食べることは生きること

 食事術なんて聞くとまるで仕事術みたいで仰々しいように思うかも知れませんが、ビジネスパーソンの皆様なら実はご存知なはずです。「仕事は楽しんでナンボ」という側面があることを。もちろん楽な仕事なんて存在しませんし、仕事は辛いことが続くこともあります。ですがそれ以上の喜びがあることもまた事実で、ある程度仕事を続けていれば大抵のことは乗り越えることすらも楽しんでしまえるものです(もちろん乗り越えようのないブラックな仕事も多数存在する……)。食事に変化をもたらすということも、ホメオスタシスという側面から考えればいきなり大きな変化を加えることは苦痛を伴いますが、少しずつ良いものへと変化させていけばそのプロセスすら楽しめるものです。仕事と同じで「食事は楽しんでナンボ」です。

 英語で「You are what you eat」という言葉があります。特に捻って考える必要はなく「あなたは食べたもので出来ている」という意味です。これはもともと英語ですから西洋的な思想のもとに生み出された言葉だとは思いますが、意味としては私たち日本人も納得できるところが大いにあるのではないでしょうか。ただこの直訳だとやはり日本語らしくないので、この様に意訳してみましょう、「食べることは生きること」だと。

 生きることとはまさに自分自身の人生です。人生の価値なんて人それぞれですからそれがどうあるべきかなんてことは論じません。ですがどんな人生も送っていく為には食べる必要があります。もっと率直に言いましょう。食べないと死にます。それは歴史が証明していますね。食べ物を安定的に安全に供給することは国家存続の為には重要なのですが、今の我が国は海外産の食物に頼りすぎていて、かつ安全性に欠けており非常に脆弱であるということは憂慮すべきかと思います。

 少し話が逸れましたが、私たち個人はせめてもの自分の人生が自分のものとして存続する為に、良いものを選びそして食べる必要があるのです。昨今よく言われるようになった「免疫」にしても食べ物がおかしければ免疫機能は低下しますし、適切に食べていれば免疫機能は正常に働きます。免疫というのは身体の防衛システムです。国防と考え方は同じであり、闘う準備が出来ていないといけないのです。外敵が攻め込んできたときに闘い方を忘れているとか、そもそも武器が壊れていたりなかったりするとか、攻め込まれていることに気付かず突破されてしまうとか、そんなことがあってはならないのです。何故ならそれは国家なら侵略を、生命なら究極的には死を意味するからです。

 殆どの人は豊かな人生を送りたいと考えていることでしょう。ですからどうすれば豊かな人生を送れるのかを考えるはずです。ビジネスパーソンであればそれは自らのミッションを達成することであったり、それによって富を得ることであったり、家族を幸せにすることであったりと、色々と考えたことがおありでしょう。その根幹にあるのは紛れもなく自らの身体であり、それを作っているのは食べ物であるというのは紛れのない事実。「食べることは生きること」というのは何も大袈裟なことではないのです。

 それなのに太ってきたからと言って“食べないダイエット”を始めたり、何か特定の栄養(例えば糖質)をカットしたり、加工された不自然なものばかり食べていたりしていないでしょうか?ミッション達成も、それによってもたらされる富も、健康でなければ本当の意味では享受することはできません。稼いだお金で病院に行くくらいなら、貧乏だけど毎日健康で過ごしている方が幸せかもしれないですよね。もちろんビジネスシーンでは気合いを入れて乗り越えねばならない時期や瞬間が存在しますし、食事に気を配っている余裕などない時があります。それは国家で言えば危機的な状況に例える事が出来るかもしれませんね。しかしそれが常であるということもなく、平時というのもまた存在します。平時にいかに整えておくのか、これが生きる為に重要なのです。生きるとは何だったでしょうか?そう、食べることでしたね。

 本章冒頭で触れましたが、そう言っても食べること(生きること)に関してあまりにも厳しいルールを設定するとそれは楽しめなくなります。「食事(人生)は楽しんでナンボ」ですから。「食べることは生きること」というのは生命維持の為の話ですが、私たち人間はその先に「食べることを楽しむこと」ができます。これは「生きることを楽しむこと」が出来るのと同意です。食事というのは本当に楽しいものです。特に我が国の食事は素晴らしい。日本には四季が存在し、季節ごとに美味しい野菜や魚が異なります。これを「旬」と表現しますが、旬の食材というのは何故美味しいのかと言えば、それはその季節に最も栄養価が高くなるからです。本来私たちは身体に良いものを美味しいと感じるような感性(センス)を持ち合わせているのです。これを書いているのは旧暦とのずれがあるかも知れませんが3月の下旬で、まさに「さわら」という魚が美味しい春です。「春菊」とか「春キャベツ」というのもありますね。自然の恵みによって生かされていることを、先人たちは感覚的に知っていたのでしょう。

 しかし現代人はどうでしょうか?確かに技術が進んで安定的に食べ物が供給されたことは真の意味で我が国を豊かにしました。「通年野菜」や「養殖魚」というのは本当に便利ですし、その恩恵にも私たちは与って然りです。ただそれを通り越していつでもどこでも同じ“加工されたモノ”ばかり食べてはいないでしょうか。確かに便利(コンビニエンス)なのは間違いありませんが、言葉を選ばずに言えばそれは“旬もへったくれもない”のであって、「生きることを楽しむこと」とは程遠いものである様に感じます。ディストピア小説などでは人民は食べるものすら当局に指定されていて、“完全食”なるクッキーの様なものを食べることで生きながらえていく様子が描写されることがありますが、現代のコンビニエンスな食べ物はそれに近いモノに見えて仕方がありません。「“コンビニエンスなもの”を食べなければ死ぬが、食べてもそこに喜びがない」なんて人生はまさにディストピアなのであって、そこには“旬もへったくれもない”世界が広がっています。逆にユートピアの食卓に描かれるのは何でしょうか?これを自分で想像してみるとなにかが見えてくるかもしれませんね。

 またビジネスパーソンは交流会、もとい飲み会が多いことと思います。昨今ではコロナ禍の影響もあってなかなかそういった場が設けられずもどかしい想いになります。ある人によっては「会社の飲み会がなくなってよかった」と感じるかもしれませんが、これは同じ飲み会でも色々あるということです。ここでは有益な飲み会について論じたいと思います。ミーティング(ここでは本来のmeeting、対面でのミーティング)は少々のアルコールが入った状態で行う方が円滑に進むという研究結果があります。ですからアルコールが悪いというわけではないのです。もちろん飲み過ぎはいけません(私が気をつけないといけない話)が、これはどんなものでも食べ過ぎは良くないのと同意です。そして偶には楽しくなって飲み過ぎることがあるのはある人にとっては自然なことでしょうから、トラブルにならないのであればよいのではないかと思います。適量であればストレスの解消にもなりますし、何よりアルコールが介在するミーティング(飲み会のこと)は、実に楽しいものです。良くも悪くも素面では切り出すことが難しかった話ができることもありますし、アイデアが浮かぶこともあります。また誕生日だったり、プロジェクトの成功祝いだったり、お近づきの印だったり、理由は何であれそういった非日常的な席を設けることは歴史的にも数多行われてきているわけですから、コロナ禍における自粛というのはまさに異常事態だったと言えるでしょう。何はともあれ宴席では何か特定の病気を患っていない限りは、迷惑にならない程度に(自戒)、好きなように飲んで、そして食べましょう。これこそが「生きることを楽しむこと」ではないでしょうか。

 本章途中で述べた通り平時の、すなわち日常の食事が整っていれば、宴席で多少何をしたって問題ありません。これはホメオスタシスが正常に働いていればこその話ですが、人間は何かリズムが狂ったとしてもそれを元に戻す能力を持っています。これを「レジリエンス」とか「復元力」などと言います。機械は壊れてしまえば人の手によって修理する必要がありますが、生体はそれを自ら行うのです。この「レジリエンス」による回復は当然大きな狂いに対しては長い時間を要することになります。大きな故障の復旧には大々的なテコ入れが必要なのと同じです。そして回復には材料やエネルギーが必要ですから、普段からそれらを普段から準備しておくことが大切であって、当然狂いが小さな段階で回復フェーズに移行できるようにしておく必要があります。ですから、普段から何を食べているのかが“豊かな人生”を送る為のポイントになるということです。

 少し話が逸れましたが、食事を楽しめる生活というのはまさに“豊かな人生”の基盤となります。家族と、気の置けない仲間と、同僚と、同業者と、異業者と、会いたかった人と、たまたま出逢った人と……ぜひ色々な方との楽しんでください。その時は思い切り楽しみましょう。当然対面で食事をするわけですから、スマホを見ていたりテレビをボケーっと見ていたりすれば失礼に当たりますね。ビジネスパーソンであればその辺りのマナーは当然問題ないことと思いますが、誰かと会話をしながら食事を摂ることはスマホやテレビから離れる機会の創出でもあるわけです。そして楽しんでいる時というのは当然笑顔になっていることでしょう。笑うことも健康の為になることです。感情というのは自然なものですが、現代社会は不安や苛立ちや怒りや悲しみと言った負の感情に支配されがちです。負の感情は悪ではありませんが、その分幸せや喜びや嬉しさや楽しさが必ず同等に存在します。そんなものはないって?それは感性(センス)が低下している状態かもしれません。感性(センス)が高くなれば、大きな負の感情の影に隠れた小さな幸せを拾い集める事が出来ます。これはスピリチャルな話ではなく事実です。感性(センス)が低下しているから、そこにある小さな喜びに気が付けないのです。現に今これが文字で読めているということも幸せなことのはずです(目が見えることによって生じる不幸がある、或いは目が見えることが幸せの条件でもないというのもまた事実ですが、この話は脇に置きましょう)。

 旬の食材を楽しむというのは感性(センス)が低下していれば難しいことです。逆に言えばそこに思いを馳せることは感性(センス)を高めるきっかけになることになるでしょうし、コンビニエンスでディストピアな食生活はセンスを低下させるきっかけと成り得るでしょう。「食べることを楽しむ」ことは、ハイセンスな状態であって、“豊かな人生”を送っていることを象徴していて、「生きることを楽しむ」ことが出来ているのだと“氣が付く”ことが大切かも知れませんね。

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Shi-ZEN Style~ビジネスパーソンの食事術~ まえだたけと @maetake88

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