×月×日

 時が流れるのは早いもので三月二日土曜日になっていた。僕はリビングに置いてあるデジタル時計の日付表示を見てそれを確認した。電波時計だし、合っているはずだ。時刻は七時四十七分。もうそんな時間か。髪をかき上げた。

「めんどくさい」

 家事を一通りこなす。風呂洗って沸かして、洗濯物畳んで、夕食は簡素な味噌汁、冷凍のシュウマイとハンバーグ、茹でたブロッコリーと玉子、最後に白米をよそって終わり。家族があと数十分で帰って来るはず。寝よう。僕はソファーに寝転がって、頭の後ろで手を組む。帯刀が自殺未遂を図ったのは二月二十二日。一週間ほどが経ったか。大変な週であったことに疑いがない。

 二十五日月曜日、学年末テストの日。僕は一夜漬けの頭を抱えて学校に行った。テストは何とかなるもんだ。何とかならなかった試しがない。下には下がいるというのは社会の常識だろう。たぶん真ん中くらいの成績を取れた。問題はそこではなかった。

 教室に帯刀がいなかった。担任は体調不良だと朝のホームルームで言った。僕は風邪でもインフルエンザでもあの弱った体なら受け入れてしまうだろうと思ったから不思議には思わなかった。しかし僕の前に座る女子生徒がまず衝撃の発言をした。一時間目の現国と二時間目の化学基礎の間だった。彼女は帯刀とも西川さんとも特別仲が良い訳ではない人だった。振り返って僕を見て「しおちゃんが自殺未遂した噂って本当?」と訊いてきた。嘘だと思った。そしてなぜ僕に訊くんだろうとも思った。最近帯刀を家に招いたことがバレたからだろうか。西川さんに「言い逃れできるの?」とヒステリックに言われる未来を想像し、元素の結合を一個忘れた。どこで噂を知ったか訊き返すとその子は西川さんの友達らしい名前を挙げて、その人から聞いたと言った。「本当に知らないの?」と再度尋ねられたが僕は知らないと答えた。「しおちゃんの元カレのくせに」と笑われた。半信半疑ではあったが漠然とした不安は広がった。火の無い所に煙は立たない。根拠も無く自殺なんてキーワードは出て来ないだろう。でも帯刀は思い留まったのではないかとも考えていた。

 テストは午前に終わって西川さんと帰った。電車で他の生徒がいなくなったところで帯刀のことを訊いた。僕の口から「帯刀」と出るのを嫌がっていたが、西川さんは教えてくれた。そもそもその噂の提供元だった。西川さん曰く、二十二日の夜十時頃事件が起こったという。救急車のサイレンが住宅街に響いて、窓から外を覗くと赤色灯が見えた。弟と上着を羽織って見に行くと帯刀の家にパトカーが停まっていた。救急車はもういなかった。家の玄関では警官が父と姉らしき人と話していた。野次馬が集まっていて、彼らの立ち話を聞くと殺人ではなくて娘さんが自分で手を切った、自殺未遂だと話していた。それで今日、帯刀の欠席を知って確信したと言う。「リストカットだよ。気持ち悪いね」と西川さんは言った。僕は「そんなことクラスに広めちゃいけないよ」と言ったが「私は二人にしか言ってないよ」とけろっと返した。その二人の性格による気がしたが、西川さんは話題をすぐ変えたので追及はそれ以上しなかった。僕はどうも真実らしいが確証は無いという宙ぶらりんの状態に置かれた。帯刀にはラインを送ってみたが、既読も返信も無くて、何だかよくわからないままになった。そしてこのまま一生会えなくなることや、ひょっこり戻って来ること想像をした。テスト勉強もあったから、深刻になろうにもなれなかった。

 翌日、翌々日も帯刀は来なかった。噂はクラスの外にまで広がっているようだった。僕はそれを何度か耳に挟んだ。テストの合間の休憩時間、トイレを出て水道で手を洗っていると廊下にたむろする女子たちの会話が聞こえた。

「しおちゃん、マジで?」

「自殺未遂」

「病んでるじゃん、怖い」

「逆にあんな穏やかそうな子だとヤバいんだけど」

「死にそうなの?」

「あはは! 駄目でしょ。そういうこと言ったら」

「一応未遂って聞いたけど」

「何で? いじめ?」

「そうじゃね?」

「何組だっけ」

「Bでしょ。ニャムとか美海がいる」

「あのクラスか! うわ絶対やだ。殺伐としてそう」

「実際そうだったんじゃない?」

「あり得る」

「せんせ! おはようございまーす!」

「いきなり何?」

「美海の真似」

「ヤバ」

「ニャムの真似もしてよ!」

「やだ、こんなとこでできない」

「皆、仲良くしようよ! えーん」

「美海再登場!」

「やめな」

「で、で、何でしおちゃん死んだの?」

「死んでないし!」

「そっか。ごめんよ」

「こら。天国に拝むな」

「死んだら報道あるはずって誰かが言ってた」

「先生も何も言ってないしね」

「そう言えば、しおちゃんって彼氏と別れたの?」

「いつの話してんの?」

「バスケ部の男子でしょ? 何でしおちゃんって思うわ」

「真面目そうなのにね。結局破局だし」

「でも、それが原因じゃないかって噂もあるの。しおちゃんはストーカーらしい」

「えっ、キモ!」

「さらに、ここだけの話、SNS依存症らしいよ」

「病み確定!」

「メンヘラ」

「やっぱああいう頭良くて美人な子にはバチが当たるのよ」

「佳人薄命ね」

「言えてる。でもね、友達が見たんだけど、その後また彼──」

 横を通り過ぎると、彼女たちは話を中断した。僕はむしゃくしゃした。

 二十七日までにテストは終わって休みに入った。県立高校の入試と採点があって高校はまた一週間弱休みなのだ。休み初日の朝、僕の元に電話が来た。「しお」の名前を見て飛び起きた。出たのは帯刀でなく、お姉さんだった。僕の「心配している」というラインを見て、妹の許可で報告を入れてくれたらしい。僕はお姉さんに帯刀との過去のやり取りを見られたことを思うとちゃんと顔向けできない。電話は、帯刀の様子を伝えたいから病院に来る? というものだった。運が良ければ会えると言われた。だけど僕を打ちのめしたのは、帯刀の自殺未遂は事実だということだった。帯刀は左手首をカッターで切って倒れていた。それをお姉さんが発見して通報した。傷は比較的浅めであったが流血はドラマで見るほどだったという。帯刀は救急搬送され、治療を終えると傷は回復した。そこまでだったと思う。あとはなぜ帯刀の自殺未遂を知っていたのか訊かれた。僕は近所の子に帯刀の様子を尋ねた結果、騒動のことを聞いたまでだと答えた。学校には広まってないと嘘を吐いた。そこは家族として気に掛けているようだったから必要な嘘だったと思う。

 二日後、つまり本日三月二日に帯刀に会いに行った。会えずじまい。今更になって心が鬱々としてきている。喪失感があった。もう会えないということが現実的になった気がした。会えるとしてもそれは近い将来ではないだろう。それに帯刀は、以前のようにはもう……。

 帯刀は今まで溜め込んできたものを爆発させてしまったのだ。僕に告白しに来たときにはきっと限界点だった。気付いてやりたかった。帰しちゃ駄目だったんだ。離れて独りに戻った帯刀は夜、とうとう壊れた。爆発させた。破裂した風船は元に戻らない。どうしたって以前の帯刀には戻らない。馬鹿なこと言って笑う帯刀には会えない。憔悴したままかもしれない。極端に大人しくなるかもしれない。逆に変に明るくなることもあるだろう。人格が変わってしまう可能性は高いはずだ。明るくて騒がしいけど、実は賢くて考え事ばっかりしている、あの帯刀はもういないかもしれない。怖かった。そんなのって死んだも同然じゃないか。帯刀のことを考えると悪循環だった。良くない方に考えが進んでいく。僕は寝るしかなかったのだ。でも日に日に眠りが浅くなる。

 家族が帰って来て、ご飯を食べて風呂に入った。おやすみ、と言って自分の部屋に行く。十時半だが眠くはない。毛布の上に寝そべって『闇中問答』を読んでいた。三章を読み始めたところでスマホの着信音が鳴った。驚いて顔面に本が落下する。だがそんなの些末事だ。電話の相手が「しお」だったのだから。お姉さんの可能性もあるが、それでも構わなかった。本は部屋の隅にやって通話する。

「もしもし?」

 返事無し。

「唯都ですが」

『……久し振り、唯都くん』

 帯刀だ。声は小さい。いや普通の声量だった。帯刀は常人より電話の声が大きかった。

『こんばんは、栞です。迷惑じゃない?』

 話したいことがたくさんあるのに何も頭に浮かび上がって来なかった。訊きたいことが多すぎる。意味も無くスマホを持ち替える。

『ありがとう。今日は来てくれて』

 ゆっくり言葉を発した。

『ごめんなさい。会うのはまだ早かった』

 僕は頷く。頷くのにも意味は無いが、僕は癖でしてしまう。

『……怒ってるかな。こんなことになって』

「全然。驚いたと言えば驚いた」

『私は唯都くんの言葉を忘れた訳ではないの。少しの間なら大丈夫だと思ったんだけど、唯都くんと別れた次の日、勉強してたら、途中からよくわかんなくなって、頭の中で凄い言葉の奔流があって、怖くなって──』

「いいよ、無理に話さないで」

 帯刀の唇が震えているのを察知して諭す。

『ごめん。最近自分がよくわかんなくなるの。眠れないし、ご飯食べられないし。一向に快方しなくて……』

「大丈夫。声が聞けて安心した」

『ありがと。学校にも早く行きたいんだけど』

 僕はそう言われたとき、違和感を感じた。帯刀が学校に行くのはよした方がいい。直感的にそう思った。

「焦らずに、帯刀のペースでいて」

 僕は緊張している? 帯刀と初めて話したときのような感覚がした。

「その、待ってるから。帯刀が元気になるまで。安心していい。落ち着いたら面と向かって話そう。それを楽しみにしてる」

『ふふ、しばらく心が強張ってたから、唯都くんに優しくしてもらって少しほどけた気分』

 初めて笑うような声を聞いた。

『もっと優しくして』

 僕は奇妙な気分になった。思ったより帯刀の心が死んでなかったからなのか。以前の帯刀の面影を感じた。しかし声の調子のせいか、どこか違和感を感じる。とにかく奇妙だった。

「とりあえず、何とかなるだろうから生きていて欲しい」

『優しくはないね』

「めちゃめちゃ優しくしてやるから。何でも要望があればするから」

『本当に?』

 帯刀にいくぶん昔の調子が見えた。

『じゃあ、まずは一つお願いするね。私は半狂乱状態だから、容赦ないよ』

「何でも言って。なるべく法に触れないやつ」

『栞って呼んで欲しい。ずっと思ってたの。栞って呼ばれたい』

 もう少し無茶を想定していた僕は唖然とした。

「そんなんでいいの?」

『病人のときでもないと受け入れてくれなさそうだったから。ねえ、言って』

「し、栞。変な感じ。……どうなの?」

『悪くないね』

 僕は苦笑。

『そうだ。私、最近気付いたことがあってね。唯都くんにどうしても言いたいの。でもそれは顔を見て言いたい。だから──』

「待つだけならいつまでも」

『ASAP』

「はいはい。会えたらご飯でも作るよ」

『楽しみ。ねえねえ、私久し振りに楽しい気分になった。ありがとう、唯都くん』

「栞がそう思ってくれるなら何より」

『やっぱりいいね、栞って呼ばれるの。でも一つ忠告しないといけない』

 栞はトーンを落として言った。

『私と一緒にいてもあまりいいことは無いかもしれない。私は散々迷惑かけるだけかけて、消えちゃうかもしれない』

「……」

『私は醜いよ。会ったら嫌いになる』

「栞」

『唯都くんを傷付けること、たくさんする。私が私でなくなってるかもしれない』

「あのさ、いいよ。栞なら」

『自分でも怖い。確実に私が崩れ始めてる。じわじわと。雪像が溶けるように変形してる。私が私でなくなっていく』

 切羽詰まったように喋る。僕は「大丈夫」と言う。根拠なく。

「もう、ここまで来たら最後まで付き合うよ。今更になって見捨てられない」

 栞は笑った。口調をシリアスな雰囲気に戻して言う。

『ごめんね。あと数年、いや数カ月でいいの。見届けてね』

 僕は押し黙った。栞は自分の体がもちそうにないと、そう思っているのだ。奇妙の原因はそれだ。自殺未遂の後の割には元気があるように聞こえる。なぜかと言えば、それはたぶん栞自身の開き直りのせいだ。僕は電話をまた持ち替える。

「嫌だよ。栞が死んだらそのときは本気で怒る。絶対許してやらない。墓蹴り倒す」

 栞は微笑んだ、と思う。

『良かった。当分の間は大丈夫だから。今はそんな気力も無いの。疲れちゃって、栄養も足りてないし、頭が全然動かない。自殺しようにもこの病室ではできない。果物切る用のナイフも無い。窓も開かない。高所に布なんかを引っ掛けられるような所も無いの。鍵も私は開けられないし。独房みたい』

 僕はおかしく思った。囚人じゃないか。

「『十三号独房の問題』っていうミステリーが面白かったから今度貸すよ」

『読んだこと無いな』

「そっか。著者のジャック・フットレルは優れたミステリー作家でありながら、タイタニック号事件という歴史的なミステリーによって亡くなった。僕は彼を敬愛している」

『ふふ。ありがとね。じゃあもう切ろっか。おやすみなさいしよう』

「そうだね。ゆっくりお休み」

『眠れないんだけどね。あっ、プリンとウサちゃんのぬいぐるみありがとう。悲しいけどプリンは食べられないかも。ウサちゃん可愛いね、ネットで買ったの?』

「店で買った。僕だと思って」

『ふふ。抱いて寝るわ。お休み。お姉ちゃん、どう? いい人だったでしょ?』

 切れてしまった。僕はスマホを床に置く。お姉さんが隣にいたらしい。もうお姉さんに帯刀との出来事を隠すのは得策ではなさそうだ。それは正直どうでもいい。考えをまとめるために毛布にくるまる。リモコンを使って電気を橙色の常夜灯に切り換える。明かりが一つ眼に見えた。どっかで見たと思ったら目玉焼きに似ていた。中心が明るい。

 栞が元に戻ることは無い。それは覚悟すべきかもしれない。でも悲観することじゃない。人格がどうこうは関係無く栞は僕との記憶を共有している。それだけで栞を助ける立派な動機になるじゃないか。僕は栞を支え得る理解者である。

 栞に関する噂は悪い方向に向かっている。七十五日で収まるならいいが、それは希望的観測に過ぎる。栞と付き合いを持っていれば、僕まで悪評が立つかもしれない。まあ僕が悪く言われる分には構わない。僕は元々一人だった。栞のおかげで友達ができたのだから栞のせいで失っても仕方ないと思える。

 今の段階でできることをしようと思う。僕は時間を過度に気にするのをやめる。時計の時間、何月何日何時何分、そういったものに囚われ過ぎていた。栞は当面マイペースに生きるだろう。秒針を数えていたら待ちくたびれてしまう。時間の無駄だと思ってしまえば投げ出してしまうかもしれない。僕はゆとりを持って迎えたい。

 電話が鳴っている。またか、もう夜中なのに。リモコンの「全灯」を押す。相手は西川さんだった。僕は西川さんと話した。朝と昼間に二度掛けたけど僕が出なかったと言った。部活関連の愚痴の聞き手になった。


 約一週間後の日曜日、僕は栞の家に行った。東京大空襲があった日だ。栞は数日前に退院していた。会えるかもしれないと前日に電話を寄越したのだった。昼前に急行電車で一駅下る。車内はガラガラだった。駅を出ると、外は日が射し込んで、気温も十度を超えたため暖かさをかすかに感じる。もう春が来る。家々の庭のちょっとした緑が目立つようになってきた。狭い歩道を歩いて栞の家に向かう。一度しか行ったことはないが道順は不思議と覚えていた。帯刀宅にたどり着く。立派な二階建て一軒家。クリーム色の壁に黒い屋根。道路に面した一台分の駐車スペースが備え付けられている。車は停まっていない。その駐車場の隙間にはママチャリが二台スタンドを立てて停まっていた。一つは栞のものだろう。中学の鑑札が張ってあった。駐車場の脇が家の入り口だ。赤茶色のレンガの壁が家の区画を囲い、玄関前で途切れている。そこを埋め合わせるように腰丈の門扉がある。鍵は内側から手動式でかけられているようだ。こんな子細に家を観察したのは初めてだ。以前は心が忙しかったからちゃんと見る暇は無かったのだろう。今はいささか余裕がある。

 予定の時間より早く来てしまった。僕はジャケットのポケットに手を突っ込んで立っている。インターホンを押す勇気が無かったのだ。緊張しながらレンガの壁にはめ込まれた呼び出しボタンを押す。ピンポーンとありきたりな音が鳴った。

『はーい! 今開けますねー』

 お姉さんかな。インターホン越しに感じのいい声が聞こえた。玄関のドアから顔を出したのは、前髪をピンで留めたラフな格好のお姉さんだった。僕を見とめるとニコリと笑った。前に会ったときの心ここにあらずな雰囲気は無かった。元々はこういう快活な人なんだろう。縁の厚い眼鏡がよく似合っていた。

「こんにちは、常磐です」

 お姉さんは僕が頭を下げると「入って」と言った。門を押してみると鍵は掛かってなかった。身をくぐらせてから閉める。玄関までは階段が三段ある。家が建っているのは階段の数段分高い所だ。玄関の入り口で目を左に向けるとそこにはキャッチボールをした庭がある。栞自慢の花壇は今は何も植わってなかった。

 ドアを開け「お邪魔します」と断って入る。二段式の鍵を閉めると、お姉さんが「こっち」とリビングから声を上げた。スニーカーを脱いで向かう。お姉さんはキッチンにいた。

「ソファーに座って。栞は二階にいるの」

 僕は「はい」と返事をしてソファーに腰掛ける。僕からすると慣れ親しんだソファーだ。

「どうぞ。最近の男子高校生って何の飲み物が好きなの?」

 お姉さんはオレンジジュースの入ったコップを僕に手渡す。加えて多種多様なせんべいが詰まった盆を目の前のテーブルに置いた。

「ありがとうございます。いただきます」

 僕はジュースを一口。

「コーヒーとか紅茶飲むの?」

 お姉さんは僕の隣に座って脚を組んだ。ほっそりしたジーンズが栞より似合う。手には赤いマグカップを持っていた。

「カフェラテなら少し飲みますね。インスタントとかで」

「ふーん。これブラックなの。もしかしたらまた来るでしょ? 今度はコーヒー出すね」

 お姉さんは微笑んだ。僕はまた来ることになっているらしい。頷いておいた。

「常磐くんはさ、ここ来るとき迷わなかったの? 同じような家がいっぱいあるのに」

 「一回来たことありますから」なんて言いそうになる。危ない。栞の家族にとって僕は初めてここに来たことになっているのだ。慣れ親しんでいるのはおかしい。

「えっと……くしゅん!」

 上手く弁明をしようとしたのだが僕はくしゃみをしてしまった。

「風邪? ティッシュ遠慮無く使っていいよ」

 そうさせてもらう。足元のゴミ箱に捨てる。

「花粉症です。スギ花粉。薬は飲んで来たんですけど」

「花粉症の人って絶対何か損してるよね」

 お姉さんは言葉の上では同情しているが、実際は面白がっているようだった。歯を見せて笑っている。

「まだ栞は降りて来るには早いかなー。常磐くん張り切り過ぎ」

「そうですか? 時間ぴったりでは?」

「そうだけどさ。初めてなのに道にも迷わず来られるなんて」

 何か含みのあるような話し方をすると思った。僕はジュースをまた飲む。お姉さんもコーヒーに口をつけて笑った。

「まるで、大晦日にうちで年越ししたみたい」

 むせた。ジュースが気管に入った。死ぬ。

「花粉症って咳も出るんだっけ?」

「お、お手洗い借ります」

 僕は一時退散。コップを置いてリビングを出た。なぜ知ってる? いや犯人はあいつしかいまい。帯刀家次女。廊下で階段を見上げる。階段の上には長らく顔を合わせていない栞がいる。怨みの声を聞かせてやろうかと思った。いや早計か?

 僕がトイレを済ませ、手を洗って帰ると、お姉さんがマグカップを掲げて出迎えた。

「トイレの場所、なんで知ってたの?」

 僕はまたお姉さんの横に座る。ガックリ肩を落とした。

「なぜです?」

「なんで常磐くんがうちに来たこと知ってるかって? 年上を欺けるほど君たちまだココが良くないこと自覚しなよ」

 僕のこめかみをつついて、お姉さんは笑った。

「そもそも元日に食器が二人分洗われてたでしょ。あと栞が一人で留守番するのにあんなに正月料理食べない。洗濯物畳んでたらバスタオルはなぜか二枚あるし。あれ、誰か来たなって思うわよ」

 僕は溜息。処理は完璧に思えたのだが。

「でもそれだと、女子を呼んでいたのかもしれません」

「私もそう思ったよ。だから栞にも追及しなかったし。でも翌朝私がヘアワックス使おうとしたら、中身が減ってたからさ。私、ワックスは指で毎日綺麗に取ってて、でこぼこなのがおかしいなって思ったの。栞に訊いたら『私は使ってない。まさか唯都くん使ったの!』って墓穴掘ったわよ」

 お姉さんは肩を揺らして笑う。愉快そうだ。

「僕の分の墓穴まで掘らないで欲しかった」

「そうよね。うちの可愛い可愛い妹が素性も知らない男の子と抱き合って年越しするなんてね。まだ十六歳なのに」

「事実誤認がありますよ」

 僕は首上に力を入れることができずうなだれる。ちょうど断頭台に頭を載せるように。

「それはいいんだけどさ。私も高校時代は暴れまわったし。あの栞をどう口説いたの?」

「はい?」

「私の妹ってちょっと変わり者じゃん。どう落としたのかなって」

 お姉さんは僕の顔を覗き込む。年下だからって完全に遊ばれてる。僕は半ば投げやりになって答える。

「栞さんがいつも誘ってくるんですよ」

「私の彼氏も誘われなきゃ駄目なタイプだから私からアタックしたの。そこは問題じゃないわ。だからね、何が栞を惹き付けたんだろう。顔見せて」

 お姉さんはカップを置いてから、僕の頬を両手で挟んで振り向かせた。

「んー。顔は好みね。栞もそうかも。性格は、話した感じでは無害って感じね。当たり障り無いっていうの?」

「栞さんにも言われました」

 お姉さんは「姉妹だなー」と笑う。

「お父さんが、まさに無害そのものって性格なの。良かったね、結婚の挨拶が楽になって」

「いや、あのお姉さん。栞さんは?」

「栞なら常磐くんのプロポーズ断らないよ」

「そうじゃなくて。どうして降りて来ないんですか?」

 お姉さんは途端に笑い声を止め、一瞬考え事をする顔つきになった。そして立ち上がる。

「様子見て来る。服替えに行っただけだからもう戻ってもいい頃なんだけど。ベランダから落ちてたりして」

 そう言って口の端を引き上げた。冗談じゃない。僕はまたジュースを飲む。喉が渇くのは花粉症の薬が原因かそれとも他の何かか。

 テレビを観るとクイズ番組の再放送がやっていた。好きな女優が一般教養問題でバツを食らって、漢字の書き順もおかしいのを目の当たりにして興醒めした。僕はソファーに深く座る。そういう意味で、ある程度常識があった栞は最低ラインを突破していたのかもしれない。自殺したのは非常識だが、日常生活では問題無かった。男子の家に押し掛けたり家に泊めたりしても? いや、それは駄目だと理解していた上での確信犯だし。帯刀には少なくとも僕と同等かそれ以上の知性があったと思う。それは僕のことを栞が惹き付けた理由としてはある。単純に話が合った。クラスに男友達もいるが、栞ほど話がしやすい人間はいない。栞との出会いは偶然であれ、運命的なものだったのかもしれない。

 結局その日、栞とは会えなかった。お姉さん曰く、栞は階段を降りる勇気が出ないと。僕にやつれた姿を見せるのが怖いらしい。失礼極まり無いが、僕は栞の見た目なんかこれっぽっちも気にしたこと無い。でも栞は女の子だから、とお姉さんは言う。そういうことならまた来ます、と僕は言った。お姉さんは謝った。僕は一時間ほどで帰宅の途に就くことになった。玄関に向かう前、廊下でふと思ったことを口にする。

「ここで栞に何か言ってもいいですか?」

 お姉さんは驚いて笑った。「いいよ」と。

「しおりー。また来るよー」

 僕は階段の上に向かってなるべく大きな声で言った。お姉さんが歯を見せて笑っていた。

「唯都くん、バイバイ」

 震えた声が響く。栞の声だ。安否確認完了。

「受け取ってー。階段の四段目に立って」

 お姉さんは訝るような表情をした。僕はとりあえず指定された四段目に立つ。『ロミオとジュリエット』を思い出した。

「いくよー」

 そう聞こえたと思ったら、U字になった階段の利を利用して僕の真上に書店の紙袋が腕と共に見えてくる。栞は手すりから腕を伸ばし物を掴んでるらしい。見えた腕は長袖で、素肌が露出していたのは指先だけだった。この状況、まさか。

「落とすなよ!」

「プレゼント、えい!」

 僕の頭上から紙袋が落ちて来る。僕は辛うじてキャッチした。僕はお姉さんにそれを見せる。お姉さんはキレた。

「コラ! 栞、物を投げるんじゃない!」

 栞の返事は無かった。紙袋を開けると、中には文庫本が二冊入っていた。『ノルウェイの森(上)』と『ノルウェイの森(下)』。知ってはいるけど読んだこと無い。

「これ、貸すってことですかね」

「たぶん。いいよ、持って帰って」

 帰って読むか。

「じゃあ、今日はごめんね」

「いえ、こうして少しずつ前進できたら」

 お姉さんは微笑み、頷く。

「ただ常磐くんは今日を無駄にしちゃったわね。できれば、次も来てくれたら嬉しいな」

「迷惑でなければいつでも来ます」

 栞との再会のチャンスがあるなら僕はいつどこでも行くのだろう。僕は軽い足取りで家に帰った。家に帰って『ノルウェイの森』を初読して、どういうストーリーか理解した僕の衝撃は想像に難くないはずだ。帯刀栞という人間の底意地の悪さを再確認した。


 二日後、僕はまた帯刀家のリビングにいた。『ノルウェイの森(下)』は主人公の転居のところまで読み終えた。残りページ数からしても今日中にはラストまでいくだろう。

 今日は学校で答案返却があった。午前中だけ登校し、マルバツのついた解答もらって帰り。甚だ時間と労力の無駄だが気にしない。授業よりは断然楽だ。成績はどの教科も平均的になるだろう。そんな点数だった。進級できないのではという母の懸念は杞憂だった。明日は卒業式で明後日、明々後日は球技会。学校は三月になると退屈だ。いっそ全休にしろよと思う。

 学校が終わると僕は教室を出た。制服のまま帯刀家に直行。インターホンを押すとなんと帯刀の母親が出迎えた。僕はてっきりあの気さくなお姉さんだと思っていたからびっくりした。靴を玄関に脱いだ。僕の靴以外では所有者不明のスニーカーとサンダルだけだった。リビングのソファーに座るとテーブルの上には『移動祝祭日』が置いてあった。母親曰く栞があげる、と託したらしい。すぐ下りて来ると伝言された。栞とは今日も会えないかもしれないのか。きっと二階で心の準備をしているのだ。何とか自力で出て来ることを願う。しかしこうしてソファーを温め続けることになったらどうしよう。母親が僕にコーヒーカップを出す。中はカフェラテなのだろう。

「ありがとうございます」

「ごめんなさい、栞が迷惑掛けて」

 僕は笑顔を作って首を振った。母親は不安そうな表情を浮かべている。こうして見ると栞にはあんまり似ていない。目元には面影が無いでもないか。背丈は栞より少し大きいくらいで大人にしては小さい気がした。

「常磐くんは栞と同じクラスなのよね」

 「はい」と首肯。

「栞のことをクラスの人はどれくらい知ってるのかしら」

 僕は学校の様子を伝えられる唯一の人物なんだし至極当然の質問だ。僕は考えた。

「ほぼ知らないかと。僕も偶然知りました」

 よくもまあ大人にいけしゃあしゃあと嘘を告げるようになれた。昔は馬鹿正直で親にも先生にも上手く嘘をつけず、苦労した。

「常磐くんはどうして来てくれるのかしら」

 どうして? また難しい質問を。

「栞さんとは友人として世話になりましたから。友達思いで来たんです。……友達。本当です。ちなみに恋人とは違います」

 終始微笑まれたままだった。この家族で僕と栞の正しい関係を理解している人はいない。

「栞はね、休んでるのにあなた以外の人から連絡貰ってないらしいの。だから良くない想像をしたっていうか。学校でいじめられたんじゃないかと思ったの」

 突如娘が自殺未遂をしたら、最初にいじめの可能性を考慮するだろう。他に原因は思い当たらなかったはずだ。いじめが起きていたとしても驚きだったろう。栞は学業優秀で心優しい少女だったのだから。

「いじめは、僕が知る限りでは無いです。僕のクラスの中なら無いはずです」

 母親は神妙に頷くが、納得しているとは思えない。いじめられてないなら何が原因なのかますますわからないだろう。栞は家族に自殺の要因を全く説明してないんだ。

「常磐くんはどうか栞の友達でいてあげてね。今は常磐くんだけがあの子の心の支えだから。私やお父さんはまともに口利いてもらえないし、お姉ちゃんよりも常磐くんとの方がよく話すらしいの。こんなこと言ったら重責かもしれないけど、栞を見守ってあげてね」

 僕は「もちろん」と言うしかなかった。痛いほど母親の気持ちがわかった。

「あの子は昔から感受性の高い子なのよ」

 そう言って懐かしむような表情を浮かべてリビングを出て行った。二人じゃ気まずいかと配慮させてしまったかもしれない。

 僕は母親の言葉を復唱する。

「感受性が高い」

 お姉さんの言葉も。

「私の妹って変わり者じゃん」

 違う。端から見ればそう見えるだろう。でももっと栞のことをわかってあげて欲しい。もっと栞の心に上陸して、多少踏み荒らしてでも理解してあげて欲しい。

 最初に話したとき、たぶん知性の深度のことを考えた気がする。栞の考えを聞いて、僕と同じ深度だと思ったのだった。栞の知性の深度は僕と同じかそれ以上ではないか? 同じように周囲の人も意外と深度があるのでは? 答えはもう出た。栞は僕より知性は深い。周囲の人は僕や栞ほど知性は深くない。

 周囲の人は、想像よりは確かに考えをよく持っていた。しかし、それだけだ。栞には到底及ばないものだった。結局は僕の見立て通りであった。だが僕は、あえて深度を浅くして会話を合わせるという術を学んだ。退屈でも表面上は寂しくなくなった。

 栞は? ずっと深かった。僕からでは見えないほど深く栞は考えていた。栞はずっと論理的に身に触れた物事について考えていた。感受性が高いと見られるのはそのためだろう。ある物事を知ると、それが自分にとって何なのか、どういう意味を持つのか、自分の価値観にどう影響するのか、何度も考えてできるだけ高度な推察を得ようとしていた。それで僕よりずっと早くに正確な解を得ていた。お姉さんは変わり者だと言うが、理解できないのも無理は無いと思う。平均的な人よりずっと考えが成熟しているんだ。成熟し過ぎて少女にしては腐敗してるように見えるかもしれない。栞は僕らが考えるのを途中でやめるような物事に向き合って正確に解を出す。「親友」が死んだとき、忘れるんじゃなく考えた。自分に何かできなかったか、自分に原因は無かったか、「親友」はどんな気持ちだったのか。

 結果、死ぬという解を出した。「親友」の苦しみを誰より深く同情し、共鳴したからだ。そう考えると栞が強大な敵に見えてくる。僕に彼女の気持ちを理解できるのか。でも現実世界はもっとシンプルだ。そこは見失っちゃいけない。栞にいくら論破されたって「うるさい、生きるったら生きるんだ」って手を握ってやれば、何とかなるんだ。

 だから栞は感受性が高くて周りに惑わされる精神が虚弱な子じゃない。反対に変な考えを周りに撒き散らすような子でもない。栞は頑張って皆より考えて、より良い答えを出そうとしているだけなんだ。栞は思うよりずっといい子なんだ。それを理解してあげて欲しい。理解することは人間関係において大事なことではないか。理解できればその人に優しくできないか。僕は考えることをやめない。考えて考えて他者を理解するよう努める。今は栞をこうして理解しようと努めている。これを栞が「優しさ」と呼びたいならそうすればいい。僕は栞にとことん優しくしようと思う。

 また会えなかった。


 栞からは謝罪のメッセージが絶えなかった。僕は気にすんな、と返すばかりだった。翌日も栞の家には行くことにした。学校では見ず知らずの上級生を「仰げば尊し」でお見送りした。空虚な学校生活を体験するうちに段々と学校の重要性が薄れていることを感じ取っていた。以前まで学校に在籍している間は高校生という肩書きだけで生きている気持ちがしていた。今は違う。学校はあくまで昼間に勉強をするだけの場所。人生の数パーセント。学校を絶対的なものと捉えなくなった。一度そう考えるとだいぶ気が楽だった。

 帯刀家に着くと栞の母親が昼ご飯を用意してくれていた。食べてから来るべきだったと思った。お礼を言ってから焼きそばを食べて腹を満たした。待ち時間は恒例になった栞文庫を読んだ。今日置いてあったのは少女漫画だ。その類いはほぼ読んだことの無い僕は恐る恐るページを繰った。内容は主人公の女子高生が同学年のイケメンと同居するという話だった。どうやら両者とも一人親家庭で親同士が再婚したため連れ子の二人が義理のきょうだいになったという設定らしい。なんとまあ複雑な家庭なのか。昨今の複雑な世相をよく反映している。そこで二人は同居する間に恋に落ちるという筋だ。ところでこの話は何を伝えたいのだろう。僕にはいまいち面白さがわからなかった。

 これは勝手な想像だけど少女漫画は感情の動きを重視してるのではないだろうか。友情や恋愛が主題になっていることが多い。心の揺れにフィーチャーしている。少年漫画は敵がいてそれを打ち倒すという、目標達成のストーリーが多い。僕の好きな野球漫画は甲子園に行くという明確な目標があった。

 ここで僕は男性脳と女性脳という区別を認めてやってもいいと初めて思った。一番の裏付けは僕がこれを三巻まで読んでもハマらなかったことである。恋敵が本格的に出て来たところで飽きた。なぜ栞は僕にこれを読ませたのだろう。男女の共同生活の話が僕と栞に何の関係があるのか。八巻も一気に譲渡してきたのを見ると、単に本棚を整理しているだけの可能性がある。手持ち無沙汰になり、テレビを適当に眺めて目薬を差したところで栞の母親が僕に謝った。今日もボウズか。


 翌日も栞の家に伺った。母親が出迎えてくれて、リビングにはまた同じ漫画があった。何としても持ち帰れというメッセージらしい。僕は昨日漫画を持ち帰らなかった。八巻も担ぐのは酷な上、少女漫画なんて部屋に置いていたら両親に正気を疑われるからだ。

「ごゆっくり」

 母親は微笑んで二階へ。僕はまたリビングで一人になる。昼食は自分で用意するから大丈夫です、と昨日言ったからテーブルには漫画の他にカフェオレとクッキーしか無い。僕は腕組みをする。なぜ栞に会えないのか? そもそも会わせるつもりが無いように思えてきた。僕は栞の姿をあの日以来見てない。

 栞は既にこの世にはいない、とか? 口に出すと末恐ろしい。このリビングにも栞の生活感が無いのも気に掛かる。毎回思っていたが栞の靴が玄関に出てない。キッチンを覗いてみるが、水切り台に栞専用の食器だと判断できるものは無かった。夫婦箸はある。赤色の箸もある。三膳? お茶碗も三つ。今、栞もご飯を食べているのなら頷けるが、どこか薄ら寒い感覚だ。

 まず帯刀家に栞の死を隠蔽する必要は無いのだからこんなこと考えても無駄だとはわかっている。こんなとき、漫画は良かった。嫌なことを忘れて付き合うだ、別れるだという話に夢中になった。読み続けていると案外面白いじゃないかと思った。八巻全てを読み終わり、リュックに何とか四巻詰め込む。全部は重い。荷物をまとめ階段の下に行く。

「すみませーん。今日は帰りまーす」

僕が大声で言うと母親が階段を下りてくる。四段目で止まる。

「ごめんなさい。栞が」

「いえ、栞さんが悪い訳ではないですから」

 母親は笑顔を見せる。

「ちょっと姿を見るだけなのでいいですか」

 一段上がると片手を前に出して塞がれた。

「栞はね、療養中なの。栞が自分から出て来るのを辛抱してね」

 母親は僕に微笑みを見せている。僕は笑顔を作って引き下がる。

「そうですよね。栞さんに伝えたいことがあるのでここからでもいいですか?」

 母親は驚いたようだが首を縦に動かした。

「しおりー。いる? 僕の家は何階か覚えてる?」

「死の四階」

 栞の声が即答する。少々ほっとした。さては聞いていたな。母親は何の質問か不可解であるらしかった。

「毎日押し掛けるのも悪いですし、次は栞さんに呼ばれたときに来ます」

 僕はそう伝えてから玄関を出た。門を閉めて駅の方向に足を向けると、イレギュラーを発見した。家の前の道路に薄緑の軽自動車が停まり、中から女性が降車したのだった。ベージュのカーディガンを羽織い、膝下丈の黒いスカートを穿いていた。髪は後ろで控えめに一つに結い、肩にはクリアファイルが入るくらいのサイズのバッグを懸けていた。小学校の先生に似た雰囲気を感じた。その人は横を通り過ぎる前に僕に気付いた。

「こんにちは」

 そう言って微笑む。僕は「こんにちは」と返すことしかできなかった。表情を見ると大体三十代に見えた。僕はその人が帯刀家のチャイムを鳴らしたことで色々な想像を巡らせることになった。後ろを度々振り返りながら歩いたが、どうやら家に上がり込んだらしい。

 帯刀の家族に用事があったのか。栞のお姉さんや母親の友達にしては年齢が一回り違うから違和感がある。セールスマンや宗教の勧誘なら自然に家に入ることはできないだろう。親戚か? 何にせよ療養中だという栞の家に来る人間が僕以外にいるのは変だ。もしあの女の人が事情を知らなくても、家族は誰かを家に招いたりするだろうか。栞のことが広まる可能性があるのに。栞を隠そうとしているのは、僕に学校で噂が広まってないか尋ねた感じから何となくわかる。誰なんだろう。少し肌寒い気候だったから僕は真っ直ぐ家に戻った。


 翌日、金曜日。僕は体育館でスマホをいじっていた。球技会という学校主宰の謎のスポーツ大会に参加した僕だが昨日で敗退した。サッカーを選択したけど、初戦敗退。他の種目の応援が唯一の仕事になったのだが、昨日今日と応援だけでは流石に飽きた。僕は一人で体育館のキャットウォーク隅にいる。ここは女子のキャッキャした歓声が聞こえる。バスケが行われているらしい。楽しそうだ。僕は球技会なんて全然面白いと思わなかった。即時負けたし、先輩にはぶつかれないし。

 本日も春を感じる晴れであり、朝は寒いが昼に近付くにつれ暖かくなるといった感じだった。僕は長袖ジャージの袖を捲っている。春が来ると心が上向く。栞も外に出たらいいのに。栞のことを考えていたからか、メッセージが送られて来た。

『学校終わったら、でんわしてね(ハート)』

 秒で電話した。

『むわっ! 唯都くん? 授業じゃないの?』

 案の定驚いた栞の声が聞けた。僕は壁側の耳にスマホを当てる。

「暇なんだ」

『そっか。お願いごと』

「何でも訊く」

『びっくり。私のおうちに来てね。今日は絶対、ぜえったい会えるよ』

「オオカミ少女の言うことは信じないよ」

『えーん。死んじゃう』

「行くよ。待ってて」

「やっさしい」

 その後は適当な話に適当な相槌を打った。「絶対」とはどこが根拠なのだろうと思った。毎度毎度肩透かしを喰らわせたくせに。しかしまたあの家に行くとなると面倒だ。会えなかったときに母親に頭を下げられるのが何とも気まずい。お姉さんならまだ気楽なのだが平日は基本、在宅ではないのだろう。

 表彰式の後、ジャージから制服に着替えると一旦自宅に帰ってから栞の家に向かった。暑かったのでブレザーを羽織ることは無かった。紺のセーターをシャツの上に着た。風が冷たい気はするが太陽の下では充分だった。

 見慣れた栞の家のインターホン。押すと母親が出る。いつも通り。玄関の鍵が開く音がする。もうわざわざ大仰に挨拶されることも無い。入ると「いらっしゃい」と言われた。いつも不安をその笑顔に混じらせていたのだが、今日は純度がいくらか高かった。

 母親は早々に二階に上がって行ったため、僕は一人でリビングのドアを開ける。最近一週間は来ているからそのレイアウトも完璧に記憶している。右手奥に独立したキッチン。その向こうの壁沿いには冷蔵庫や食器棚、電子レンジ。左の壁には庭に面した大きなガラス戸。常時薄い白のカーテンが掛けられている。緑の厚い遮光カーテンは両脇にまとめられている。その前にはソファーがあって──え。栞?

 ソファーにはお行儀良く座っている女の子がいる。ゆっくり振り返った。

「こっち。座って」

 ソファーの横をポンと叩く。僕は頭が回転するのを待てず、その通りに動いた。リュックをソファーの横に置いて、隣に座る。

 正真正銘の栞がいた。雰囲気や外見は栞そのものだった。微細な所まで観察すると違いは無いでもなかった。頬が少し痩けている。顎のラインも骨の線を強調している。痩せたのだ。目元に隈が染み付いており、黒目の生気も薄かった。また、肌は以前に増して白く、病人のようだった。長く直射日光を浴びていないのだとわかる。ここはガラス戸の前なので栞の背から日の光が当たり、余計白を引き立たせている。だが一方でそれは儚さという違った美しさを魅せていた。前に見たときと比べ前髪には違和感がなかったが、全体の髪の長さは伸びている。以前は肩に掛かるほどの長さだった髪は、今は胸の辺りまで達している。美容院には行けてないらしいが、前髪は自分で整えているのだろう。衣服はグレーのジップパーカーを着ていた。ジッパーは胸の高さまで上げられており、中はボーダーシャツだった。袖口は指の第二間接まで覆っている。パンツはくるぶし付近までの丈で裾にかけて生地が広くなっており、黄色と茶色の中間色だった。このときは裸足で、あまりまじまじ見て無いのだが、血色は決して良くない白い素肌を晒していた。手の爪は丁寧に磨かれているようだった。出会った頃から手の爪は綺麗だったし、先まで細く真っ直ぐ伸びる指は何となく印象にある。栞はその手で僕の耳から顎にかけて撫でた。

「久し振りだね。唯都くん」

 栞の声だった。か細く、震えが奥に潜んでいるように感じるものの、耳に届くはっきりとした発音はまさしく栞のものだった。僕は段々状況に慣れてきた。栞が僕と約二十日ぶりに再会できたのだ。僕は理性の存在がもう少し柔だったら抱き締めてしまいそうになった。感情──それも喜怒哀楽でいったら「喜」が洪水のように溢れかえるのがわかる。でもそこに一片の「哀」があることで理性の応答を得ることができたのだろう。栞の弱った姿を見るのは胸に来るものがあった。

「唯都くんと話したいこと、いっぱいあるよ」

 栞は僕から手を離し微笑を湛える。笑顔も微妙に醜く変わったと思った。

「今の私をどう思う? ちょっと怖かった」

 栞は僕を躊躇いがちに見る。僕は言葉をずっと発していない自分に気付いた。こんな状況で言うと頭がおかしいと思われるかもしれないが、見惚れていたのかもしれない。僕は脳内を高速で整理する。感情を言葉に置き換える。

「栞は今でも美しいと思う」

 栞は息を漏らして微笑んだ。

「ありがとう。可愛いって言われる方がいい」

「もちろん可愛い」

 栞は言葉を噛み締めるように、膝の上で添えられた手を眺めている。

「何か言いたいことはある? そっちが先に言って欲しいな」

 僕は考えた。そりゃ山ほどある。色々この子には言ってやらにゃ気が済まない。

「まず、栞は大バカだ」

「ごめんなさい」

「謝るのはいい。君にも考えがあって、使命があったのだろうから。だけどもういいよ。あとは栞の言い分を聴取しよう」

 栞は苦笑いを浮かべる。表情がわりに保存されていたのは喜ばしい。

「うん。ありがとう」

 栞は真っ白な頬を朱に染めた。あまりお目に掛かることのない女子らしい反応に驚いた。唇をしばし結んでいたが、やがて口を開いた。

「て、照れるな。どうしたの、あんまり見つめないでよ。話しづらい」

 見つめてなんていただろうか。そうだとしてもインパーソンで話しているのだから当然と言えば当然ではないか。

「えっとね。謝るのはたくさんしたからやめとく。会えなかった理由は言おうと思うんだ」

「見た目を気にしてたってこと?」

「それもある。一時期体重が落ちてしまって、戻してる途中だから。でも一番の理由は伝えたいことがあったから」

 栞が伝えたいこと。経験則から考えるといいことでは無いが、そんな気はしなかった。

「次に会うときは絶対言おうって決めてたこと。決めてたんだけど、勇気が要ることで会う直前になると足がすくんだ。今も迷ってる」

 栞は下唇を噛んだ。僕はどういう気持ちになるのが正解かわからなかった。

「それで昨日アドバイス貰ったんだ。アドバイスに従って、顔を見ないで言ってもいい?」

 僕が首を傾けると、栞は笑顔を見せた。

「私のことおぶってくれる? お正月のときみたいに。抱っこでもいいや。お姫様抱っこ」

 僕は苦笑する。本当にこの子はわがままで自由奔放だ。どれだけ僕におんぶに抱っこさせたら気が済むのか。

「背負うから。乗って」

 ソファーから下りてしゃがみ、背中を向ける。栞は腕を僕の胸の前に回して掴まった。

「後ろから抱き締めたみたい。恥ずかしい」

 僕は首元に栞の息がかかることで著しく集中を削がれる。ゆっくり立ち上がって脚を支えた。その瞬間、少し悲痛を感じる。栞のももは柔らかな感触が失われていた。骨張った感じがする。全身だって軽かった。その減少した体重は栞から奪われたものの重さを表しているように思えた。栞はやはり袖を長くしたままの両手を僕の目の前でぎゅっと健気に結んでいる。すぐに話し始めた。

「こういうことを自分から打ち明けるのは初めてだから緊張するの。勇気がいるんだよ」

「そう。何でも言えよ」

「唯都くんのこと好き」

 膝から崩れ落ちるかと思った。何を言い出すんだこの阿呆は。正気か? 僕はリビングの空いたスペースを歩いている。たまにずり落ちてきた栞の態勢に気を遣いながら。

「文字通り唯都くんに恋してるの。これは一回伝えたんだっけ? だけど真っ直ぐな気持ちは伝えてなかったね」

 僕はまだ唖然としている。

「入院中にお姉ちゃんやカウンセラーさんと唯都くんの話をしたの。そのうちに二人とも私が唯都くんのこと好きなんじゃないかって言うの。私は今まで何となく好きかもとは思ってたけど、告白するほどではないし、どうせ死ぬからって保留してた。でもこれからしばらく生きるとなったときに唯都くんのこと考えない訳にはいかなかった。唯都くんはずっと優しかった。待っていてくれた。私はやっぱり好きって気付いたよ」

 まだ心の準備をしていなかった。

「困ってる? 困るよね。頭ぶっ飛びガールから告白されたら嫌か。でも私は気にしない。自分に素直になってみたかったからね」

 僕は「嫌ではない」と答える。

「恋って生きることでしょう? だから前までは自分の恋愛のことを考えないようにしてた。でもさ、一度その感情に向き合ったらすっかり恋に落ちちゃったね。それから唯都くんと電話で話すと思わず好きと言いそうになった。本当だよ。でもね、これだけは絶対絶対直接ぶつけたかった。時間掛かったけど、大好きだよ!」

 栞は背後から僕の首を絞まるくらいに抱く。愛情表現が独特だ。武闘派だ。

「ねえ! どう思った? 気持ち悪いかな。こちらとしてはお付き合いして欲しい訳じゃないんだよ。気持ちを知って欲しいだけ。そして可能なら唯都くんの気持ちも知りたい。私は唯都くんと心が通っていたかどうか答え合わせしたいなー」

 栞は顔を僕の背中に押し当てる。恥ずかしいのか。僕だって好きだと連呼されたことが無いからどう答えたものやら見当もつかない。

「私のこと好きだった?」

 僕は黙ってしまう。好きだと言っておけばいいものを。右足、左足と一歩ずつ歩く。栞の体温を感じながら。

「好きか嫌いかの二択だよ」

 まったく。

「栞はズルいよ。そっちはやけっぱちになって何でも言えるだろうけど僕は違うんだ」

「どっちなの?」

「好きか嫌いかなら好きだよ。好きでもない女子の所に通うと思った? 二択だったら答えは決まってる」

 返事が無かった。しばらくリビングを歩き回った。白のカーテンを引いてガラスを直に見る。反射で僕の背中にしがみつく栞が見える。栞は日向にいると元気になるのかもしれない。暗闇が苦手だから。顔を上げた。

「泣いてるじゃん。情緒どうなってるの?」

 しくしく、さめざめという音が聞こえるようだ。実際泣き声ってどう表現すればいいのかわからない。静かに泣いていた。

「情緒はあの日から不安定だから無視して。単に嬉しかったの!」

「やれやれだね」

「もう嘘でもいいから素直に好きって言って! 一生のお願い」

 栞は僕の肩を揺すり抗議する。落ちるって。痩せたと言ってもそこまで軽くはない。

「わかった。思ってるかどうかは別で好き。大好きだ。世界の誰よりも愛してる」

 栞は笑った。泣きつつ笑うとは器用な真似をする。

「録音しておけば良かったよ」

「バカだね。下ろすよ」

「やだー。大好き大好き!」

 栞は僕の首を絞め上げる。こいつはマジで狂ってる。殺される。

「お昼作ったら一時的に解放してあげる」

「ご飯ってこと?」

「約束だからね」

 いつの約束だったか。お見舞いの後の電話でしたものかな。料理を振る舞うだけならやぶさかでない。

 栞は手伝いたいと言ったが僕は断った。料理は一人でする方がはかどるからだ。それに自分の作ったもので栞に美味しいと言わしめたいという僕の意向もある。栞が所望するメニューを訊くとパスタと答えた。僕のパスタが気に入ったらしい。嬉しいことだ。冷蔵庫を開いてメニューを考える。キノコパスタに決めた。パスタをいつものように茹でる。この間に冷蔵庫からしめじと舞茸を取り出し、食べやすいサイズに分けて必要に応じて切る。フライパンの上でにんにくをオリーブオイルで炒め、しばらく経ったらキノコを加える。引き上げておいたパスタと茹で汁をフライパンに投入して蒸す。そしてバター醤油を入れて仕上げ。香ばしい香りが立ち上る。それを二人分皿に盛り付け、てっぺんに海苔をちぎってかけたら完成。色味が茶色一辺倒だけど美味しそうだからいい。卵を冷蔵庫から出して、目玉焼きを二つフライパンで焼く。トロトロの半熟状態にした。それを海苔の上から載せて塩こしょうを振り、今度こそ出来上がりだ。ソファー前のテーブルに配膳する。栞は笑顔で僕を見上げた。僕は透明のコップと恐らく栞専用の黄色マグカップに麦茶を注いでフォーク、スプーンと一緒に運ぶ。

「いい匂いがする! 早く食べよ」

 僕は栞の隣に座って手を合わせる。正月以来、栞とは共に食事をしていなかった。

「いただきます!」

「いただきます」

 様子を窺うと栞は目玉焼きを割り、パスタを素早く巻いてキノコを突き刺し、口いっぱいに頬張った。美味そうに食べるやつだ。僕も食べる。しょっぱい? 黄身と混ぜたら丁度いいか。食感は文句無しだ。キノコがぷりぷりしている。

「美味しいよ!」

 栞は僕に抱き付いてきた。

「何だよ、もう。面倒臭い」

「唯都くん本当に上手になったね。栞嬉しい」

 見たかった笑顔は見られた。やはり僕は言葉以外で誰かを笑顔にする方が好ましいのかもしれない。その数少ない手段が料理なのだろうという。僕は栞を引き剥がす。くっ付かれることは特別嬉しくない。

「唯都くんがいち早く素直になりますように」

 栞は離れるとニコニコしながら食事を再開する。僕も食べる。頭おかしい子と一緒にいると、かなりカロリーを消耗する。

「なんか申し訳無いね」

 栞が合間にそう言った。僕は栞に謝られていいことが三秒間に十八個思いついたから、どれだろうと考えた。

「私は唯都くんの人生の障害じゃない?」

 栞は逆光の中で悲しげに笑った。僕はその意味するところを探ってみた。栞は僕の人生を邪魔していると思っている。後戻りするなら早くしろと警告しているのかもしれない。舞茸を口に入れて飲み込んでから返事をする。

「障害物競争の吊り下げられたパンみたいなこと? パンは食べられることを待っている。障害物は乗り越えられるよう作ってある」

 それだけ言うと僕は残ったキノコをフォークで拾っていく。一気に食べる。みずみずしい感触が口内に広がった。

「私は今、可愛くないかな」

 栞は散らばったキノコを一つずつ刺しては食べていく。そう言えば食欲が戻っているようだ。安心する。

「栞、ここに芥川の本がある」

 僕はリュックから文庫本を出して表表紙を見せる。『朱儒の言葉』。栞は苦笑いした。

「読んだことある」

 流石だ。僕は初めの方のページを開く。題が《鼻》だったはずだ。

「ほら、クレオパトラの鼻が曲がっていて美貌が損なわれることがあったら世界の歴史が変わっていたという説は誤りだと言ってる」

「パスカルの『パンセ』にある説。『人間は考える葦である』とかの」

 栞の呟きの意味が咄嗟にわからなかった。が、本文にパスカルの名前が出ていることから栞はパスカルの説明をしたと受け取った。

「クレオパトラの鼻が曲がってたとしても、アントニーはそれを見まいとしただろう。代わりに長所をいくらでも見つけただろう、そう書いている。つまり、栞が今どんなに醜くても僕にはその部分が見えない」

「恋してるから?」

 左上の空間を見てふさわしい言葉を探す。

「自己欺瞞に陥っているからだ」

 栞は笑った。「貸して」と栞は本を取り上げる。僕は遅れを取り返すために残りを食べる。栞はもう八割を片付けている。

「《恋愛と死と》。『蜘蛛や蜂は交尾を終ると、たちまち雄は雌のために刺し殺されてしまうのである』。」

 僕は苦笑した。

「《多忙》。『我々を恋愛から救うものは理性よりむしろ多忙である』。《男子》。『男子は由来恋愛よりも仕事を尊重するものである』。」

 栞はすらすらと引用のページをめくる。この子はなまじ賢いからって偉そうに。

「《女人》。『女人は我々男子には正に人生そのものである。すなわち諸悪の根源である』。《恋愛》『恋愛はただ性慾の詩的表現を受けたものである』。……男って本当にしょうもないね。こんなの読んでどうすんの」

 栞は最後までペラペラ見てからその本をはねつけた。僕は顔をしかめてからリュックにしまう。なぜ《自殺》《死》《自己嫌悪》を読み飛ばしたのかは尋ねなかった。リュックを見て中に入っているある物を思い出した。

「唯都くん、ごちそうさま」

「あ、ああ。ごちそうさま」

 僕は栞の後に続いて手を合わせる。僕は二人の皿を洗った。さて、栞にどう渡すかな。皿を洗い終えて、ソファーに腰掛ける。

「お疲れー。ありがとう」

 栞が出迎える。僕はリュックから白地に青のラインが入った紙袋を出して栞に渡した。

「ええ! これ、プレゼント?」

 頷く。栞は驚いて僕と紙袋を交互に見た。

「プレゼントというか、ホワイトデーだから。チョコのお返し」

 「あっ」と栞が声を漏らす。すっかり忘れていた感じだ。今日は十五日。一日遅れだが、手渡しできたから許してくれるだろう。

「中身はプリンだよ。お見舞いに持って行ったやつ。食べたかったって言ってたから。あとは書店で買ったしおりの三枚セット」

 僕はこれを十四日に買いに行ったのだ。昨日運んで来ていて、これは置いて帰るつもりだったのだけど忘れてしまった。なぜ漫画を詰め込んだときに気付かなかったのか。栞は中を覗いて、プリン三瓶としおりが束になって入った袋を順番にテーブルに置く。最後に簡素な手紙を取り出す。

「栞もくれたから、お返事」

 栞は昔の写真を眺めるような目付きでそれを見た。ここでは読まないらしい。手紙は人前で読むために書くものではないと思っているからだろう。それに栞は涙腺が弱っているため泣いてしまうかもしれない。しかしながら手紙の内容は大したものでない。感謝の言葉と生きて欲しいという要望と栞のおかげで将来の目標を持てたという報告だけ。どう読むかは栞に任せよう。

「泣かないように後で読みます。文ちゃん宛の手紙みたいなやつかな。楽しみ」

 僕は微苦笑。僕には芥川が書くような文は書けない。

「あとは食べたかったプリンと、ウサちゃんの絵が載ってるしおりだ。嬉しいな……」

 栞はカーペットの上に座っていたのだが、ソファーに上がって隣に座る。栞の目には涙が浮かび上がっていた。

「いやいや、泣いちゃ嫌だよ。何ですぐ泣いちゃうんだ」

 僕が慌てて言うと、栞は口を真一文字に結んで我慢した。素直で可愛いじゃないか。僕は「いい子だ」と頭をわしわしと撫でる。

「うっ、へぇ、ふぇっ」

 すると泣きじゃくってしまった。紙袋で顔を隠している。

「どうして泣くんだよ。お前は本当に──」

 僕は栞の肩を一定のリズムで優しく叩く。赤ん坊をあやしているみたいだ。栞は一回リセットして心の角が取れたのかもしれない。涙脆くて弱っちくなっている。しばらくそうしていた。泣きやんだらプリン二つを保冷剤と共に冷蔵庫に入れた。一つは栞がその場で食べた。美味しそうに食べる才能があると思った。栞に残りの漫画を持たされ、帰ることにした。玄関で靴を履いていると栞が背中をつついた。

「ねえ、今日はありがとうね」

 僕はかなり満足していた。栞と会えた。それだけで充分だった。

「あの、唯都くんは美海ちゃんと別れたの?」

 僕は靴べらを持つ手を止めた。栞を顧みる。

「何で知ってるの?」

「ウソでしょ!」

 栞は驚く。いや僕の驚くターンだ。

「私は当てずっぽうで言ったの。本当に別れちゃったの?」

 僕は西川さんと別れた。あれは三月の初頭だった。学校帰りに僕から切り出した。もちろんなぜかは訊かれたから、不本意ではあったが栞の名前を出して栞のことでケジメをつけるのだと言った。栞からの関与は無いが、僕は自分で栞を支えたいと思ったのだと言った。西川さんは全然納得しなかった。酷いことをたくさん言われたけど細部まで覚えてない。でも最終的には了解してもらった。そして最後の科白が一番胸に刻み付けられた。「お似合いの二人だね」。こんな皮肉たっぷりに言われたら苦笑いするしかなかった。西川さんはたくましく生きるだろう。

「私のせいなの?」

 栞は僕の両肩に手を置く。首を振った。

「全然。栞は関係無い。僕には手に負えないくらいに素晴らしい女性だったんだ」

 笑顔で言うと栞は更に心配そうな顔をした。僕はローファーを履いて立ち上がる。

「明日も会いに来るよ——っておい」

 栞は僕にハグした。

「大好きだからね。私も唯都くんの味方だからね」

 僕は栞の側頭部にデコピンする。

「いたっ!」

 栞は患部をさする。僕はドアに手を掛けた。手を振って家を後にする。栞も手を振った。外は暖かく春の陽気だった。空は青空で白くてあやふやな形の雲が立ち昇っている。時折吹く風は暖気たっぷりだった。昨日ここで見た女性を思い出す。あの人はたぶんカウンセラーだったのだろう。夕方に栞と話をして僕と会うように促したのかもしれない。少しずつ物事が前進しているのを知って久し振りに気分が軽くなった。何もかも上手くいきそうに思える。その日は深く眠った。


 次の日は土曜日だったので午前中から帯刀家のリビングで栞の話を聞いた。ほとんど栞が喋っていたから「聞いた」という表現で合っていると思う。栞曰く、手を切った後の記憶がほとんど無いと言う。気付いたら病院にいて、傷口には包帯が巻かれ、点滴を打たれていた。食欲は無くなり、一時体重は五キロ近く落ちた。無理に食べようとすると吐いた。また一睡もできない状態が続いた。脳が頭蓋の中でぐちゃぐちゃに混ぜられる感覚があった。脈絡無くキレたり泣いたりぼうっとしたりで周りに迷惑をかけた。今でも両親や医者に顔が立たない。だが僕が来てから容態は改善した。電話をして僕が嫌っていないことを知り、安心した。ウサギのぬいぐるみを抱いていると落ち着きを取り戻せた。その日は数時間眠れた。眠れるようになると体力がついてきて食事が徐々にできるようになった。女性のカウンセラーが付いて色々な話をできるようになって精神も安定した。そうして退院した。退院してからは家で度々カウンセラーの問診を受けている。僕が会った人はその人か訊いたら、絶対そうだと答えた。友達みたいな関係らしい。僕が通うようになって更に状態は好転した。食欲も以前とほぼ同じ水準まで戻った。体重はまだまだ。心の方の問題としては、夜が怖いことと外出してないこと。あとは僕に大好きと言うことで何とかなるらしい。迷惑だ。

 休日ということで朝から栞の両親はそれぞれお出掛け。お姉さんは残ると言ったが、栞が追い出した。両親やお姉さんも休みが必要だろう。ただ栞は二人になると歯止めが利かず、先ほどのような話を止めなかった。お昼頃にはスーパーに買い物に行った。栞にとって退院した日以来の外出だ。僕は気が気ではなかったのだが、何事も無く昼食とおやつを買って帰った。その日は充実した時間を過ごせた。


 日曜日も栞の家に行った。家族はまたも追い出されていた。僕が家に着いたときには栞だけがいた。リビングのソファーで話をする。話すことが今一番楽しいようだ。

「私ね、学校に登校しようと思ってるの」

 正直その言葉にいい気持ちはしない。学校ではテスト返却後に栞の噂は聞かなくなった。栞が教室にいないことが当たり前になったのだ。しかし皆が噂を忘れた訳ではないだろう。再び学校に行けば性質の悪い注目を浴びることは明白だ。それは僕としては看過できない。栞は理解ある人に囲まれて自分のペースで生きていい。どうしても学校には来て欲しくなかった。僕は栞に噂が広まっていることを伝えてない。刺激を与える訳にいかなかった。

「別に焦る必要は無いよ。もう授業は無いし来学期からでも──」

「違うの。まずは保健室登校する」

 栞は口角を上げた。保健室登校か。学校に来ても保健室で過ごすなら安全だ。栞は考査を受けない代わりに課題を出されているようだから、学校でそれをこなしていればいい。

「やっぱりずっと家にいるのはダメでしょう? 今日の午後にはカウンセラーさんが来て相談しようと思う」

「それはいい。学校に来たら様子見に行くよ」

「学校って今は何してるの?」

 何って。僕は腕を組む。

「月曜日はタバコとお酒はやめましょう、みたいな講習会。気持ち悪い肺や肝臓の写真を見せられる。火曜日は進学説明会で、水曜は学年集会と大掃除。木曜は春分の日で祝日」

「そうだっけ?」

「うん。金曜日は終了式」

 栞は「早いなー」と言いソファーに沈み込んだ。僕も早いと思う。一年生の半分は栞と過ごしたが、九月からは特にあっという間に過ぎてしまった。四月から違うクラスになる。

「離れたら寂しくなるね」

 栞の表情が抜け落ちた。ぼそぼそとした声を出す。

「唯都くんは私がいなくなっても大丈夫?」

「余裕」

「なっ。私は唯都くんがいなくなったら死ぬ。永久に唯都くんと一緒だから。軽々しく離れるとか言わないで」

 栞は真っ黒な瞳で僕を見つめた。口が渇いたので冷めたカフェオレを飲む。

「ジョークだよ。フフフ」

 栞は笑う。僕は冷や汗をかいていた。

「今日は何する? 私のおすすめの本の紹介とか」

「ああ、頼もうかな」

「それとも、キャッチボールする?」

 栞の笑顔に僕は安心した。

「キャッチボールでもいいよ。正月以来だ」

 栞はその場にすっと立った。

「じゃあ私は二階にボール取りに行くよ。唯都くんは待っててね」

 僕は言われた通り待った。暇なのでテレビを観た。ニュースをやっていて、国会議員が「記憶にございません」「記憶が戻りました」と堂々と答弁する様子が流れていた。記憶力の衰えたじいさんがよく国政を担当できるなと思った。今の議員や官僚よりは僕の方がまだマシな受け答えができると思う。ああいう仕事のできない大人が社会には溢れていると思うと今からお先真っ暗だなと思う。あるいは歳を取れば、僕も狡猾な阿呆に成り下がるのだろうか。悔しいことだ。だけど、「阿呆はいつも彼以外の人々をことごとく阿呆と考えている」。

「いやあああああっ!」

 反射的に僕は階段を目指した。栞の声だ。二階から聞こえた。何が起きたのか推測はしなかった。とりあえず現場に向かうことを優先した。一段飛ばして駆け上がる。二階に到達して栞の姿を探す。入ったことがあるのは階段の正面の寝室だけだが、音がしたのは右手。パッと見では何の部屋かわからなかった。一つはっきりしてることはその部屋はカーテンが閉まったままで真っ暗だということだった。カーテンを開け忘れたのか。隙間からわずかに光が飛び出ている。栞は頭を抱えて床に座っていた。

「栞?」

 僕が声を掛けると思い出したようにスイッチが入った。

「うあああ! 嫌あっ! ううぐぐ」

 栞は奇声を発しながらカーテンを開けようとしている? ──違う、窓を開けるつもりだ。僕は急いで駆け寄ってその体を抱き止める。体格は細身なので片手で抱ける。もう片方の手でカーテンを開けて光を入れると、そこはベランダに通じていた。窓じゃなくてガラス戸だった。つまり飛び降りようとしていた? 捕まえた栞を見ると目が血走り、とても正気を保っているとは思えない様子だった。

「しっかりしろ!」

「やめて! やあっだっ、壊れちゃう!」

 栞は聞いたことの無い醜い声を張り上げてジタバタ暴れた。その暴れ方はいつかのゴキブリを想起させた。

「ごめんなさい、ごめんなさい! 死んじゃう! あだま、おがじぐなる! ぐがあっ、うわああ! やめて、来ないで、死ぬ、死ぬがらあ! ごめんなさい、死にます!」

 栞は僕の腕を逃れるとその場で土下座して頭をフローリングに打ち付ける。泣いていた。とにかく苦しめられていた。──何に?

「栞、落ち着け! 僕がいる。大丈夫だ」

 僕が背中を叩くと栞は顔を上げ、初めて僕を視認した。栞は涙をぼろぼろ垂れ流しながら叫んだ。

「唯都くん助けで! 私死んじゃうよお!」

「死なない、栞は死なない。絶対に守る」

「いやああああああああああ! 来る来る来る来る来る来る! ごめんなさいいっ!」

 栞は僕の胸元に掴まる。錯乱している。僕はできるだけ強く抱き締めた。

「来ないでっ! 頭に入らないで、あ、たま侵さないで! 私を壊さないでええええ!」

「栞!」

「私がなくなっぢゃうううああっ!」

「落ち着けって!」

 栞の肩を強く揺すった。栞の身体は前後に動いて、ハッと僕を見た。

「栞、僕だ。わかる?」

 頷く。栞は肩を上下させて息をしていた。頬には大量の涙が伝っている。更には過呼吸になっていた。

「もう大丈夫だから」

 なるべく優しく背中を撫でた。栞は力を抜いて僕の肩に頭をもたげている。呼吸が元の調子に戻ってくると嘔吐した。僕と栞の膝に吐瀉物がかかる。そしてぐったりしてしまった。

 僕は泣きそうになった。栞ほどじゃなくても頭がこんがらがって、訳がわからなくなって泣きたくなった。でも泣かない。泣いちゃ駄目だ。栞を泣かせるものがある。それには僕の弱みを見せてはいけない。僕が弱かったら栞が不安がる。僕が強くあれば栞も泣かなくて済むことがあるかもしれない。だから涙を堪えた。それに女の子の前で泣くのはいけない。少なくとも頼られたいと思うなら。

 僕は強くて優しい。自分にそう言い聞かせて立ち上がった。学習机の上からティッシュを数枚取ってズボンを拭き、一階の洗面所に行ってタオルを何枚か持った。ふかふかのタオルが積み上がる中、下の方の使われてないほっそりしたタオルを持ったのだった。二階で横向きに倒れる栞を見る。最初に栞の口元を拭く。そのタオルを反対に折り畳んで栞のスカートも拭く。床の吐瀉物は、新聞紙を何枚か重ねて拭き取ってスーパーの袋に入れた。床は他のタオルで丁寧に拭った。毅然とその処理を済ました。脱力した栞をお姫様抱っこで抱えて一階に降り、リビングで口をゆすがせた。着替えはどこか訊くと「さっきの部屋」と言うのでタオルや袋の散乱した部屋から高校のジャージを見つけてそれを持って行った。「お父さんのズボン」と言った栞の意図を汲み取って、栞がリビングで服を替える間、僕はグローブのあった部屋で父親のジーンズ借りた。自分のズボンは洗面所でもみ洗いして室内に干した。リビングに戻ると栞は着替え終わっていて、僕はおんぶして二階の寝室に連れて行く。栞は呆然としていて何も言わない。植物みたいだった。ベッドの上に届けても仰向けに倒れるだけなので仕方なく正しい向きに体を直して掛け布団を掛けた。栞は無言で天井を観察しているようだった。僕は隣のベッドに座る。

「心配するよ」

「……」

「もう平気かな?」

「……」

「まあ、誰だって嫌なことはあるさ」

「……」

「しばらく寝てるといい。ここは明るいし、僕が見張ってる」

「……」

「何、心配は要らない。疲れたろう」

「ねえ」

「僕は──」

「帰って」

「……」

「帰って」

 僕は寝室を出た。ドアは開け放っておいた。本当は栞から目を離さない方がいい。栞が窓から飛び降りるという懸念はある。だがあの空間は耐え難かった。大事な人が壊されたのを見て誰が平常心でいられよう。一旦目を逸らすくらいはいいはずだ。僕は先ほどの部屋に入った。今ならわかる。ここは栞の部屋だ。黄色のカーテンが引かれている。勉強机がある。その上はペンケースやノート、教科書がついさっき使われていたような形跡を残していた。たぶん僕が訪問するまでは勉強していたのだろう。それか課題を減らしていたのだ。立て掛けてある教科書や辞書は几帳面に揃っている。机の上の壁には一学期と二学期の成績優良賞が額縁に入れて飾られている。横の壁にはコルクボードがあって、家族や「親友」であろう人物との写真が貼ってある。動物園でウサギを触る写真もあった。机の反対側には衣裳タンスがあって上に化粧品のケース、初音ミクのフィギュア一体が置かれていた。他は背の高い二つの本棚がある。一つはハードカバーと文庫本が半々に詰め込まれ、もう一つは漫画、CD、DVDが入っていた。部屋の中央にはビニール袋とタオルが散乱している。僕は大きく溜息を吐いてから片付けた。

 その後は寝室の入り口で待機した。栞からじろじろ見られたが仕方ない。放っておくことはできなかった。正午に栞のお腹が鳴ったので、ペットボトルのコーラと小分けになったチョコを枕元に投げた。米兵になった気分だった。ギブ・ユー・チョコレート。栞は擦って真っ赤に腫らした目をしながら黙々と食べていた。僕は冷凍庫のチョコバーアイスを勝手に食べた。それをお昼ご飯にした。バーを捨てに一階に戻ったとき、インターホンが鳴った。出ると、カウンセラーさんだった。何だかほっとした。僕が開けて自己紹介をし合ってやはり心理カウンセラーだと知る。臨床心理士の資格を持っているらしい。僕は栞の所にすぐ通そうとしたのだが、一階の廊下で立ち話をしようと提案された。彼女は何かが起きたことを悟ったようだった。僕は一連の出来事を話した。カウンセラーさんは僕に帰ってもいいし、栞と話し合ってもいいと言った。僕は会わない方がいいと思って帰ると伝えた。気が向いたら会いに来てあげて、と見送られて僕はそうすると答えた。その日は帰宅した。家に帰ってから栞の謝罪の電話があった。


 その次の日は学校に行った。この日栞は登校しなかった。酒、タバコ、薬物をやったら死ぬぞという講義を受けた。放課後は栞と電話で三時間くらい話した。会わなかった代わりとはいえ、電話が長い人だ。


 翌日、進学説明会の後のホームルームを終えて保健室に行った。栞は保健室登校ができたのだった。なぜ僕が登校の有無を知っているのかというと、実は説明会の最中にラインを見たからだった。言うまでもなく集会中にスマホを使ってはいけない。が、あまりに退屈だったため開いてしまった。バレないように体育座りの脚の下で操作したから心配要らない。僕はこういう誰も傷付かない行為は平気でする性格だ。校則や法律、マナー、常識よりも大事なことはあるし、僕らはそれに柔軟に対応すべきだと思う。だから校則だと言ってスカートや前髪の長さをメジャーで測る生徒指導の教師を理解できない。授業中は普通の人間なのだが、生徒指導時に見え隠れするその思想はあまりにファシスト的だった。僕は学校で往々にしてこういう違う人種を見る。社会には色んな人がいるのだ。

 保健室で過ごさなくては学校に来られない子もいる。僕は弱者を切り捨てない人間になりたいと思っている。その惨めな気持ちを僕は知っている。人の世の冷たさがどんなに冷たいか知っている。そして栞のように救ってくれる人間の心がどんなに熱を含み光をもたらしてくれるかも知っている。僕が優しければ救われる人間が一人でもあるかもしれないと思う。

 保健室のドアを開く。何か書き物をしていた保健室の先生が僕を見た。黒い髪を後ろで束ねて細身の体に白衣をまとった、いかにも潔癖そうな初老の女性だった。

「すみません、帯刀栞さんに会えますか」

 僕は軽く頭を下げた後、率直に尋ねる。先生は「あー」と言って数秒間考えた。そっか。栞は生徒と顔を合わせないために保健室にいるのだから、僕が会いたいと言っても、やすやすと面会させる訳にはいかないのだ。そも僕が栞の登校を知っているのが不思議だろう。

「えっと、帯刀さんに常磐が来たと知らせてくださいますか? と・き・わです」

 名字はたまに一回で聞き取られないので一応繰り返した。先生は頷いて保健室奥のついたての後ろに行った。すぐに戻って来る。

「いいわよ。あの向こう」

 先生は先ほどの方向を指差す。僕はお礼を告げてそっちに足を運んだ。奥にはカーテン付きの白いベッドが三台ある。今は空だ。僕は栞がベッドにいるものだと思っていた。そうじゃなくてカーテンが閉められた窓と一枚の大きなついたてに挟まれたスペース、そこにいた。栞は普通の学校机と椅子を使っていた。机には課題のプリントと教科書とペンと消しゴムがある。数学を解いていたらしい。

「ご機嫌よう、お迎えに上がったよ」

 僕が挨拶をしてそのスペースに入ると、栞は笑顔を見せて理科室にあるような丸椅子を差し出した。僕は素直に座る。

「ご機嫌よ。ありがとう、来てくれて」

 栞は月並みな返事をする。元気そうで安心した。他所の家に連れ込まれたネコのようになってはいまいか心配していた。

「学校来られたのはいいことだね。くだらない説明会に参加しなかったのも正解だと思う」

 栞は苦笑する。進学説明会では国立大学に行きなさいという話や、今年は早慶が何人増えた、MARCHなんか何割増えた、お前らの代で進学実績に泥を塗るような真似はするな、みたいな脅しを聞いた。それを栞に話すと声を出して笑った。笑い事じゃない。

「唯都くん、頑張りなって。同じ大学行こ」

「僕には不可能だよ。これ以上補講が増えたら死ぬ」

 栞にはいまいち事の深刻さがわからないようだった。勉強できるから。

「勉強の秘訣とかあるの?」

 栞は唇を尖らせて首を傾げた。僕は自分の椅子を前後に揺らす。

「定期テストの話?」

「まあ、定期テストでも受験でも」

「秘訣なんて無いな。ここの範囲をできるようにしとけって言われるでしょ? 私はその通りにしてるだけだもん。暗記しろって言われたら暗記して、公式を使えるようにしろって言われたら身に付けているだけ。言われたことをしてるだけだよ」

 栞はそう言うと僕の反応を窺った。言わんとすることは理解した。

「仰る通り」

「何が不満?」

「いや、シンプルすぎてビックリしたんだ。なるほど道理だ」

 僕は最初から王道を歩いてないのに抜け道を探してるのが間違いだった。

「何と言うか、僕は勉強に向いてないかも」

「ふふっ。進級したらみっちり教えてあげる」

 栞は笑う。僕はかなり絶望的な気分だが。

「なあ栞。いつ帰るの?」

 栞は笑いを一度鎮めて答える。

「うーん、もう少ししたら。車で送迎してもらったからいつでも帰れるの」

「今は帰りたくない?」

「うん。クラスメイトに遭遇したくない。下校時刻だから皆は帰るとか、部活の準備で昼食食べてるでしょ? 今出ると会っちゃう」

 栞はカーテンの掛かった窓を眺める。顔には出して無いが寂しそうだった。

「だからー、もうちょいイチャイチャしよ! 少女漫画だと保健室ではチューしたり色々したりするのがお約束なの」

 色々ね。

「個人的な願望なんだけど保健室でハグしよ」

 栞は嫌がる僕に無理やり抱き付いた。セクハラ女。先生からはついたてで見えない位置であるが丸聞こえではあっただろう。


「さくーらのー雨ー」

 栞は校庭の桜の木の下でくるくる回りながら機嫌良く歌っていた。背中の黄色いリュックも釣られて踊っている。僕は地面に飛び出た木の根っこに座っていた。頭のおかしい女の子のお守りだ。僕たちは栞の迎えの車を校門付近で待っている。その待ち時間に高校の入り口の桜の木の下にいるのだ。

「僕には桜が咲いているようには見えない」

 桜は枝につぼみをたくさん付けているものの、花が開いているのは一輪ほどだった。まだ東京でも開花宣言は出てないようだから、こここまで桜前線も上がって来てない。あと少しだとは思うのだが。

「入学式のときは満開だったね」

 そうだったか。あまり記憶に無い。

「唯都くんは桜好き?」

「どうだろう。桜の名所近くに住んでる人間は、春になると渋滞とゴミと酔っ払いを連れて来る桜を憎んでいるらしいよ」

「あのねえ。唯都くんは?」

 僕は首を傾け、地面に指で星を描く。

「桜と私ならどっちが綺麗かな?」

 違和感を抱いた。それも嫌な感覚。道で轢かれたネコの死骸を目撃したのに似た気分。

「栞と桜は比較の対象にならない」

「じゃあ私と美海ちゃんは? 私は──」

「ねえ、そういうのもうやめたら」

 栞は驚いた表情をした。僕はイラッとしたのだ。感情をありのまま言葉に乗せた。

「相手が人だって比較の対象にならない。そうやって人と比べて競うのが自分の首絞めてるよね。自分は自分って割り切れないの? 最近甘やかされてるからって調子乗るなよ。自分から変わる意志が無けりゃ、周りがいくら頑張っても栞はずっとそのままだ」

 強く言い過ぎた。栞を見ると明らかにしょんぼりしていた。僕は地面の図形を足で消す。

「ごめん。栞は何物にも代えられない良いものを持ってると思うんだ。だから栞がそんなことで悲しんでるのはもったいないと思う」

 栞はしょんぼりしたまま微笑んだ。

「ありがとう。私は弱虫だね」

 僕は顔を背けた。栞には素直に笑って欲しい。口には出さないけれども栞の純粋な笑顔は何よりも価値があると思う。

「私は唯都くんが思うほどいい子じゃない」

「本音を言えば僕もだ」

「下心いっぱい?」

「当たり前だ。栞は絶世の美女だから」

「可愛い?」

「タイプの顔だ。クレオパトラよりも」

「ならどうして──何でもない」

 栞は空を見た。数秒後、栞の母が運転する車が到着する。学校の前の道路に停まった。

「乗せてもいいけど、唯都くんは電車でゆっくり来て。今日はお昼ご飯を私が作るから、電車で来たら丁度出来上がってるかも」

 栞は車で先に帰宅してご飯を作っておく。後から僕が行く。首肯した。離れて冷静になった方がいいとも思ったからだった。言い過ぎてしまったと後悔している。

「その前に。意味の無いことを教える」

 栞は「何?」と訊く。

「昔からなんだけど、僕は好きな女の子に意地悪しすぎて嫌われるタイプだ」

 栞は微笑んでから車に乗り込んだ。


 栞の家に着いたとき、腹が減って倒れそうだった。もう一時半だ。外は二十度弱まで気温が上がるらしくポカポカしている。命からがらインターホンを押す。栞が応答した。

『郵便受けにお手紙入ってるからそれ取って上がってもらえる?』

 僕は郵便受けの中からビニール袋に包まれた書類を取り出した。予備校の入学金割引と優待券だ。パンフレットが数冊封入されている。リビングに行って栞と再会する。栞は青いパステルカラーのトップスに落ち着いた色のひらひらしたロングスカートを穿いていた。茶色のエプロンも着けている。

「これ。予備校の冊子だね」

 手に持った物を振って見せると、栞はしかめ面を浮かべた。

「ビニールは燃えるゴミ、紙は紙ゴミで」

「見ないの?」

「絶対通わないもん。なのに模試受けてからずっと送ってくるの。本当に紙の無駄。迷惑と言えば、小学生のときに受けてた通信講座で個人情報が漏洩したこともあった。そこから家庭教師の勧誘の電話が掛かってくるようになったの。教育関係の会社には個人情報とかプライバシーっていう概念が無いのね」

 栞は片手に菜箸を持ったまま腰に手を当てて頬を膨らませた。僕はリビングの隅に行って栞の言う通りに袋を破いて分別して捨てる。キリスト教のチラシを思い出した。

「唯都くん、お昼はソファー? それともダイニングテーブル?」

 栞が白米をよそいながら尋ねる。どこで食べるか訊いたのか。「どっちでもいい」と答えそうになった口を塞ぐ。

「たまにはキッチンの前で食べよう」

 栞はダイニングテーブルに丼を配膳した。

「たまには向き合って食べよっか」

 手を洗って目薬を注してから栞の向かいに座した。テーブルには親子丼があった。鶏肉と玉子が輝いている。三葉が彩りを添えていた。僕は唾を飲み込む。

「美味しそうだ。いただきます」

「早いよ。いただきます」

 栞と同時に食べ始める。親子丼という残酷な調理法とネーミングではあるが、その味たるや最高だった。口に含むと玉子から出汁がじゅんわり染み出す。噛むと鶏肉のほろほろした食感がした。栞は料理が上手だ。

「美味しそうに食べるね」

「僕が? そうかな。実際美味しいよ」

 栞は顔を赤くして喜んだ。

「唯都くんに食べてもらうのが一番嬉しいよ」

 僕は口を動かしつつ適当な相槌を打つ。

「あとは箸の持ち方が綺麗なのもいいね」

 変な所に目をつける。

「両親がマナーに厳しくてさ。箸は正しく持ってお茶碗は左手で持つ。肘はつかない。ご飯とおかずは交互に食べる。そういうのを叩き込まれてるから食べ方汚い人は絶対嫌なの」

 栞はそう言うと口一杯に頬張った。

「僕の家もそうだ。外で恥ずかしくないように最低限のマナーはしっかりしろって言われてた。箸の持ち方も散々仕込まれたよ。結構厳しい指導があった」

 栞と僕は笑った。お互い思い当たる節があるらしい。

「そうね。私が結婚相手に求める最低条件はそれかも。食べ方とかのマナー。別に冠婚葬祭やフレンチの作法をマスターしろとは言わないけど、見苦しくない範囲で振る舞って欲しい。あとは清潔感。身だしなみとか身の回りの整理整頓をしっかりしてないと」

 僕も同意する。大半の人間は同意するだろう。

「次のハードルは好みの顔立ちであること。誰でもそうでしょ? 唯都くんみたいなイケメンがいい。それと唯都くんみたいに優しくて紳士な人かな。最後に、唯都くんとは違って惜しみ無く愛を表現してくれる人」

 栞は楽しげに笑う。僕は苦笑した。

「早く言うべきこと言ってよね。待ってるんだから」

 ウインクされた。僕は肩をすくめて誤魔化す。何とかその後もやり過ごした。食後には二人で皿洗いした。歯磨きの後、特に示し合わせてないがソファーに集った。結局だらしなく座るのが好きなのだ。

「ねえ、唯都くん」

 僕はどうせまた「好き」って言われると思って無視した。ここは日が当たって暖かい。

「あっ。あー、唯都くん」

 栞が至近距離で笑う。顔に何か付いてる?

「眠そうだ! 寝る?」

「寝てもいいなら」

 僕はスマホをいじりながら答えた。栞以外に着信は無いので何を見ている訳ではない。

「じゃあ膝枕してあげる」

 僕は無視した。すると栞はスマホを取り上げようとする。僕は画面を消してから放した。しかし栞はパスコードを開けてみせる。どうして変えたばかりのパスワードを見破れるのだろう。栞はスマホをテーブルに投げる。

「スマホはいいの! 膝枕じゃなきゃダメ!」

 僕は首を押さえつけられたので仕方なく横になった。骨張った太ももに頭を預ける。スカートの生地が柔らかなのでくすぐったい。

「安心してお眠り」

 栞は僕を見下ろした。こうして見ると栞は痩せたな。影がいつもと違う方向から入って頬の線を強調していた。それが儚げに見えた。僕は学校で座りっぱなしで疲れていて、満腹で昼下がりという条件も相まって事実眠たい。ほどなく眠りに落ちていった。


 ——意識が戻ったとき、目が開かなかった。壮絶な眠気を感じる。どうにかこうにか状況を把握して声を出した。

「しおりん、いる?」

「いるよん」

 滑らかな艶っぽい雰囲気の声だった。ああ、膝枕していたんだ。馬鹿な乙女心に応えてやった優しい唯都くん。

「何時? まあまあ寝たかな」

「二十五時」

「嘘吐け」

 僕は眠たい目をこすって視界を開いた。部屋が薄暗い。カーテンが閉まって日光が遮られている。明かりがオレンジ色、懐かしい暖色だ。あの日に似ている、大晦日。栞とは立場が反対だ。あの夜は僕が脚を貸していたのだ。僕はいつの間にか体を横にしていた。テレビ台の方向を向いている。テレビは消してある。台に載っているデジタル時計は一時四分を表示していた。待て、半日寝過ごした?

「あれ? まずいな。親が心配する」

「大丈夫。唯都くんを泊めますって言ったから。唯都くんと永遠に一緒ですって誓ったの」

「しおちゃん、馬鹿になったの?」

「そう。タガが外れた。でも平気。唯都くんのことをウサギのお人形さんと同じで抱いて寝る。抱いていると安心して生きていける。だから死んでも唯都くんを離さないよ」

 僕は栞の方を確認した。栞はハサミの先端を僕に向け下ろしていた。なぜ?

「死のうよ。二人で死んで、二人だけの島に行こう。二人で一人になるの。この世界に居場所は無い。辛くて汚くて醜いから出て行って、理想の島に行くの。そこでは皆優しくて綺麗な人ばっかり。私は唯都くんと一体になる。補い合えばきっと死んでも生きていける」

「?」

「殺すね、大好きな唯都くん。あのね、手首を切ったとき気持ち良かったんだよ。私の中の泥が出てった代わりに光が入って来たの。あんな快楽は無いね。痛いけど苦しくないよ」

「栞のこと好きだよ。でも死にたくない」

「私も好き。だから死ぬんでしょ? 二人だけの世界で生きるの」

「僕が眠る間に殺そうとしたのか。寝首をかいて、僕が喜ぶと思った?」

 僕は栞の黒目を見た。栞は僕を睥睨する。

「うるさい! 死・ぬ・の!」

 うるさいのはお前だ。僕は栞を支えるために生きてきた。それなのに結局何も変わってない。栞はまた生きようと努力していると信じていた。色々話をして和解し合えたと思った。栞から好きだと言われて心が温かかった。それも全部フイにした。嘘だったんだ。裏切った。裏切ったな。

「栞、目を覚ますのはお前の方だ」

「違うよ。私たちは逃げるの。島に行こうよ」

「黙れ! わからず屋! 僕は許さない、お前を絶対許さない」

 栞からハサミを取り上げた。抵抗したがその手からすぐにハサミはすり抜けた。僕はそれをテレビに投げつける。栞は号泣した。

「どうして死なないの。なんでいつまでもこんな所にいるの。酷いよ、私は苦しい!」

 僕は我を忘れて栞をぶった。栞は頬を赤く腫らして泣き続けた。

「痛いよ。唯都くんに嫌われた。何で!」

 栞は泣く。僕はまたぶった。栞は逃げる。キッチンの方に行こうとするその背中を僕は蹴り飛ばした。栞は倒れ込む。何とか立ち上がると水切り棚の包丁を手にする。

「おい、栞。やめろ、死ぬな。生きろ」

 僕は首を振る。栞は首に刃先を押し当てた。ぐちゃぐちゃの顔で僕をねめつけていた。

「さよなら」

「馬鹿、やめろ」

 僕は手を力一杯伸ばす。間に合わない。栞は自分の喉を突き刺す──。


「わあ! 危ないよ」

 聴覚が徐々に復帰する。水中から這い出たときのようだ。そしてゆっくり目を覚ます。目を覚ます? 僕が目を開けると、まず白い光が眩しかった。そして次に捉えた感覚は自分の態勢だった。手を真上に伸ばしている。真上? 僕は横になっていた。頭はかなり不安定な場所にある。首が凝っている。手を下ろす。視界が開けてくると、そこに驚いた栞を見とめた。栞がいる。位置関係からして僕は膝枕されている。

「何時? 今日は何日?」

「ん? 三時で、三月の十九日だよ」

 安心してきた。栞は僕を見下ろして笑顔でいる。栞の手はソファーの上にある。

「僕は寝てたのかな?」

「ぐっすりね。一時間くらい。私がおやつ食べようとしたらいきなり手を突き上げたから何事かと思ったよ」

「嫌な夢を見ていた。気分悪いや」

 栞はくすくす笑い、僕の前髪を撫でた。僕は笑う。さっきのは夢だった。それもとびきりの悪夢だ。ただ、夢とは言えずいぶん悪い想像をしたものだ。僕は栞を疑っていたのだろうか。栞は死のうとしてないのに。頑張って生きているのに。栞は今も透き通った笑みを形作っている。思えば栞の笑顔はぎこちなさが取れてきている。体重さえ戻れば昔の笑顔を取り戻せそうだ。僕は心を締め付けられる思いがした。なんて自分は情けないのか。栞を信じてやれないほど疑心暗鬼なのか。

「唯都くんもおやつ食べよう。美味しいもの食べて元気出そう──あっ」

 僕は栞を抱き締めた。許して欲しかった。なるべく力を込めてその細い身体を抱える。僕は物理的に栞と心を一つにしようとしていた。僕の悪い心を栞の綺麗な心で中和するみたいに。僕は浄化されているから快かったが、栞は痛いかな。僕の悪い部分を受け入れているんだ。だけどもう少し我慢してくれ。

「唯都くんどうしたの? 嬉しいんだけど恥ずかしいな。もう少し優しい方がいい」

 やっぱり痛いか。ごめん。

「ちょ、長いよ。痛い痛い」

 栞は僕の背中を叩いて怒っている。しばらくすると無言になった。僕も激しい感情が収まってくる。良くないことをしたという自覚が沸き上がる。

「ごめん、離れるよ」

 僕は腕の力を抜いて身を引こうとすると、栞が離れなかった。栞も僕を抱き締めていた。

「泣いてるの?」

「ど、うして、わかるの?」

「当てずっぽう」

「えへへ。また泣い、ちゃった」

 栞はここからどいたら死んじゃうように思える。しょうがない子だ。

「僕で良ければ話し相手になるけど」

 栞は首を縦に動かした。僕はその頭を右手で支える。

「あのね、転校するかもしれない」

「……」

「転校して引っ越すかも。お父さんとお姉ちゃんは都内に通ってるからその範囲だけど、県外には出るって」

「会えなくなるってこと?」

「私は反対してるの。私の命綱は唯都くんだから。カウンセラーさんも替えたくない。でも今の学校に行くのを家族は認めてくれてない。直接言わないけど、近所の人にも事情が知れてるから肩身が狭いらしいし」

 僕は近所との距離の近さを思い出した。

「私が倒れたすぐ後から違う高校に行く手続きをしてたみたい。引っ越しも今月末にする予定なの。私は嫌だよ」

 栞は僕のセーターにしがみついている。

「どうしよう」

 どうしようって。未成年の人間にはどうにもできない。栞の家族がそう決断したなら受け入れるしかない。でも栞がそのせいで苦しい思いをしたら? 栞が死んじゃったら?

「大丈夫だよ。栞は一人でもやっていける」

「無理、だよ。私は唯都くんが……」

 僕は内心焦っていた。栞との時間が限られていたことに気付いて。

「いつまでここに住めるの?」

「わかんない」

 僕は体から汗が滲み出ていた。栞がもうすぐいなくなる。この温もりが消える。笑顔が見られなくなる。考えてなかった。せめて高校生の間は栞といられると思っていた。高校生活が終わりに近付くにつれて段々と別れを意識していくものだと油断していた。

「怖いよ」

 僕も怖い。栞は一人で生きていけるのか。僕の方は? 栞以上に僕は自分一人で生きていく力が無いのではなかったか。僕らは漠然とした不安から身を庇うために抱き合っていた。寒さから身を守っているみたいだ。外の世界はもう暖かい。春が来ている。

「栞、今は考えても仕方ない。美味しいもの食べて忘れよう」

 栞のほっぺたを両手で摘まむ。顔を突き合わせると栞は弱々しい表情をしていた。

「すげー顔」

「ひっどーい! もう、しおちゃん好きって言ってあげないよ!」

 栞は眉を吊り上げて精一杯怒っていた。

「ほっぺが伸びちゃう。ぼたもち食べる?」

 手を放すと、栞は頬をさすって口角を上げる。テーブルに目を遣る。あんこの塊がプラスチックのトレーに二つ並んでいる。

「お彼岸でしょ?」

 そういや確かに。だが僕が疑問に思うのはそこではない。栞は僕を脚に乗せていたのにどうやってこれを運んだのだろう。僕が横になったときは無かったはずだ。

「お母さんが持って来たの。さっき」

「……お母さんは僕の醜態を目撃した?」

「あはは。うん」

「確認だけど、引っ越すのは僕から栞を守るためじゃないよね」

 栞は大笑いした。夢ならいいのに。


 ブルーのライトスタンドに白球が突き刺さる。サヨナラツーラン。栞がコントローラーを投げてガッツポーズをした。僕は一応頭を抱えるポーズを取る。僕と栞は朝から家でゲームをしていた。毎日栞の家に通う僕だが、春分の日である今日も来た。

「やっほーい! 唯都くん三連敗」

 憎いくらいの喜びよう。五対五の同点で迎えた十回裏ワンアウト一塁、僕のプレイする抑え投手の全力ストレートを栞の四番が豪快に強振して柵越え。サヨナラ負けを喫した。

「なまじ野球を知ってるとゲームでは弱いね」

「敗者に口無しよ。素直に負けを認めなさい」

 栞は投球成績を確認してから電源を切った。

「唯都くんボール球多すぎ」

「あのさ、こんな自堕落な生活を送っていていいのかな? 朝からゲーム三昧だけど」

 現在十時を回ったところである。九時頃からコントローラーを酷使していた。

「お出掛けする? 久し振りのデート」

 昨日は放課後にチャリで一時間くらいサイクリングしたけどあれでは物足りないのか。

「どこかでお買い物しよ」

「構わないよ。すぐ出るかい?」

「うん。ランチも兼ねて」

 栞は着替えのために二階に行く。僕は荷物をまとめて外を眺める。あいにくうっすら曇りである。しかし暖かな南風が注ぎ、気温は丁度良い。昼頃には上着を脱がないと汗をかくくらいの気候だ。こんな日は栞と徘徊するのがいいかもしれない。春だし頭がおかしい子を街中に連れ出しても目立ちはしないだろう。

 ドタバタと階段を下る足音が家に響いた。出掛ける準備とはあんなに時間が掛かるものなのだろうか。廊下に出ると栞がいた。

「可愛い?」

 僕は苦笑いした。栞の装いは可愛いと評して良かったと思う。裾がフレア型に広がるロングのワンピースは腰の辺りですぼまっている。また、オーバーサイズ気味のデニム生地をしたアウターを羽織っていた。それ自体は問題なく可愛いのだろう。問題は色だ。ワンピースはカーキでアウターは青。

「えへへ。お揃い」

 僕はカーキのジャケットに白パーカー。パンツは青ジーンズ。完全なお揃いではないにしろ、色合いが似てる。

「いーじゃん、公式デートなんだから。カップルコーデだよ」

「遊園地に行ったときは非公式だったね」

 栞はブラックのショルダーバッグを掛けて微笑む。ああ、言い忘れていたことがある。

「似合ってるよ」

 栞は顔を赤くして玄関に向かった。家を出て栞が鍵を閉めるのを待った。二人で並んで駅まで歩く。漫才師のように立ち位置が決まっている。僕が左、栞が右。

「唯都くんもお洒落だよ」

「サンキュー」

「適当。私ね、田舎に住んでても身なりは洗練されてたいの」

 栞がなけなしの胸を張ってそう主張するのを見て僕は笑った。

 電車で五分ちょい下ってJR線が乗り入れる駅に行き、そこでショッピングモール直通のバスに乗る。二十分くらい乗れば着く。巨大な箱状の建物が車窓から目に入る。久方ぶりだけどデカいなと思った。栞とはずっと話すと体力がもたないので、休み休み冗談を言い合った。

 到着してからは栞のワガママに付き合う。ショッピングを楽しむのは一月以来だというので好きにしておいた。ぴょんぴょこ動き回るその姿は野ウサギを思わせた。栞は最初に目に付いた店でしばらく悩み、他の店も見ようと言って一階と二階を一周した後に最初の店でブラウスとスカートを買っていた。あと午前中にしたことと言えば、僕のサングラスを栞が選んだことだった。要らないと言ったのだが夏にそれを着けて会いに来て欲しいと言う。絶対嫌だ。昼は少し遅めにフードコートで食べた。栞はユッケで僕は焼きうどん。栞は食べ終わると二人分のトレーを返却して、ついでにトイレに行くと言った。遅いと思ったが女子トイレなんてこんなものかと思った。しかし違った。栞は両手に大きなパフェを持って帰還した。

「アホ」

「食べようよ。唯都くんはチョコ、私はイチゴ。男の子にはチョコ選んでおけば間違いないってテレビで言ってた」

 チョコは好きだけど。僕は氷がぎゅうぎゅうに詰まった水を飲む。透明のコップは汗をかいていた。

「ありがとう。栞のおごりだ」

「いいえ。きちんと払ってください」

 栞は伝票をテーブルに叩きつける。金額を見る。なんでこんなに高いんだろう。

「そう言えば、大晦日の蕎麦の代金を返してもらってないよ」

 栞は「あっ」と言って固まった。

「根に持ってたの? 忘れてたよ。じゃあこれでチャラね」

 栞はチョコパフェを僕の方に遣る。僕は細長い金属のスプーンで食べる。ひたすら甘い。チョコソフトクリームが容器に、それにチョコソースがかけてある。ホイップクリームやバナナなどもある。栞はバニラのソフトクリームでストロベリーソース。あとは大ぶりのイチゴが載っていた。

「唯都くん、イチゴ一口あげようか」

 栞はスプーンの先にイチゴを載せ、僕に差し出した。

「不必要だよ」

「あーん。カップルならこれくらいするの」

 僕は眉を寄せ、唇を山なりに曲げる。栞は目を細めて笑顔を浮かべる。僕は無力感を感じて口を開ける。

「うっそ! あげないもーん」

 栞はスプーンを迂回させて自らの口に運んだ。イチゴが小さな口いっぱいに吸い込まれる。僕は憤慨した。こいつを殺してしまっても構わないだろうか。

「うわあ! 怒ってる? ちゃんとあげるよ」

 栞はまたイチゴを僕に提示する。さっきより大きい。だがもう騙されることはない。僕は学習する人間である。考える葦なのだ。

「ゴメンねって言ってるじゃん」

 栞は困っているようだ。僕は顔を逸らす。しかしじりじり引き戻される。栞の視線からは磁力が出てるのかもしれない。仕方なく口を開く。

「あーん、うそ!」

「この、──うっ?」

 栞はフェイントをかけてから僕の口に突っ込んだ。甘さと怒りで混乱したので諦めて咀嚼した。ああ、美味い。

「私、今が人生で一番楽しいかも。最高のデートじゃない?」

「そいつは良かった。そうだね、僕の最高のデートは西川さんと出掛け……栞?」

 栞は僕をじっと見ていた。黒目から光が失われている。

「どうして楽しいときに美海ちゃんのことが出て来るの。唯都くんは私だけのものなんだから他の女は関係無いのに。私は唯都くんしか見てない。唯都くんが好きで唯都くんに好かれるために生きてるのに。唯都くんに幸せになってもらうことが生き甲斐だよ。それなのに唯都くんは本当は私のこと嫌いなの。もしそうなら──」

「おーい、栞。パフェが溶けちゃうよ」

 栞はぼそぼそ呟くので内容はおおよそしか聞き取れない。フードコートは雑音がひどい。

「もっと愛を伝えないと。唯都くんが好きってことをわかってもらわないと。ずっと一緒にいる。死ぬまで離れないし放さない。絶対唯都くんに必要とされる人になる。唯都くんのために生きて死ぬ。唯都くんと別れる原因を作る女は一人残らず殺す。唯都くんとの恋路を邪魔する人は誰でも許さない。唯都くんが自分から離れようとするなら唯都くんとの熱がまだ冷めないうちに唯都くんを殺す。刺し違える。唯都くんが私を好きにならない世界なんて要らない。唯都くんは一生私だけ見てればいい、唯都くんは──」

「栞、ほら。バナナを一口やろう。口開けて」

 僕は慌ててスプーンに乗ったバナナを栞に向ける。栞は不気味に口角を吊り上げた。

「フフフ、ありがとう。いつも優しいね」

 満足そうに食べていた。僕は一安心してソフトクリームを食べた。頭痛がして胃もたれするのは冷たくて甘いものを食べているからだ。

「ずーっと一緒にいようね。フフフ」

 栞は真っ黒い瞳で僕に笑いかけた。そうしようと答えておいた。早く残りを食べないと。栞は西川さんに嫉妬したのだろうか。そうかもしれない。今までもそういう場面に幾度か直面したことがある。というか女性はそもそも嫉妬をよくする。西川さんにも嫉妬されたことが何度もある。そこで興味深い発見をした。——女性は、異性が他の女性を擁護する発言をすると嫉妬する。

 例えば、栞は西川さんの話題を出すと決まっておかしな言動を取る。それは当たり前かもしれない。僕だって栞がもし同年代で近しい男のことを持ち上げる発言をしたらイライラするだろう。たぶん。だが栞の場合、僕が栞の姉を庇ったときにも嫉妬する。また僕の母を僕が庇うときも然りだ。更には僕がテレビに出ている女性タレントの肩を持つときもそうだ。栞は僕が擁護する相手が女性なら必ず嫉妬する。少なくともそういう態度を見せる。これは西川さんやうちの母にも見られる傾向だった。

 反対に男はそうはしないだろう。相手の女性が父に理解を示すのは普通だし、好きな男性タレントに嫉妬を表しても見苦しいと考えるはずだ。女性の嫉妬は男と比べると範囲が広い。

 なぜだろう。これは嫉妬の効用を考えるとヒントがあるのではないか。嫉妬をすると女性は怒ったり泣いたり不機嫌になる。意見を強く押し通せないときは不服を誇示し続ける。男は「納得してくれ」と言っても無駄だし「譲歩する」と言っても不機嫌は直せない。男性としては初めから折れるほか無くなるのだ。つまり女性がする嫉妬は、男性を操るテクニックの一つだ。男性の嫉妬は直情的な感情の表現であるのに対して。

 古来から女性は男性に肉体的には勝てない生き物だった。だから精神的に勝てる術を上達させたのではないだろうか。「私はこうして欲しい」と口で言っても殴られたら負けてしまう。ならば初めから「君の言うことも与する」と言わせる展開に持ち込めばいい。いや、言わせなくていい。自分の思うままに男性が自然と行動すればいい。「あれが欲しい」と思えば「これあげる」と差し出すよう仕向ける。「あの人と近付かないで欲しい」と思えば「あの人は良くない」と思わせる。

 恐らく女性は本能的に男性を操っているのではないか。一昔前まで女性は男性の三歩後ろを歩いていた。しかしながら、女性は男性が次にどこの角を曲がるのか、どこで立ち止まるのか意のままに操れていた。男性にリードされていたのではなく、リードさせていたのでは? 犬を散歩させるのと同じだ。犬の後ろで歩いていても進行方向は操ることができた。「傾国」という言葉を思い出す。楊貴妃は国家を倒すほどの美人だったのか? それだけじゃない。国の王が男性で、愛する女性の影響力をなるたけ遠くにやろうとする努力を忘れたから国が倒れたのだ。男は「多忙」と「仕事」を愛し、恋愛は「罪悪」であると常に肝に銘じる必要がある。女性に隙を見せたら血も内臓も骨も都合よく入れ換えられてしまう。実は栞は初めから僕を——。

「唯都くん、お腹いっぱい?」

 栞は手が止まっていた僕の顔を覗き込む。僕は首を振る。栞の方が早く食べ終えていた。僕はペースを上げて最後まで食べ尽くす。底に溜まったチョコを食べるのは面倒だった。紙ナプキンで口を拭き、手を合わせる。

「ごちそうさま。さて午後はどうしようか」

「ぶらぶらしよ。夕方には帰るってことで」

 栞は立ち上がる。僕にも異存はない。

「唯都くん、お皿片してよ」

「嫌だ。自分で買ったんだから自分でやれ」

 ジャケットを羽織ってリュックを背負う。栞は苦笑いした。

「もう。わかったよ。ちょっと待っててね」

 やけに素直に運ぼうとする。ショルダーバッグをたすき掛けして大きな縦長の容器を小さな手で持つ。空の容器とは言え、両手で持つなんて危なっかしい。僕は容器を二つとも受け取った。栞は驚くような顔をする。

「え? ありがと。唯都くんが優しくなった」


 数十分後の僕らはフードコートと同じく三階にある映画館の前にいた。栞は上演作品のポスターを見上げて腕組みしている。

「観たくない?」

「うーん、映画は一人で観たい。万が一栞に涙を見られたらと思うと集中できない」

 栞は笑った。

「じゃあポップコーンだけ買ってもいい?」

「ありゃ太るよ。油でギトギトだ」

「いいの。今は体重増やすんだから」

「そう? 正月太りしたんだからプラマイゼロだったんじゃないの」

 栞は「ヒドい」と言った。

「好きなポップコーンを選ぶといい」

「やったあ! キャラメルポップコーン買ってね」

 栞の要求通りに購入したけど、コーンを焼いただけの商品にしては高かった。一階に降りてからはペットショップを冷やかしに行った。栞はしゃがんでクリアケースの向こうの黒の柴犬と戯れている。目の上に茶色い丸模様が付いた、まろ犬だ。

「可愛いなー。私はウサちゃん飼いたいけど」

 栞はその子犬に人差し指を見せて左右に振っている。犬は指に食らい付くように跳ねていた。僕は立ったまま、顔の高さのケージにいる年寄りのネコの反射神経を試していた。ネコは眠たげに指を目で追う。本能だから仕方なく見ているといった感じだった。

「栞は動物苦手なんでしょ。飼えるの?」

 栞は柴犬に飽きたようで隣のチワワと遊び出した。僕は栞が動物を触れないことを覚えている。動物園でウサギにびびっていた。

「そうだね。実際はお世話できないかな。でもこうして囲いの中にいたら怖くないよ」

 栞は笑った。僕はネコに完全に愛想を尽かされたので栞の隣に腰を落とす。

「私、怖くないんだ。柵の内側にいたら」

 栞は真っ直ぐチワワを見ていた。指をちょこまか動かしている。

「何でもそうよ。動物園にいるゾウは可愛い。首輪とリード付けてる犬は可愛い。だけど逃亡したゾウは怖い。野良犬は怖い」

 僕は栞にフラれた柴犬を構ってやる。

「植木鉢とか花壇に植わってる草花は綺麗でしょ。でも、ぼうぼうの雑草や蔦の絡まる家は汚い。支配下にあるかないかで私たちの安心は決まるの。わかって?」

 僕は栞を見ずに頷く。

「刑務所とか、人もそうよ。いくら凶悪な犯罪者でも檻の向こうなら安心じゃない」

 ショーケースの向こうの子犬は幸せそうに僕を眺めていた。僕はその姿に微笑む。

「私はね、学校も同じだと思うようになった。学校では教室も席も決められてる。時間割だって使い道の自由な時間が無い。そうやってガチガチに固めることで円滑に狭い社会を運営してるの」

 僕は子犬をじっと見つめた。コイツからすれば僕らが囲いの内にいるように見えるかもしれない。

「だけど、内にいることは楽でもある。動物園の動物は遠くに行けないけど毎日寝床と食べ物と医療を与えられる。刑務所の中もそう。学校だって所属していたら必要な教育を受けて進学できる。友人と会えるし部活に打ち込むこともできる。自由を代償にシステムに組み込まれることによって、楽な生活を得られるの」

 僕は笑う。栞がまるで学校を肯定しているみたいだ。

「私は今でも学校に未来を見出だそうとしている。学校を辞めたらきっと辛いもの」

 笑えない。犬は笑っているような顔をする。

「中卒じゃ生きていけない。夢を追いたいなら大学まで行かなきゃいけないこともある。自分のしたい仕事して結婚もしたいなら学校は付きまとう。私は将来、力仕事や単純作業はできない。でも営業とか接客も駄目か。感じやすいから人と接すると傷付くもん。あっ、私何の仕事もできないや」

 栞はチワワに対し驚いたように目を見開く。

「唯都くんは目標があるんだね。将来お店を持ったらさ、パスタに目玉焼き載せて出してね」

 栞は僕の方を見て微笑を湛える。栞は僕の志望している仕事を知っている。ホワイトデーのときに渡した手紙に書いたのだった。僕は高校を出たら調理師の専門学校に行こうと思っている。卒業してどこかのレストランに就職して、資金が出来たら自分の店を持ちたい。料理なら嫌いじゃないし、栞にご飯を振る舞ううちにこういうのを仕事にできたらいいと考えるようになった。会社勤めが嫌だというのもあるけど。

「僕の場合、自己欺瞞だよ」

 栞は僕の手を握った。僕は握り返す。こういうとき、栞は女の子らしい反応をする。頬を染めて俯く。口では偉そうでもしおらしい面がある。しおらしい栞。僕はこういう栞が結構好きだ。

 僕らはペットショップを出て一階をぶらぶら歩いた。途中で文房具を買ったり、コーヒーショップに行って試飲をしたりで時間を過ごした。帰り際、花屋の前を通過した。

「花壇に何か植えたかったな」

 栞は後ろ髪を引かれるように花に目を流していた。僕は上着のポケットに手を突っ込んで聞いていた。

「引っ越すから?」

「引っ越したら唯都くんと同じでマンションに住むからね。花壇にはもう植えられないの。プランターかなー。写真送るからさ、何植えて欲しいかリクエストして」

「梨か桜」

 栞は頬を膨らませて睨む。

「……あ、住所決まった?」

「後で教える。私は今でも引っ越しに反対だけどね。土曜日に一度新しい家見に行くよ」

 僕は頷いた。出入口の二重の自動ドアを通過する間、栞の手に握られたポップコーンの袋が前後に揺れていた。僕はバス停に歩を進め、栞は半歩遅れて付いて来る。

「なーんか、物悲しいのは私だけ?」

 栞はバス停に着くと三人掛けのベンチに腰掛けた。西日に全身を晒し、むすっとしている。

「ああ。さしずめ長期休み終わりの気分だ」

 僕は突っ立ったまま答える。栞も僕も夕陽を見ている。視界の下では車が忙しく通行するのに太陽は堂々その巨体を据えていた。

「寂しい」

 栞は呟いた。返事を期待した言葉ではないだろうから無理に何かを言うことは無い。僕らは一人でその寂しさを噛み締める。昔の人ならこの気持ちは「あはれ」と述べるとこだろう。無性に切ない。何の作用だろう。

「スズメさん」

 栞が足元を指差す。アスファルトの上には三羽のスズメが集っていた。冬用のモコモコした毛をいささか残しているが、身軽に跳び跳ねてじゃれ合っている。栞が無言で忍び寄ると三羽は飛び立って行った。もしかして素手で捕まえようとしていた? 栞は打ち損ねたファールボールを眺めるような顔をする。

「野鳥は自由に飛べるから捕まえようったって上手くいかないよ」

 僕はスズメの行方を見守ろうと思ったのだが、簡単に見失ってしまった。

「私は鳥ほど自由にはなれないな」

 栞は再びベンチに座ることはなく、僕の隣に寄り添って立った。老人が何人か集まって来ているので席を譲ったのだろう。

「鳥って自由すぎる。人間は前後左右に動くでしょ。でも鳥は飛べるから上下にも動けるの。平面か立体か。凄い違いがあるじゃない? どこから飛んで、どこを通って、どこに着地するか、全部自分で決めるなんて大変そう。もし私がそんなに選択肢を渡されたら戸惑って動けなくなる。自由はほどほどにしないと」

 栞は悲しい目を夕陽に向けた。僕は何も言わない。こういうときは無言でもいい。「沈黙は金」という言葉がある。僕はあんまり静かだと何か話題を探さなくてはと焦ってしまうが、たまになら無言の時間は大切だと思う。金とまではいかずとも、銅くらいの値打ちはあるだろう。今も沈黙は寂しさを慰めんとする力を持っている。

「唯都くん、バス来たよ」

 僕たちは最初の乗客としてバスに乗り、後方の二人掛けの席に座った。他の客は数人しかおらず、空席が目立った。オレンジの光と黒い影が車内に射し込むこともあって、余計寂しさが引き立った。

「唯都くん、相談」

 栞は僕の肩に頭を乗せた。僕は窓の外を眺めている。

「明日学校に行こうと思う。教室に行く」

 僕は弾かれたように顔を上げる。また戻す。

「栞がもし本気で言ってるなら止める。栞はわざわざ傷付く方法を採る必要は無い」

 栞が何を思うのか、僕には想像できない。

「あのね、最後だから唯都くんと出逢った教室で同じ時間を過ごしたいの。たぶん来年度はここにいない。最後だから」

 僕は道路の脇に生えた菜の花を発見した。

「一緒に学校で楽しい思い出作ってさよならする。サヨナラホームランだよ」

 口では笑っておく。

「好きにするといい。栞に危害が加わるようなら僕が守る。どうしても行くなとは、うん」

「ありがとう。だけど、勇気が要ることだから一つお願いがある。聞いてくれる?」

 僕は「もちろん」と言う。

「登校する前に公園でお話してから行こう」

 公園と言ってもすぐにはわからなかった。

「学校近くの公園でお話したでしょう? あのとき、『親友』がいなくなって失意の私は唯都くんから元気を貰った。覚えてるかな?」

 「うん」と答える。僕も九月のあの日は栞から元気を貰った。

「だから公園で待ち合わせ! わかった?」

 栞は僕の頬をつついた。「わかんない」と言った僕に対して栞は笑う。

「仲良くお手て繋いで学校に行くの」

「頭おかしいんじゃない?」

「頭おかしいよ。唯都くんも羞恥心なんてポイしちゃおう」

「僕は二年生になっても同じ学校に通うんだ」

「私は恥ずかしいっていう感情は捨てたよ。特に唯都くんが相手なら恥ずかしいこと一つも無い。唯都くんに見せてないのは裸くらいだし。何なら裸見て帰る?」

「栄養失調の身体なんて見たくもない」

「最低。しおちゃん泣いちゃう。リスカしよ」

「そういうことを公共交通機関の中で言うな」

「ふん、何も恥ずべきことじゃないわ」

「少しは反省しろ」

「反省しすぎた結果だよね。私が気違いになった原因って」

 何とも言ない。言い忘れていたことがあった。

「栞、〈天国〉ってどういう所か知ってる?」

 栞は「何の話?」と驚く。

「『もし天国を造り得るとすれば、それはただ地上にだけである』。また明日会おう」

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