2月21日

 僕はリビングに敷かれた布団の脇で本を並べていた。今日は木曜日だったと思う。すっかり曜日感覚も時間の感覚も失って、もう午前八時だというのにのんびり生きていた。

 学校には丁度一週間前の十四日以来登校していない。僕はその日帰宅して発熱したが、インフルエンザだと診断された。翌日に母に付き添われて近所の診療所に行き、検査を受けたのだ。確かインフルエンザA型だった。その後は処方された薬を飲み、家で安静にしていた。現代の医療は優れたもので、小さな容器に入った粉を吸引すると翌朝には熱がすっかり下がり、快方に向かった。学校に再登校できるようになるには、最低で発症から五日後かつ熱が下がってから二日後だったと思う。その間は出席停止である。僕は土曜日のうちに熱が完全に下がったので、火曜か水曜から登校可能になるはずだった。発症した木曜は含むのかどうか知らない。

 しかし月曜日の午後に学校から連絡があり、今週いっぱいは学年閉鎖になった。週明け、学校でも多くのインフルエンザ患者が出たらしい。病み上がりだから勉強する気は一切無いのだけど、結果的に学年末考査の前に長めの休みを得ることができた。休みではあるが熱が下がるまでは地獄を見たから純粋に楽しんではいない。どうせ学級閉鎖なら僕はわざわざ寝込まなくても良かった。でも十五日、金曜日に休めたのは幸いだ。学校に行って帯刀と会うのは辛かった。こうして一週間ほど間隔が開けば、ほとぼりも冷めて謝りやすくもなるだろう。

 ところで僕は健康体に戻っているのであるが、布団の上で座っているのはなぜかというと、ひとえに母の心遣いである。母は一番暖かいリビングに僕を置いて布団も持って来たのだが、熱が下がっても体力が回復するまでは寝かせておく気らしい。両親は放任主義なのだが、久々に僕が病気をした今回は大変心配を掛けた。母は翌日仕事を休んで病院に連れて看病したし、父は帰りにリクエスト通り文庫本を何冊も買って来た。かなり甘やかされた。だから胸焼け気味というか、もうそろそろ学校に行きたい。今朝の母なんてこんな調子だった。

「じゃあ大丈夫ね?お昼は冷凍庫に牛丼入ってるからチンするのよ」

「うん」

「おかずは冷蔵の方にあるから。唐揚げ食べていいわよ」

「わかった」

「おやつはね──」

「適当に食べるよ」

「それじゃ、気を付けてね。あんまり無理して起きてちゃダメなんだから」

「はい」

「勉強もできたらするのよ」

「うう」

「あんた進級できないとかやめてよ。ああ、寒かったら畳んであるタイツとか穿きなさい」

「うい」

「穿かなくて大丈夫?」

「ん」

「洗濯物だけよろしくね。ねえ、今日寒いかも─—」

「わかったよ。穿きます」

「はい、行ってきます」

「行ってらっしゃい」

 それが一時間前。その後、僕は自室から本をたくさんリビングに運んで来た。これは最近父が僕の部屋の本を増やしたためである。父としては今までろくに勉強もしなかった息子が急に読書に熱中し出したのが嬉しかったのだろう。僕としては本を買ってもらえるのは願ってもないことだ。が、本棚に入らなくなった。床に積み上がったために一部は押入れに入れなくてはいけない。そこでリビングに本棚にある全ての本を広げている。棚に残す物を決めるドラフトである。こうして見ると、年代ごとに何を読んだか意外と覚えているのがわかる。僕は一つ一つ懐かしく思って開いていった。こうして見ると僕はずいぶん節操が無い。邦書に洋書。短編、長編。平安文学、聖書。SF小説に実用書。詩集から戯曲まで。まあ、僕に思想の統一がある訳が無かった。

 スマホが鳴った。電話の音はいつも僕を焦らせる。立ち上がってソファー前のテーブルに寄る。音源であるスマホを手に取る。画面を見て狼狽した。「しお」──帯刀だった。既にスリーコール。僕は迷っている。手が汗ばんでいる。目線を上げると去年買い替えた真っ白のエアコンがあった。用件は何だろう。

「もしもし」

『もしもし、栞です。唯都くんですか?』

 帯刀の最初の発言はそれだった。ケータイ同士なので相手はわかりきっているが、形式的なものだろう。「うん」と答えた。

『唯都くん、インフルエンザだって聞きました。体調はどうですか?』

 落ち着いた声音が僕を困惑させた。

「A型でね、熱が上がってまあまあ苦しんだよ。死ぬと思った。はは」

『もう良くって?』

「うん。食欲がいまいち戻らないけど、他はすっかりいい」

『相談があります』

 帯刀は滔々と喋っている。気味が悪かった。

「何で敬語使ってんの?」

『……怒ってるでしょ?』

 また変な気を起こしたのかもしれない。科白調に話すのが好きな子だから。

「正直病み上がりですっかり毒気が抜けてる。普通に話してくれ。無駄に頭使いたくない」

『……あ、そう。お願いなのだけど、今から唯都くんの家に行ってもいい?』

 僕は首を傾げてしまった。また厄介事を持ち込むつもりらしい。しかし怒っているであろう相手の家に乗り込むなんて、何を考えているのか。僕はベランダの外に目を遣った。いかにも冬らしい、からっとした晴れだった。

「来てもいいけど外には出たくないな」

『いいの。話がしたいだけだから』

 話と言われて何があるのか思い浮かばなかった。帯刀が続ける。

『もしいいなら、十時頃には伺う』

「構わない。家で待っていたらいいね?」

『よろしく』

 僕はそれで切った。ソファーにのろく腰掛ける。心が軽かった。帯刀と再び顔を合わせるのはもう少し後で、痛みを伴うものと決めつけていた。すらすら話せたことは良かった。だが、これから帯刀がどんな行動を取るか予想がつかないのはひどく不安である。もし帯刀がこれから絶交しようという提案をしようものなら僕はどう返答すれば良いか。難しいことはない。僕は帯刀の手紙を読んで、やはり帯刀と関係を絶つとは思えなかった。謝ろう。何か納得できないことがあるなら擦り合わせてみようと思っている。大丈夫だ。

 僕はスマホをテーブルに戻す。横には最近再読し出した文庫本がある。『歯車』である。『歯車』には帯刀のくれた──しおりが挟まっている。今更「栞」と「しおり」のだじゃれを恨めしく思う。シリアスな気分でもこれで冷めることがあるのだ。まさに破れたしおりを修復しているときがそうだった。二つに割かれた紙をセロテープでくっ付けたが何度も「栞のしおり」という言葉が頭に浮かんだ。本来悲しい作業だった。しおりは多少分厚くなったが不便はしていない。読書は帯刀のしおりを常にお供としていたから、僕は帯刀のしおりを使うと一番落ち着く。

 あと二時間。寝間着を替えなければ。服を替えても妙にそわそわするので、部屋を歩いては本を整理してまた歩いてを繰り返した。

 インターホンが鳴ったのは十時二十七分だった。僕はエントランスにいる帯刀を通した。玄関を開けて待つと帯刀がやって来る。大晦日のときと同じ茶色のコートを着ていた。表情は神妙であった。

「遅かったね。心配した」

 帯刀は頷くだけだった。まず招き入れる。帯刀はリビングにある布団の側面に正座した。コートは律儀に折り畳んでいて、帯刀らしいと思った。コートの中はニット地のトップスを着て、下にデニムを穿いていると見える。持って来たトートバッグは足元にあった。ちなみに布団が敷かれているのはソファーの横だ。反対側に帯刀が座っている。僕は飲み物の準備をするためキッチンにいた。インスタントのコーヒーを作るつもりだった。

「帯刀、僕は別に横にならなくても平気だよ。ソファーに座っていてくれ」

 帯刀は向こうを向いたまま首を振った。

「コーヒーでいい?」

 帯刀がこっちを見る。

「大丈夫、そんなにしてくれなくていい」

 僕は既に水を入れた鍋に火をかけてしまっていた。仕方なく火は止めて、コップに冷蔵庫から取り出した麦茶を注ぐ。電子レンジで二人分温めた。電子レンジがブーンと音を立てている間、無言なのを気味悪く感じながら待った。タイマーの終了音を聞いてコップを取り、帯刀に一つ手渡す。もう一つはソファー前のテーブルに置いた。

「温めすぎたかも。熱いかな」

 帯刀は頷く。僕は帯刀に座布団を渡した後、なんとなく布団の上であぐらをかいた。帯刀は本を揃えて重ね、除けていた。

「本がいっぱいあるね」

 帯刀は麦茶をすすろうとして熱くて諦めて、そう言った。帯刀もテーブルに置いた。

「今、本棚の整頓中なんだ」

 帯刀はおもむろに何冊か拾い上げ、眺めたと思ったら床に戻した。

「今日はどうしたの?」

「ああ、唯都くん。体調は良さそうだね」

 帯刀は微笑を作った。よく見ると目元に隈が染み付いていた。

「まあ、学校には行けそうだ。テストだから行きたくはないけど」

「本当は金曜日からテストだったからね。一日の教科数増やして来週に押し込むって」

 テストは来週からじゃなかったか。金曜日にもあったのか。

「知らなかったの?」

 帯刀は自然と笑顔を見せた。少しでも柔らかく笑ってくれないと話しづらい。帯刀はどこか重たい雰囲気を出していた。

「心配だったの。唯都くんが学校来ないのが自分のせいかなって。それもあるのかな」

 帯刀は膝の上で手を組んで俯きがちに言う。僕は苦笑した。

「それは無いよ」

 僕はそろそろ冷めた頃合いだと思ってお茶をすすった。飲めない熱さではなかった。

「本題に入って。言いたいことがあるんだね」

 帯刀はしばらく髪を触っていた。切り出せないといった感じだった。

「……まずは、仲直りしたい」

 帯刀は小声で言った。仲直り──これには拍子抜けした。わざわざ訪問するまでもないことだ。何なら僕はさっきの電話で謝ろうかと思ったくらいだ。

「私は興奮してたんだと思う。良くないことを言った。到底許されないことをしたね。美海ちゃんにも謝りたいけど、たぶん聞いてくれない。それは唯都くんも同じかもしれない」

「違うって」

「だから許してとは言わない。でも謝りたい。本当にごめんなさい。申し訳ありません」

 帯刀は頭をすんなり下げた。ばつが悪い。

「僕だって申し訳ない。顔上げて」

 声を和らげて言うと帯刀はその通りにした。

「……ありがとう。唯都くんは優しいね」

 手紙と同じ言葉を使う。僕に優しいなんて言葉を与える人間は帯刀くらいだった。

「用件はそれだけじゃないよね?」

 僕は帯刀に尋ねる。帯刀が謝罪のためにだけ来る訳は無い。帯刀は峻巡していた。

「……告白しに来た」

 帯刀はそう主張した。僕は困惑する。

「愛の告白ではない?」

 帯刀は笑顔を作る。

「ごめん。違うの。これは唯都くんにずっと秘密にしてきたこと。二つある」

 帯刀はいくぶん調子を回復したようで、徐々に話のテンポが戻ってくる。

「一つは過去完了形。もう一個は現在完了形。あっ、現在完了っていうのは英文法上で。日本語的には現在進行形かな」

 その違いがピンとは来ない僕はやはり赤点候補生かもしれない。

「唯都くんは、なぜ私が美海ちゃんと言い争ったか知らないでしょ? 同時に私がなぜ唯都くんと一緒にいるか知らない。それに関する秘密があるの」

 確かに帯刀と西川さんは何か共通の事項について話している様子だった。その原因は結局明らかになってない。また、帯刀が僕と一緒にいることに理由があるとは考えていなかった。僕と帯刀は落とし物がきっかけで偶然話すようになったのではなかったか。僕は帯刀の言葉を待った。

「さっき言った通り、二つお話があるの。過去完了形のお話からしてもいいかな?」

「……任せる」

 僕は麦茶を飲んだ。帯刀も一口飲んで喉を潤した。

「これは私が中学生のときのお話。聞いたこと無いって前は言われたけど、意識的に話してなかったの」

 元日、確かにそんなこと言った。

「今から話すことを簡単に言うとね、私の『親友』がいじめを受けてた」

 意外な話の展開だった。

「あの子──」

 帯刀の声が途切れる。思案している風だった。

「──のためにも本名は出さない。『親友』って呼ぶことにする。私には親友がいたの。一年生で入学したて、クラスに友達がまだ少ないとき、隣の席だったのが『親友』だった」

 僕は頷く。

「『親友』は活発な女の子だった。背が高くて手足も長くて、声は大人びていて表情がはっきりしてて、私の憧れだった。陸上部で運動が得意だった。勉強は私の方がちょっとできたけど。そうね、私が授業中教えてあげたときが初めての会話だったかな」

 帯刀の思い出話というのはわかる。これからこの親友がいじめられるのもわかる。わからないのはこの話が僕とどう関係してくるかということだ。部屋は帯刀の声以外大した物音もしていない。

「私たちはすぐ仲良くなった。今までの友達よりずっと仲良くなれた。休日も二人でお買い物行ったりした。二人で会うって本当に仲良くないとできないよね」

 例えば僕が高校に入ってから休日に会ったのは帯刀と西川さんだけだ。帯刀の方はどうだろう。僕はその一人で、そう言えば彼氏がいたのだからそいつとも出掛けただろう。

「クラスの皆からも『親友』は好かれてた。人気者だったんだ。気さくで分け隔て無く接することができた。私は人見知りするから、『親友』のおかげで友達が増えたんだ」

 帯刀が「親友」に素直な羨望を抱いていることが伝わる。

「転機は一年生のときの文化祭かな。クラスで劇をやったんだけど、そこでちょっと揉めた。女子にもグループがあってさ、私や『親友』は……何て言ったらいいかわからない。行事には真剣に取り組んでたし、皆で楽しもうって感じのグループ。ごめん、わかんないよね」

 僕は苦笑。

「もう一方のやる気ないグループの子たちとか男子が劇の練習をちゃんとしなくて、『親友』は注意したの。で、確かに協力してくれるようになったんだけど距離が生まれた。『親友』は疎まれても明るく振る舞ってさ、何とか本番も上手くいったのね。だけどそこから少しずつ逆風が強くなっていった。『親友』はいい子だから先生たちに好かれるの。男子にも同じ。一層女子のひがみや反感を買ってた」

 帯刀は声を平淡にしようと努力しているようだった。

「二年生になってからは一部の女子に無視されていた。半数くらいかな。だんだん友達が減っていった。だけど私は二年生のときも『親友』の味方だった」

 帯刀は自分の手を握ったままだ。

「私は三年間『親友』と同じ組だった。三年生かな、ひどく悪化したのは。クラスの男子も含めて全員が無視した。『親友』は私しか話せなくなったけど、常に笑顔だったよ。あの原動力は何だろう。私には悲痛だった。同じ塾だったから塾ではずっとお話してた。でも学校では話すと周りの目が気になった。クラス全体でいじめてたんだね」

 僕はどう反応するのが正解か。

「一番嫌な思い出は体育祭。九月十六日土曜日だった。はっきり覚えてるね。体育祭の中身はそんなに覚えてない」

 帯刀は麦茶に口を付けた。

「体育祭が終わってから打ち上げがあった。私はクラスの子から誘われた。美海ちゃんの店に行ったんだ。貸切りだったらしくて、そこにクラスの皆が集まって他にお客さんはいなかった。私は端っこに座ってた。だけどよく見たら『親友』はいないの。配膳してた美海ちゃんに何でいないのか聞いた。あ、えっと、美海ちゃんと私は同じクラスだけどあんまり話したことは無くって。でも話すとなれば普通に話してたよ。私のことまで避ける人もその頃にはいたけど、美海ちゃんは違った。美海ちゃんはうるさい子に付いているだけ。金魚のフンだった。それでね、美海ちゃんは『誘ってない』って答えた。クラスの女子の間で『親友』は誘うのはやめようってなったんだって。私が『親友』呼ばないなら帰るって言ったら『次からしおちゃんまで呼ばれなくなるから我慢した方がいいよ』って言われた。だから残った。悔しかったよ。何も食べる気は起きなくてただ隅に座ってた。適度に時間が経ってから静かに帰った」

 僕は帯刀に罪人の感を見た。

「翌日、十七日は私の誕生日なんだけど知ってた?」

 帯刀は僕を直視する。このとき僕は帯刀の真意が思い付かない。誕生日なんて気にしてなかった。帯刀は再び目線をあやふやにする。

「誕生日だからってね、『親友』が私の家までわざわざ出向いてプレゼントくれた。毎年贈り合っていたから驚きではなかったんだけど、私は前日に裏切ったから心苦しかった。『ずっと友達でいようね』ってメッセージカードにあった。健気な『親友』に比べて私は薄情だった」

 僕は帯刀を見ることができない。

「馬鹿でしょう? 私は自己保身のために手段は厭わなかった。『親友』は私とは違う。あの子、学校はあと一年も無いから頑張って行くよって言った。辛くても前向きだった」

 帯刀は「親友」に劣等感を抱いている。

「次の日から絶対クラスの空気に負けまいと思った。『親友』と教室でもたくさん話した。修学旅行でも一緒にいた。でも貫けなかった」

 帯刀は唇を噛んだ。

「私の上履きが無くなった。ペンケースが水道でずぶ濡れだったこともある。私まで無視する人が増えた。そして十一月。放課後、塾終わりで帰っていたとき、公園で集まるクラスメイトに会った。結構騒がしいグループで積極的に『親友』をいじめてた人たちだった。公園の端には美海ちゃんとかもいた。美海ちゃんは見てるだけだった。私は咄嗟にその場から逃げようとしたけど、無理だった」

 帯刀はここで自嘲する。僕は、帯刀が酷い目に遭っていると聞くだけで静かに憤慨している自分を知って安堵した。

「もう『親友』とは会話するなと恫喝された。私は拒否した。頑固だったから彼女らの逆鱗に触れた。スマホや財布を盗られた。私は『返して!』って言った。でも返してくれなくて。言うことに従えって言われた。私は散々抵抗した挙げ句『その通りにする』って答えなくちゃいけなかった。悔しくて涙が出た。それでも言い掛かり付けて私を許してくれなくて、終いには土下座した。泣きながら何度も『ごめんなさい! ごめんなさい!』って謝ったよ。蹴っ飛ばされたり、スマホの写真を皆で見られたりしていても。私は無様にも泣いて謝ってるのに何で終わりにしてくれないかわからなくて怖かった。……そういう態度があの人たちを図に乗せていたんだと思う。服を脱げとも言われたけど断った。そしたら流石に可哀想って言われて解放された。財布やスマホは返してもらえたけど、財布の中身、お札だけかな、は返してくれなかった。おうちでいっぱい泣いた」

 僕は歯ぎしりをする自分を見つめた。

「その次、学校に行ったとき、私は『親友』が笑顔で話し掛けてきたのを無視した。でも『親友』は私が無視してるのを知りながら笑って話を聞かせて、くれた……」

 帯刀は喉を絞められたような声を出す。胸の前で手を潰さんばかりに握っていた。

「私は塾で『親友』に弁解した。謝ったら、『大丈夫、学校では話すのやめよう』って。『栞が辛い思いしてたら嫌だもん』って。私は酷い人間」

 僕は自分がここにいることを呪った。僕では帯刀の全ての感情を受け止めきれない。

「私へのいじめはあんまり無くなった。受験も近付いていたからだと思う。『親友』も無視されるくらいで済むようになった」

 帯刀は後悔をしている。罪悪を感じている。

「『親友』は西東京の有名な高校に受かった。恐らく唯都くんもよく知ってる高校。遠くに引っ越したの。私は県内の高校にしたから『親友』とは別れた。寂しかったけど良かったと思う自分もいた。『親友』に顔を合わせると胸の痛みを思い出して苦しかったから。何度も裏切った気持ちがしていたし。卒業式は周りの目なんて気に掛けなかった。だってもう他の下等な連中とは会わないんだもん。ならもっと早くそうすべきだったと思った。私はそういう意味でも失敗した。最後、校門を出るとき『親友』とは笑顔で終われた。けれど、あの一言が私の心に突き刺さった。『栞が友達で良かったよ。でも学校辛かったな……』だって」

 僕は言葉が出ない。

「それで過去完了のお話は終わり。私は高校に進んで『親友』とはスマホで少し連絡を取るくらいになった。高校では新しく友達ができて、好きな人もできて、初めて彼氏も作れたから傷は癒えていってたな」

 僕は今になって彼氏という発音が耳に障った。現実に意識が引き戻されて、表情で応答することを思い出す。

「次は唯都くんも出て来る現在完了のお話。まずは九月一日。私の『親友』が自殺した」

 ???

「二日にラインが届いた。『親友』のアカウントから『親友』の両親が私に送ったものだった。内容は『親友』が一日に自殺して、遺書が残っていたこと。遺書では私に感謝の言葉を述べていたこと。お葬式は身内ですることだった。私は信じなかったあ!」

 帯刀が絶叫する。

「事実か確認したけど両親はそれきり。せめておうちに行ってお線香上げたいから住所教えてくださいって言っても拒否するの。私はあの子の無念も知らされない。泣いた、号泣した。そして、私はおかしくなっちゃった」

 帯刀は早口でまくし立てる。腹から沸いて出るような笑いをこぼした。

「何で死んだのか考えた。卒業して五カ月。中学時代のいじめから解放されてしばらく経ったのに死ぬなんて。じゃあ高校でも辛い目に遭ったの? 『親友』のそんな悩みは聞いてなかった。夏休みに私の家で泊まりがけで会ったんだよ。自殺を仄めかす発言はしてなかった。だからわからない。自殺の引き金なんて一つじゃない無い。たくさんの絶望の複合でしょ。きっと『親友』はいじめの傷痕が痛かった。いじめを許した社会が憎かった。そこで生きるのも嫌になった。自分のせいで家族に迷惑もかけたはず。あの子は全部自分で背負ってしまう傾向があった。自分が変われば周りも変わってくれると思ってた。原因は他にもあったと思う。私という親友に裏切られたこともそうでしょ? それで私決めたの」

 帯刀はトートバッグに手を入れる。そこから包丁を二本、僕の前に置いた。帯刀の手は明らかに震えていた。

「私も自殺する」

 包丁は一般家庭にある普通の型だった。両刃とも新品らしい。

「自殺の方法は刺殺にした。一番簡単だと思ったから。高所から飛び降りると脳髄が飛び散るでしょ。縊死は糞尿が垂れ流しになるって。電車に飛び込むと肉片がバラバラに散って、電車を止めるから遺族には賠償請求される。経済的にまで迷惑をかける道理は無い。水死は遺体がぶよぶよにふやける。薬は……できたかもしれないけど万一助かったときに精神が破壊される可能性があるのが恐ろしい。刺殺が順当だと思った。当日には実行しようとした。でも失敗した。案外怖くて刺せなかった。そこで気付いた。誰かと一緒に死ねばいい。心中しかないって」

 帯刀には窓から注ぐ日の光が正面から降りかかっていた。その姿は畢竟聖人だった。

「三日」

 その日、僕は帯刀に逢う。

「飛び込み損ねた私は唯都くんを電車で見かけた。彼は物静かできっと自分の世界を持っているんだと思っていた。逆に言えば引き込みやすい。彼を利用するしかないって思った。話すきっかけは本当に偶然だった。私がスマホを拾ってなかったら大変だったね」

「ま、待って」

 僕は久々に声が出た。

「最初から僕を心中相手として見てたの?」

 帯刀は不気味な笑顔を見せる。

「朝ごはん食べよって誘ったときはそう思ってた。上手くいくかなと話す前は思ってたけど期待外れだった。想像より彼は自己が強かった。単に自殺しようって口説き落とすには難しそうだと思った」

 帯刀は僕をはっきり見る。

「簡単にはいかないかなーって、方針転換。私に恋愛感情を持たせて依存させようと思った。成功したか否かはわかるよね」

 してない?

「誕生日、彼氏が部活だって言って遊んでくれなかった。ま、飽きられてるってわかってたから代わりに唯都くんを遊園地に誘った。あれは良かったね。何より私が寂しくない。唯都くんの反応を見て、これは成功すると思った」

 僕は無邪気に楽しむ帯刀の姿が脳裏に焼き付いている。遊園地に行った日が誕生日だった? 彼氏は帯刀を見捨てた?

「失敗だった。唯都くんは想定以上に優しかった。これが皮肉ってわかる? 友達がすぐ出来て女子たちにも好かれて、私もいつの間にか心を許していた。馬鹿な話たくさんしたでしょ。『親友』との時間くらい楽しいって思う自分がいた。情が移って心中の提案なんて到底できなくなったことに気付いた。私のその後の凶行は知らないでしょう?」

 その後?

「唯都くんの家に行ったね。パスタを私に任せた。睡眠薬入れたの気付かなかった?」

 睡眠薬?

「砕いて目玉焼きの下に入れておいた。飲み薬だったから効くのかは微妙だった。効かなくてもそれはそれでいいやと思って丁半博打に出たの。眠ったら私が唯都くんを刺し殺す計画。刺し殺したら、後戻りできないじゃん。刺したあとに自分も刺すの。こういう同意の無い心中に方針転換した。今度こそ成功だと思ったね」

「どうして、そこまで」

 僕はいきなり質問を挟んだ。自分でも発声するタイミングがわからない。緊迫を肌で感じて、相槌も忘れているのに。

「だって、その頃には全く眠れなくて。『親友』が私を恨んでるって思うと辛い。それは今も同じ。私も含めていじめたやつらが生き延びている事実が憎い。何をしても『親友』が取り戻せないことを思うと胸が潰れる。謝っても謝っても許してもらえない。生き地獄なの! 毎日毎日『親友』のことを考える。楽しいときでも『親友』の苦痛を思い出す。毎日『親友』が夢に出る。私は死なないと解放されない。一生許されない。死ぬまで『親友』の呪縛に遭う。誰も助ける術を持ってない。ややもすれば発狂しそうだわ! いやもうしてるかもしれない。来る日も来る日も脳に私のせいと刻み付けられているのだから」

 帯刀は瞳孔を開いたまま僕を覗き込む。

「それで、唯都くんは眠った。それが薬の効果なのかどうかわからない。でも私は実行の機会を得た。結果は知ってると思うけど、できなかった。なぜかわかる? 私が拒否したの。包丁すら持てなかった。そこから動かなかった。私のために唯都くんを殺すのが嫌だった。何度も言うように私は馬鹿。私が唯都くんを依存させるつもりが、私があなたに依存してた」

 帯刀は寂しかった?

「私は弱かった。私の心は誰よりずっと脆い。それは中学時代を思い出せば簡単に導き出せることだった。私は『親友』に依存してた。同じように、自己が強くて他人に優しいあなたに依存し出していた。そんな自分を見つけるのも嫌! 私は『親友』の居場所に向かうんじゃなくて代わりを探していた。『親友』はこっちの世界に愛想を尽かして、自分の好きな場所に飛び立ったのに。私はこの醜い世界にしがみついたままだった」

 その後、帯刀は寝ていた。

「失敗を悟って泣いた。独りで泣きながらソファーで眠った。唯都くんは悪夢と闘う私を起こしてくれた」

 悪夢?

「唯都くんが彼氏に見切りをつけたことを辛かっただろって問うた。痛かったよ! 心中するなら彼とがいいって思えなかったんだもの。彼は月並みな人間で、彼の方が落としやすかったかもしれない。でも私は嫌だった。彼には私の痛みは理解できない。じゃあ唯都くんならできた? 私はそう思ってたの? なら嫌だ。唯都くんに慰めてもらえて嬉しかった自分が嫌い! 本当は全部打ち明けて泣いて、大丈夫って言って欲しかったなんて思いたくもなかった! だから、唯都くんまで殺さないと。唯都くんまで死ななきゃ私は死にきれない」

 楽しくなかった?

「大晦日、もう一度誘った。ここがラストチャンス。年内に殺してしまおうと思った。だって自殺を決意してから四カ月。ずっと悩むだけ。私の精神もズタボロ。涙はもう枯れきった。私は打ち明けようとした。経緯を説明して籠絡しようとした。だけど、先に唯都くんの話を聞いた。唯都くんもいじめていじめられてた。驚いた。私と同じような思いをした人が平然と生きてたことに。私が初めて会話したときには既にそんな経験をしてたんでしょ。そうは見えなかった。私は逆。弱い所も度々出してた。それと並んで嬉しかった。自分の苦しみを唯都くんは理解できる人間だった。そんな人を選べていた。友達になれた。これは私の醜い面。死ぬのにそんな関係は要らない。非情にならなければ駄目なの」

 帯刀は感情に溢れていた。

「そうだ。美海ちゃんのこと。美海ちゃんの店に行ったのはわざとだから。あの子はいじめを助長する一要素だったから、最期に報復してやろうと思ったの。寝る前に電話掛かって来たじゃん? あれを認めたのは唯都くんには明日が無いはずだったから。結局それで後悔するんだけどね。年が明ければ美海ちゃんに心が移って私から離れた」

 帯刀は本当に殺そうとした?

「私は唯都くんが眠った後にベッドの下に隠しておいた包丁を取り出した。結果は知れてるね。もう無理だったんだ。私はそれを確認しただけだった。泣いちゃった。そしたら唯都くんに涙を見られた夢を見た。唯都くんは味方だって慰めてくれた。私は唯都くんに……夢のことなんか言ってもしょうがないね。朝、ベッドの隙間に落っこちて起きた。馬鹿だね。現実でも唯都くんに近付こうとして落ちたみたいでさ。包丁を拾って朝ごはん作りに行った。アルバムを見て笑ってる『親友』を見て馬鹿らしくなった。不思議と気持ちが楽だった。もう目的は達成されそうにないってわかったから。その日唯都くんは一段と優しかった。ご飯も美味しかった。もう死ななくていいや、忘れちゃおうって思った。でも唯都くんが帰った後、ひどく寂しかった。そして『親友』の影を感じた。『親友』が自殺したって事実がある限り、唯都くんと一緒にいない間、私は苛まれる。私は先が見えなくなった」

 僕は裏切った?

「唯都くんは美海ちゃんに盗られた。私の心は独りぼっちに戻る。苦しかったよ。『親友』の声が助け舟を失った私の脚を地獄へ引きずり込もうとしてる風に感じた。今度は本当にラストだって思って、多少自暴自棄になって唯都くんにチョコを渡そうとした。そしてこの前のことがあった。悪いと思ってる。私は私の目的を遂行したかっただけで、唯都くんの人間関係まで壊すつもりは無かった。美海ちゃんを傷付けたのは謝る。あれは感情的になっただけ。本望ではなかった。唯都くんを取り戻そうと焦ってたんだ。またしても失敗した。ついには唯都くんに嫌われた」

 嫌われた?

「皮肉にもそれで絶望できた。それで今日、これを持って来たんだ」

 目の前には包丁が二本。

「唯都くん、ここまで聞いてもらった上で私はもう一度言うね」

 何を?

「私は自殺したい。私と心中してください」

 帯刀は頭を下げた。柔らかい髪が下垂れる。

「絶対に嫌だ。その願いは聞けない」

 僕はそう返答した。正しい選択だった。帯刀は微笑んだ。綺麗な笑顔ではなかった。

「そうだよね。駄目で元々だもん。言うならいつが一番良かったかな。失敗した。じゃあ、私を殺してって言ったら?」

 僕は首を横に振る。

「殺人、放火、強盗、強姦は日本の刑法において特に重罪だ」

「……どうしよっか」

 帯刀は縮こまって溜息を吐く。

「馬鹿でしょ? こんな人間。私なら真っ先に軽蔑する。奇しくも五ヶ月弱が経った。我慢の限界に達して話した。それで失敗。馬鹿みたい。何のために生きてきたんだろう」

 何のために?

「無駄だったね。何もかも。唯都くんが一番無駄遣いだったね」

 無駄? 違うだろう。死ねなかったんじゃない。生きられたんだ。

「私がいなけりゃ美海ちゃんともっと早く付き合えてた。私は邪魔さえした」

 僕はなんとか違うんだと言おうとした。

「違うよ。僕は帯刀がいたから、帯刀が僕に」

 上手く言葉が紡げなかった。帯刀がこんな状態でも正常に話しているのは、話すことをあらかじめ決めているからだ。

「私は自殺のつもりが無ければ唯都くんに話さなかった。その方がお互い幸せだったね」

 僕は自分の気持ちを言葉にできないけどそれは違うと思った。

「違うよ」

「え? だって唯都くんは美海ちゃんが好きなんじゃないの?」

「でも違うって。帯刀を、僕は信頼していた」

 帯刀は驚いて眉をひそめた。

「唯都くんは前から美海ちゃんが好きだったんじゃないの? どういうこと」

「前からではない。帯刀に会ってみろって言われた後、二人で会ってからなんとなく」

「その前は私に恋愛感情持ってたの?」

「!」

 それは違うと思った。けど全く的外れでもないとも思う。上手に表現できないが、ある意味で核心を突き、ある意味では全てを表していなかった。

「え、え、何それ」

 帯刀は困惑している。違う。

「私には彼氏がいた。私は唯都くんを異性として見てなかった。勘違いしてないよね」

 してない。

「唯都くんは端から私を殺すための道具でしかなかった」

 道具? 嘘だろ、馬鹿か。

「そんな言い方ないよね? 僕に依存してたって言ったのは君だ。少なくとも友達だ」

 帯刀は否定する。

「私は生死の狭間にあって、極限状態だったから近くにいた道具にさえ情が移ってしまっただけ。平生の私なら唯都くんみたいに気持ち悪い男子と絡む訳ないじゃん」

 僕を扇動してるのか? そのはずだ。帯刀は悪人を演じようとしているのだ。僕を激昂させ、殺害に導こうとしている。それとも本当に狂ったのか、この女は。

「なんだ! 唯都くんを落とすのには成功してたんだ! 唯都くんは私が好きになったけど、彼氏がいたから我慢してたのね。自分が私のタイプの男じゃないって知って仕方なく友達を詐称してたんだ! 気付かなかった。惜しいことした!」

 狂ってる。声がでかい。耳障りだ。

「そっか。と言うことは肩に寄り添ったり、膝枕したり、手を繋いだり、おんぶしたのは満更でもなかったのね! 面白い、私なんかに情動を感じていたんだ。あはは、キモい」

 殺してやろうか、ねえ。

「片想いしてる女の子殺せないよね。ストーカーではあるまいし。唯都くんのこと好きって、さっき言えば良かったね。そしたら心中できたかも。可愛い女の子の言うことは何でも聞く唯都くんだもん! 好きって言われただけで美海みたいなゴミ人間を好きになれる。多少強引に連れ込めば友達の女子宅にホイホイ来る、そうだよね?」

 いい加減にしないと。

「頑張ってキスくらいならしてあげるから、代わりに刺して。そうでもしなきゃ、私とは──いやあ!」

 僕は帯刀の襟を両手で掴んで布団に引き倒した。馬乗りになる。

「何で! やめて、離して! ねえふざけんな! 本当に! 死ね! 離せ。嫌だ!」

 僕は手で帯刀の首を押さえつける。帯刀は暴れる。手足がうるさく動く。これは動物だ。

「ああっ、やだ! 本当に離して、ねえ! 苦しい死んじゃう! やだよ、窒息はやだ! 言ったじゃん、馬鹿にすんな! 何で聞いてくれないの! 許さない! 絶対許さない!」

 僕は無意識に帯刀の気道はふさいでいない。人が苦しいと思うであろう箇所を掴んでいるだけだった。

「うう、ああ! やだやだ! 死んじゃう! ごめん、謝る、ごめんなさい! 私が悪かった、謝るからぁ! 離して、お願いします! 何でもします! 許してください……聞いてっ!」

 帯刀は僕の手首に爪を立てた。僕は反射的に手を離す。よだれを拭った帯刀は急いで退くと、布団に座ったまま僕を睨んだ。僕は、帯刀と向かい合って肩を揺らして息をしていた。僕が?

「わかった? 包丁で私を刺すの。それ以外は絶対嫌だ。わかったら、これ持って」

 僕に包丁を手渡す。幾度となく手にしたもの。だがそれが生命を絶つという目的を持ったのはこれが初めてだった。

「いいよ。心の準備はもうずっと前にできてる。大丈夫、本望だから」

 僕は躊躇わなかった。一思いに包丁を帯刀の腹に──刺さっていない。あと一歩のところ、刃先が帯刀の衣服に差し掛かった。

「……!」

 「生」だった。ここにあるのはまさに「生」そのものだった。もう数センチの距離で人間を殺せる。そのとき見えるものは「生」だ。刺せば壊れるものが刃の先にある。「死」ではない? ──「死」ではある、しかし「死」では全てを説明できない。「死」は「生」の一部分である。「生」とは、命が始まり終わること。「死」の説明は「生」が終わることだ。つまり「生」の中には「誕生」と「死」の過程がある。死は決して「生」と対等ではない。「生」が終わるその瞬間だけを指すのだ。

 生命という秩序を破壊すること、それが今実行しようとしていることだ。僕はそこに「生」を見出だす。普段人は「生」を意識できない。しかしここではできる。「生」という秩序を破壊する。途端にカオスが生まれる。人は秩序を取り戻すため、流血しながらもんどり打つだろう。それこそ「生」の現出ではないか。人が必死に「生」を繋ぎ止めようとする。それが視認できる「生」の有り様だ。僕は人間の精神でもってこれを見たい。知的好奇心である。人間が持つ、神聖なもの。なぜ、なぜ僕は神秘を感じる?

 簡単だ。これこそ、生命が生きる理由だ。何度もなぜ生物は生きるのか、問われてきた。数多の哲学者、いや知性を持つ人間は誰一人漏れずそれを知りたがった。だが簡単ではないか。産まれ落ちてすぐさま命を失った哀れな赤子を見るがいい。彼も生きていた。彼の命は一瞬でも、確かに生きていた生命なのだ。なら彼にもその一瞬を生きる意味があった。それは何か。単純だ。「生」を全うすることだ。「誕生」し、子孫を残し、「死」を迎えることだ。それが生きる意味だ。それが人間が生涯かけて為すべきことであり、根源的な目的であった。あらゆる生物にも、命持つものに共通することはただ一つ、「生」ではないか。生存本能がある。我々人間は他に多くのことを知りすぎた。しかし、人間に必要なことはシンプルではなかったか。誕生し、成長し、生殖し、死ぬ。それを順に達成する、それだけで人間は人間足り得る。生物足り得るのだ。

 「死」は根源的な目的の一部である。人間誰しも死ぬ。誰しも「生」を受けたからには死ぬ。人間に不可避の項目のうちの一つだ。ならばなぜ僕は人を殺す? 神秘を見たい好奇心からか? しかし他の「生」の阻害は目的とは違うのではないか?

 否、人間は自らの「誕生」と「死」以外に「生」を感じる手段がある。「誕生」の瞬間に自意識を持つ人間はいない。「誕生」は体が覚えていても、意識下にはない。妊娠、出産こそ「誕生」に近い形で「生」に肉薄できる手段だ。では「死」に近い「生」を感じる手段は? 殺人だ。人が死ぬ様子を自らの手で知ることが「死」を感じてその向こうの「生」に近付く唯一の方法だ。

 だから、人は人を殺す。生きることを至上命題としながら他者を殺すという自己矛盾を犯してきたのはそのためだ! 現在の社会が生まれるまで一体何人が犠牲になってきたか。建国のため、宗教のため、資産のため、感情のため、不注意のため、人はいくらでも人を殺している。現行の日本政府でさえ、死刑制度を用いて合法的に殺人を犯している。人は人を殺すのを絶対悪とできない。なぜなら、神秘であり感情に最も働きかける行為だからだ。「死」をもって「生」を見るのは人間の根源的欲求でもあるのだ。

 僕は刺すのを厭わない。これは人間の最も崇高な行為である。快楽だ! ここにあるのは快楽だ。僕はついに根源に達した。僕の精神は肉体から遊離し、動物の皮を完全に脱ぎ捨てた。いや逆か? 僕は獣に戻ったのか? 知らない。しかし僕は人間が到達すべき最高点に達した。ここには快楽しか存在しない。包丁を用いるのも良い。金属は人間だけが持つものだ。人間はこれを火で加工し、道具を使う生命となった。金属は知性の象徴でもある。それを用いて「生」を絶つ。人間は知性を用いて「生」を知ることのできる唯一の生物だ。帯刀という名前にもふさわしい。帯刀もその運命を悟ったはずだ。帯刀?

 僕は僕という人格が消え、一つの魂となる感覚を得た。僕自身の「生」さえ感知できるようだった。実体を失った僕の体はゆっくり包丁の柄に力をこめる。

「ああ、やめよう」

 そう呟いていた。僕の向ける包丁のすぐ横を水滴が落ちて行ったのを見たからだった。僕は包丁をトートバッグの上に投げた。五感が復帰する。よく聞けば、嗚咽が響いていた。帯刀の顔を見る。やはり泣いていた。瞬時に正気を取り戻す。

「うっ、うう」

 泣きじゃくって、子どもみたいだった。

「怖い、死ぬのが怖い」

 そりゃそうだ。「生」を維持するのは人間の本能だ。誰だって正常な精神を持っていれば怖い。でも帯刀は本能に反して死のうと思った。どうしてかと言えば精神も肉体も限界だったからだ。遅かれ早かれ死ぬのが最善という結論にたどり着く。しかし、いかに理論的に自殺を思い付いても、生存本能まで説得できない。だから二律背反の状態が生まれる。帯刀はその矛盾に頭が耐えきれなくなって泣いている。感情が溢れてしまったのだ。僕は可哀想な子供を見ている気分だった。殺意は元々無かったように霧散している。どうにか泣きやませてあげたいと思った。

「心配しなくていい。帯刀は救われていい」

 僕は言った。僕のことを帯刀が嫌いでもいい。僕は今、帯刀を理解した。家族と同じだ。たとえ許せないことが起きても、理解し得るところがある気持ちがする。

「帯刀は二つ選べた。一つは自殺。短絡的だけど苦しみから逃れるには早くていい。痛みは一瞬。だけどそれで本当に終わりになる」

 帯刀は聞いているのかわからないくらい、泣いていた。

「もう一つ、僕はこっちを選んで欲しかった。皆に辛くて苦しいって言うこと。別に言いたくない人にまで言うことはない。母親、父親、お姉さんもいたっけ。祖父母でも良かったと思う。あとは友達。恋人でも、まあいいと思う。僕にもできれば頼ってくれて良かった。僕では嫌だったから今日まで言わなかったんだろうけど」

 帯刀は目を擦りながら、首を横に振る。

「だい、じに思って、たから、言え、なかった。怖かっ、た。し、『親友』の、こと、悪く、いわ、言われたら、どう、しようって。私、が死にた、いのを気持ち、悪いって、言うかも、しれないか、ら怖かった」

 僕は微笑んで帯刀の頬に伝う涙を拭う。

「そうだね。帯刀に言えないこと、僕にもたくさんある。でも死んじゃうくらい辛いことは、死んじゃうまで隠してちゃ駄目だよ。打ち明けたらずっと楽だよ。だけどそこに至るまで辛かったね」

 帯刀は僕の胸に飛び込んで来る。僕の胸の中で泣いた。

「帯刀はいい子だからそうしたんだ。周りをもっと信頼していいよ。いい子の帯刀が選んだ周りの人はきっといい人ばかりだから。僕だけじゃ受け止めきれなかったのは事実かもしれない。でも何人かに少しずつその悲しみを分けていったら、何とかなる。それにどんなことがあっても僕は帯刀の味方をする、きっとね」

 僕は帯刀の頭に、背中に、そっと手を置いた。死のうとしていた人間とは思えないほど温かみがあった。髪も相変わらずさらさらしていた。

「ごめん、なさい」

 しがみついて必死に泣く帯刀を見て、僕は苦笑した。

 帯刀はしばらく泣いたままだった。泣き終えると今度はぼうっとして、生気が抜けたように布団の真ん中に座っていた。お昼の時間だったので、帯刀に何か出そうと思った。あいにく手料理を振る舞う気分ではなかった。それに帯刀は胸元で泣いた後、膝の上で泣いたので体前面が湿っぽくて動くのが不快だった。牛丼は僕の昼ごはんだし、と冷凍庫を開けて物色する。冷凍のタラコパスタを発見した。それをレンジで加熱する。五分は意外と長かった。それを持ってテーブルに運ぶ。

「お茶が冷えちゃったけど、温め直す?」

 僕の問いに帯刀が左右に首を振る。ジェスチャーが多くなっている。

「お腹空いてる?」

 首を傾げる。

「まあ、お腹に入るだけ食べて」

 僕は空腹を全く感じなかったので帯刀が食べるのを観察した。器用にもくるくると麺を巻く姿はやはり美しい。食べるのが上手だと思った。残念なのは表情が一切変わらないところだった。思い詰めたような顔のまま黙々と食べていた。目元がこすったから真っ赤だ。

「美味しい?」

 帯刀は頷く。そのまま食べ続けた。でも、笑ってくれないのは寂しい。もちろんそんな精神状態ではないのはわかる。でもいつもの笑顔が見たいなと頬杖をつきながら思った。人を笑顔にできる食事を提供するのが僕にとって嬉しいことなんだとわかった気がした。

 食べきると、帯刀はまた茫然自失に戻った。「いただきます」と「ごちそうさま」はきちんとしていた。僕はこれ以上何もしてあげられる気がしなかったので、とりあえず食器の片付けをした。帯刀の後ろに転がる包丁を二本束ねて元々くるんであった新聞紙で包み、バッグの底に入れた。駅で見つかったらどうするつもりだったのか。よくわからない使命感に駆られ、コートを着せてあげた。鼻水は流石に自分でかませた。荷物を持たせてやると帯刀は立ち上がって無言で玄関に行った。ブーツを履くのに三分ほど手間取って玄関のドアを開けた。

「気を付けて帰れよ。あと言い忘れてたけど、チョコ美味しかった。手紙も素敵だった」

 僕が言うと、帯刀は少し笑みを見せた。

「今日はごめんなさい」

 僕は目を逸らす。

「いいから無事に帰って。また学校で会おう」

 帯刀は首を縦に振った。

「ねえ、唯都くん」

「ん? まだ何か?」

「私、唯都くんに恋していたのかもね」

 帯刀はそう言うと、歩き出した。

「さようなら」

「あ。さ、さようなら」

 帯刀は僕にやはり微妙な笑顔を向けて行ってしまう。帯刀を無性に追い掛けたい気分がしたのはなぜだろうか。

 部屋に戻って本を素早く整理した。それを部屋にしまい、リビングに戻る。ソファーに寝て、『歯車』を読み出す。芥川が死期の暗示を感じ取るという物語である。二章『復讐』を読了し、三章『夜』に入ったところにしおりが挟んである。『寿陵余子』に注釈が振ってあった。燕の少年、余子が趙の都、邯鄲の歩みを学ぶが身に付かず、寿陵の歩みまで忘れて蛇行匍匐して帰ったという故事だった。不相応なことを身に付けようとすると自分の会得していたことまで忘れてしまうという皮肉的な訓戒である。僕は極めて気分が悪くなった。

「牛丼食べよう。目玉焼き載っけよう」

 腹一杯食べて寝たら嫌なことは忘れられる。しおりを本に戻してキッチンに向かった。

 ——帯刀は翌日の夜、左手首を切って倒れた。

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