が音楽を大音量でかけながら運転していた。信号が青になり横断歩道を渡ろうとすると、右折の対向車が無理やりこちらの目の前を通った。嘔吐の跡が電柱の近くに残っていたので避けた。街路樹はどれも寿命を迎えたらしく、全て切り株の状態で残っていた。
最近気付いたことがある。街が汚いということだ。栞と二人きりの綺麗な空間にずっといたからだろうか。街にある全てが汚いと思うようになった。汚れた空気、汚れた地面、汚れた建物、そして汚れた人間たち。そもそも人が多すぎる。どうして社会にはこんなに人が必要なのだろう。例えば一つの市の人口が丸ごと消えたら世界は立ち行かなくなるのか。たぶん大丈夫だ。人なんていくらでも代わりが利く。そりゃ栞の命綱は僕しか務まらないと栞は言うだろう。しかし僕がいなくなっても──それはこれから数週間後に起きるが──栞がすぐ死ぬことは無い。人が無駄に多いのだ。その山のような数の人間たちが社会においてそれぞれ醜さを生産している。僕ももちろんその一部だ。栞もそうだった。だけど栞はその舞台から一度飛び降りている。押し出されて落ちてしまったとも言えるが。この不快なシステムは誰のためにあるのだろう。栞を死なせようとしたシステムは何の意思を持っていたのか。
僕らは自身の安全のために社会に籍を置いている。日本の家族制度に従えば、成人までは充分に扶養される。学校制度に従えば、小中高まではほぼ確実に進学できる。今ではほとんどの人は望めば大学にも行けるだろう。そう、僕らは二十年近く自由に生きられる。システムに従えば楽に生きていける。また、法律というシステムに全員が従えば平和な社会で暮らせる。システムはたくさんの人を救える。少なくとも国家や家族や学校は人を救うための機構だ。じゃあ何で栞を追い出す必要があった? 誰が追い出した?
僕も含めた社会の構成員全てだ。僕らは資本主義社会に生きている。競争社会、椅子取りゲームだ。競争は生まれたときから体に刷り込まれている。生きるには誰かを追い出さないと自分が脱落する。家族の中では競争は無いかもしれないが、学校では明確に競争がある。学力成績で競わされ、テストの点数で順位付けされる。体育祭や部活でも競う。周りと比べることを強要される。僕らは隣の人間と比べて何が優れ、何が劣るか毎日観察している。油断すれば食われる。油断を見たら食い付く。僕はそれを見てきた。小学生の頃、野球チームでレギュラーを勝ち取った。そのとき他の子からポジションを奪った。つまり、他の選手を食った。いじめた女の子をクラスから孤立させた。僕はあの子を食った。僕はクラス委員の男子をからかい、クラスメイトの反感を買って孤立した。僕はクラスメイトに食われた。中学校に上がってからも孤立したままだった。中学の同級生に食われた。高校生になってテストや通知票の成績では学年の半分の人間を食い、半分の人間に食われている。西川さんと身勝手に付き合い、身勝手に別れた。西川さんを食った。西川さんを好きだった男子、栞を好きだった男子を僕は知っている。僕はそいつらを残らず食った。栞の孤独を知って、自殺願望を知って、刃物を掴む栞を知っているのに帰らせた。結果、栞は倒れた。僕は栞も食った。骨の髄まで食い尽くした。弱った栞に付け入って栞との関係を修復した。栞に好きと言わしめた。僕は好きと言わされた。僕はまだ栞を食っている。そして家族から栞の心を取り上げた。栞の家族を食った。クラスメイトからは栞との関係を疑われている。僕はまた学校で食われる側に回りそうだ。──うんざりする。
しかし、僕らは無意識にもっと多くの人命を食っている。僕らが衣食住を満足に生きている現在だって国内には貧困に苦しむ人がいる。それらの人を救済する手段は行政に任せきりだ。貧乏人を僕らは食っている。生活に不便を感じる、例えば子ども、老人、障がい者、外国人、病人も助けはしない。僕らは彼らを食う。さらに、国外ではその日食べる物が無い人や紛争によって生命の危機に脅かされている人々がごまんといる。僕らは食糧市場でお金をふんだんに使って彼らから食糧を取り上げるし、戦争には不干渉を貫く。彼らを見捨てている。彼らがいくら死んでも毎日平気で笑える。僕らは毎日莫大な数の人を食っている。殺している。そしてぶくぶく肥えているのだ。幸せで腹を満たそうと生きている。しかしまだ不幸だと考える人もいる。まだ食い足りないのだ。少なくない人が社会から邪魔な人間を追い出さないと、殺さないと、と躍起になっている。どんなに汚くても、競争に勝とうとする。その歪みが社会からにじみ出ていた。皆静かに狂ってる。よく見たらこの社会の人間は全員狂人じゃないか。僕はここに生きることが耐えがたい。栞は耐えられなかった。ならば僕はどうしたいのだろうか。
程なくして公園へたどり着く。住宅街の中にポツリと設置された公園。適当な配色のペンキが塗られたブランコに栞はいた。栞は以前僕が座った座席とは反対の座席に座っている。手にはサンドイッチを持っていた。公園の入口から見てもタマゴサンドだとわかる黄色だった。朝から一人で公園に行ってパンを食べる女子高生なんて、やっぱり頭おかしく見える。『歯車』を読んだ僕にはブランコが絞首台のように思えた。
僕は公園に足を踏み入れる。腕時計によると八時九分。まだまだ時間はある。公園は周りから独立した空間のようだった。駅なんかよりよっぽど綺麗だ。金網のフェンスに囲まれ、ケヤキがほどほどに植えてある。住宅街の道路では小学生が集団登校して、老人がほっつき歩いているが関係無いと思う。見たいなら見てみろ。羨ましいだろ。高校生の男女が共に語らっていたら絵になるんじゃないか。──ならないか。真っ直ぐ学校に行くべきだろう。しかし僕らはアウトローなんでそう簡単には行かない。
「おはよう、栞」
栞は口をもぐもぐ動かしたまま微笑んで、片手で髪を整える。
「おはよ! 唯都くんも食べよう」
栞は僕にサンドイッチのもう一方を渡す。タマゴが詰まったサンドイッチだ。手作りらしい。ラップに包んであった。食べると柔らかい食パンの中から甘いタマゴが広がる。生きている実感が沸く。二人してブランコに座り、言葉のやり取り抜きで食べ終えた。飛んで来た土鳩にパンくずをひと欠片あげた。栞がまた捕らえようとして逃がした。僕は笑う。栞も笑ってブランコに戻る。
「ねえ、唯都くん。今日は勇気をくれるお話してくれるんだよね?」
どうやら僕は勇気をあげるという大役を任されていたらしい。
「ごめん、全然そんなつもり無かった」
「えー、しょうがないなあ。もう学校行く?」
あとホームルームまで十五分ある。しばらくここにいられる。空は微妙に曇っているが暖かくて心地良い。もう少し話そう。
「栞とは当分会えなくなるんだよね。今のうちに話したいことがいっぱいある」
「愛の告白ね! 遠距離恋愛の準備しないと」
「いや、告白とかじゃなくて……。そう言えば住所教えてくれる?」
栞は住所を述べる。東京を挟んで反対側の県だった。
「げ。家から電車で二時間弱。電車賃も高い」
「そんなこと言わないで。毎月でいいから会おうね!」
僕は美容院に行く頻度を若干減らさないといけないらしい。それはおいおい考えるとして。
「栞に一つ訊きたい」
二人で脚を投げ出し、座席を緩慢に揺らしている。朝独特のひんやりした匂いを感じた。
「栞はこの数日何に救われたんだろう」
僕の声の余韻をたっぷり聞いて栞は答えた。
「……唯都くんに救われたって言えばいい?」
「いや、そういう訳じゃないんだ。僕は栞と再会してからの期間が充実していると感じた。栞はどう思ってたかなって」
僕は膝の上で両手を組んだ。恥ずかしくって栞の顔は見られない。
「幸せだった。唯都くんに想いを伝えられたこと。それに応えてくれたこと。夢みたい」
僕も一生のうちで誰かと心を通わせることができるとは思ってもみなかった。栞と逢えたのは幸運だった。
「私の支えになったものか。唯都くんは当たり前。あとは家族、カウンセラーさん、お医者さん。小説、音楽、テレビ。うーん、他は……美味しいご飯とのんびり過ごした時間」
栞はスポーツドリンクを飲んでいた。
「そっか。学校に行くのは幸せだった?」
栞は「難しいな」と苦笑した。ペットボトルをリュックにしまってから話し出す。
「学校に行けるようになれたのは嬉しい。だけど窮屈な思いをしないといけないのは悲しい。まあ勉強するのは学生の使命だから」
僕は空を見る。雲が薄く張っていた。
「栞、僕と離れても生きていてくれ」
栞はきょとんとする。
「そのために僕なりに言葉を託すよ。僕がいなくても栞が自立できるようにね」
次いで悲しそうな表情を浮かべた。
「嫌なことの全部から逃げていい」
栞は「続けて」と言う。僕は頷く。
「辛いこと、怖いこと、苦手なこと、全てを避けて生きていい。栞は人より繊細で脆い。だから逃げずに立ち向かう必要は無いって最近思うようになった」
「……逃げるって? 駆落ちの提案?」
栞は楽しそうに聞く。目を輝かせて滅多に長口舌をしない僕の言葉を待っている。自分は聞き手の方がふさわしいとつくづく思う。
「何からも逃げていいって言ったんだ。例えば学校からも。死んじゃうくらい辛いなら学校には行かなくていい。行っちゃ駄目だ」
栞は相変わらず熱心な視線を送ってくる。
「栞は学校で『親友』を失ったんだ。学校そのものに苦手とするところがあるんじゃないか」
「でも、唯都くんと逢えたのは学校だよ」
「そうだけど。今日も学校に行って嫌な思いをするかもしれない。僕は栞が苦しいなら学校には行くべきではないと思っている。死んじゃうならね。死ぬまでして学校に行く価値は無い。絶対に無い。学校は休んでいいし辞めてもいい。学校は人生の全てではない。勉強したくて進学したいなら、今は通信制でも充分できる。友達が必要なら僕がいる。会いたいと言われたら可能な範囲で会うよ。将来、就職ができなくても家族が支える。あとはそうだね。もし栞が彼氏を欲しくなって、僕の気持ちが不変なら恋人になってやる。僕以外に気違いの女の子に好感を持つ、物好きがいなければの話だけど」
栞は笑う。ブランコが揺れた。
「あんまり大言壮語しない方がいいよ。唯都くんは無駄にモテる上に浮気性なんだから」
甚だ不服だ。
「まあ栞より可愛い女子がいたら……その目やめてよ」
栞は僕をじとっと見ていた。が、自身の腕時計に二度見してその暗い目をやめる。
「待って。もう時間だよ、遅刻しちゃう!」
栞は大声を上げる。そんなに慌てなくても。
「いいじゃないか、遅刻したって」
「ふふ、そうね」
「僕らは枠いっぱいのアウトローなんだ」
栞は笑って拳銃を撃つジェスチャーをする。栞が凶器を持つとは不吉でしかない。
「それで話を戻すけど、どんな状況でも栞を支持する人は少なからずいるってことを覚えておいて」
「うん。私、唯都くんは信頼してる」
「僕も。だからね、嫌なことからいつでも逃げて大丈夫なんだ。誰かが救ってくれる。そして死んじゃ駄目だ。生きてれば何とかなる。生きてればいつか良いことも起きる。栞だって命を取り留めてから僕と仲が深まったろ?」
「幸せって言ったじゃん」
「うん。生きてれば取り返しがつくこともある。自分を許せることもある。他人を理解できることもある。だから学校なんてつまらないことで死んじゃ嫌だ。他にも家族のこと、友人や恋人のことで辛くなっても同じ。逃げていい。嫌なことから全部逃げろ。僕の所に逃げて来ていい。泣きたかったら胸元を貸すし、怒っていたら背中を貸そう。思う存分発散してくれ。ああ、僕から逃げてもいいんだよ」
栞は微笑む。
「僕にとっての幸せは何なのかよく考えてみた。ここ数日ずっと楽しかったから、きっとこれが幸せなんだって気付いた。栞とのんびり話してご飯を食べる、そういう地に足を付けたマイペースな生活が僕の幸せなんだ」
「ハグとかも?」と栞が茶化す。僕は「ハグとかも」と付け加える。
「学校は対照的だった。あれは僕向きじゃない。まあ必要とあらば頑張るけどね。あくまでも無理しない程度に。でも僕にとって学校は幸せを探す場所じゃない。幸せな大人になるための通過点だよ。つい最近まで僕は学校が全てだと考えてた。学校での成功失敗が人生を左右すると思ってた。違うんだよね。小学生や中学生の頃、僕は孤独で、それが恥ずべきことと考えていた。独りでいると劣等感が沸いた。でもさ、今考えたら全然大したことではない。教室に一人でいる小学生や中学生を見ても、高校生の僕は何とも思わない。当時の自分には大事だったけど、外の人間からしたら短い数年間の孤独なんて仕方ないことに思える。高校、大学行けばいい友達に会える。社会に出ればもっと色んな人がいる。お前は一生独りではないんだから、ちょっとの間我慢しとけって教えてやりたい。それよりも重要なことはたくさんある。どうせ人をいじめるようなヤツは阿保だからね。変に馴れ合わないで良かった。あっ、栞に対する当て擦りではないよ。ごめん。自分の信念は曲げない方がいいって言いたかった。だから僕は今でも友人は選ぶ。自分に合わないと思った人間には近付きすぎないようにしてる。一人もいなければ、また独りになろうと──」
「私が独りにさせないよ」
栞が笑顔を見せる。朝日を正面から綺麗に受けていた。
「僕には栞がいる。覚えておく。そうだね、これからは気楽に生きよう。生きたいように生きる。栞も適度にフザけて生きるといい。栞は僕といるときは結構面白いんだから、新生活では素の自分を前面に出すといいよ。それで嫌われることはない。栞は話すといい子だとわかるタイプだ。とにかく心身共に元気で」
僕は栞に笑い掛ける。栞は頬を染めて笑う。
「一応それで言いたいことは終わりかな。他に思い出すことがあったら後で言うよ」
「うん。……はあ、面倒だけど学校行く?」
栞が立ち上がる。僕も立って背伸びをした。まだ八時四十五分。ホームルームの時間だ。
「その前に二人で滑り台乗ろう!」
滑り台か。「二人で?」と問うと笑みを深めた。二人で階段を登り、窮屈だがてっぺんに立つ。栞が前で僕が後ろ。
「私は、常磐唯都が、大好きだあー!」
栞が叫んだ。いきなりどうした。引っ越し先でも適切な精神の治療が受けられるのか心配になる。とりあえず僕の名前を新天地で宣伝しないよう躾ける必要がありそうだ。
「私、幸せ。唯都くんは幸せ?」
栞は振り返る。いい笑顔だ。
「早く滑るなら滑りなよ。僕はこれから幸せになるんだ。今日はまず学校に行く」
僕は座った栞をぐいぐい押した。栞は怒りながらストンと滑り落ちる。僕は栞の背中に蹴りを入れるつもりで勢い良く滑った。栞は砂場に退いていたため、ローファーが砂に突き刺さる。泥を払った。栞はリュックを取って来てくれる。僕は肩に掛けて背筋を伸ばした。そろそろ登校しよう。
栞は閑散とした通学路で一人歌った。午前中の住宅街で大声出すのはいけないと思うけど大目に見よう。それで落ち着けるなら、恥はかき捨てであろう。
栞は学校に近付いてくると僕の手を握った。僕の右手を栞の左手が掴む。何となく勇気が得られる気がする。栞がいるから僕は平常心を保てるのかもしれない。今日は栞が登校するということでやはり不安な僕がいた。けれど僕は半年の間は栞の笑顔に救われていた。逢えて良かった。そりゃ、辛い時期もあった。栞とケンカするなんて二度と御免だ。もう一度したらまた寝込むかもしれない。でも栞とは話し合えば理解できた。誰よりも。僕は栞がいてくれたからこそ心を開けた。だからこれからも本当は傍にいて欲しい。でもそれは叶わない。お互い夢を成し遂げてから再会するのだ。まあ来月も会うかもしれないが、こうして毎日会えるようになるのはまだ先だ。
未来の僕はどうだろうか。まだ栞を好きだろうか。ただ、栞が僕を野放しにするような予感は微塵もしない。意外と現実的に将来設計をしてそうだ。どうなってもいい。栞が生きていたら。栞がまた元気一杯に笑える日が来るように。僕がこの子の新しい親友になれるように。肩書は親友じゃなくてもいいけれど。ひとまず今日は学校に行く。
正門には誰もいなかった。セキュリティが甘々だ。僕らは手を離して教室に向かう。校内はやけにざわざわしていた。恐らく終了式で体育館に移動する準備時間なのだろう。教室や廊下で生徒が待機しているから騒がしいのだ。僕と栞は四階の教室に行くので階段を上がった。栞は階段の段数を数えていた。
「十一、十二、十三。どこも十三段。最悪だ」
栞は三階と四階の間の踊場で笑った。学校の階段はクリスチャンを拒んでいるのかもしれない。僕は苦笑いしかできない。
「ねえ、唯都くん。バラバラに行ってもいいよ。私と一緒だと変な目で見られるかも」
首を振る。ここまで来てそんなことしない。僕はむしろ誇らしい。栞を救えた唯一無二のクラスメイトなんだから。これは僕にしかできなかったことだ。喜んで凱旋するさ。目立つとか騒がれるとかは、むしろ望むところだ。
「さ、遅刻だから早く行こう。僕も最後の最後で遅刻が付いてヘコんでるんだ」
栞は笑って付いて来た。栞が頑張って闘って学校に来たんだ。僕は教室の扉を開ける。ざわざわがしんと静まる。僕が歩き出して、背後に隠れていた栞の姿が晒されると更に空気が凍った。栞も僕も平然と自分の席に座った。またざわざわが大きくなる。何の話をしているのかまでは聞き取れなかった。何でもいいやと思う。どうせ大したことは考えてないだろう。栞に危害が加わらなければそれでいい。栞は一人で文庫本を熟読していた。僕のあげたしおりを指に挟みながら。カバーが掛かっているが何の本か僕は知っている。あの子は三島のファンらしい。僕は『河童』を読む。なぜ僕がしおりを使うようになったか。単純に学校の隙間時間に読むようになったという理由が一つ。もう一つは栞のプレゼントを放っておくのに心が痛むからだった。もしかしたら本を読み始めたのもしおりを使うためだったのかもしれない。相変わらず僕は阿呆だ。栞は立派だよ。栞の言葉を思い出す。しおりはセーブアイテム。栞は一度人生を中断して、そして戻って来た。充分立派だ。
終了式に出て教室に戻る。その間、僕は誰とも話さなかった。栞も同じだった。通知票を渡されるとき、呼名された。栞の方が出席番号が先だったが、担任から呼ばれるとクラスが静まりかえった。僕は腹立たしかった。栞は頑張って学校に来たんだ。栞はいい子なんだ。なぜわかってあげないのか。どうして想像だけで軽蔑の目を向けられるのか。確かに栞は頭がちょっとアレだけど、充分優しいんだ。僕も呼ばれたので取りに行く。予想を超えもせず下回りもしない中間。後で見比べたところ、栞の成績は僕より断然良かった。三学期くらいは真面目にテストを受けた僕に軍配が上がっても良さそうなものだが。
ホームルームで挨拶をして終わった。案外今日の学校は短かった。僕は栞の席へ行って「帰ろう」と言う。栞は笑って席を立つ。僕たちは教室を出た。
校門付近の桜は咲いていた。行きは見忘れていたようだ。そう言えば昨日、東京で桜の開花宣言が発表された。いよいよ春本番だ。栞は僕の横を歩いている。栞は僕に満開の笑みを見せていた。
「私もね、ちょっと考えてみたんだー」
「ん、何を?」
栞は僕の顔を覗いて笑いかけてきた。
「将来のこと。私、カウンセラーになろうかな」
「栞は悩んでいる人に共感しすぎて上手くいかないんじゃないの」
「え、向いてないって? じゃあよっぽど頑張らなきゃね」
「ま、夢が見つかったのはいいことだ」
「唯都くんのおかげだよ」
「そうかな?」
学校の門を出た。桜の花びらが僕と栞の間にひらりと落ちた。栞は頬をほのかに赤く染めていた。瞳を潤ませながら僕に言う。
「唯都くん、今日までありがとう」
「ああ。こちらこそ」
「学校、楽しかったね」
咄嗟に笑えなかった。僕は一旦下を向いて、頬を流れた一粒の涙を親指で拭う。
「うん。楽しかったよ」
桜を見上げると、延長に青空が見える。太陽が優しく世界を照らしていた。
——僕は笑った。
サニーサイドアップ 日野 @39negiorange
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