冬虫夏葬

 病状が進めば、こうなるんだ。

 最初に抱いた感想はそれだった。浮き出た血管のように体表をつたが這って、皮膚と「それ」とのグラデーションが、或いは変質が、美しいだなんて。口には出さなかったけれども、醜さなんて二の次に、命が姿容すがたかたちを変えてそこに在るという、事象だとか、或いはその産物が、異質ななまめかしさを放っていた。

 少しの間、息をするのも忘れて魅入っていると、少し困った顔をして、彼女は、詰まる所今目の前に居る私の友人であり、それでいて今日私が会っている人物なのだけれど、やっぱり気持ち悪いよね、なんて微嗤わらって言った。そんなことない、と口を開きかけて、後ろに続く正しい言葉が出てこなくて。どうしようもない一言分の空白が、私の口から零れ落ちる。肯定でも否定でもない曖昧な温度を孕んだ無音。それに彼女は何を読み取ったのか、少し満足そうに冷めかけた珈琲を啜った。

 彼女は元々、感情が服を着て歩いてるような人間だった。喜怒哀楽の起伏が人のそれより幾分か多くて、私はそんな彼女が少し、羨ましくて。これを憧れと呼ぶには、少々妬みに近いような、形容し難い対抗心も含めて、私は彼女のことが好きだった。人として。

 ほんの数瞬、冗長な沈黙。

 先に口を開いたのは、彼女の方だった。ごめんね、君には話しておこうかなって。そう呟く彼女の顔からは、最早感情が読み取れなくて、けれどもその分の感情が、彼女の体を変質させていった。そんな非現実的な現実が、否が応なく彼女の変貌を突き付けて、彼女は、もう全く別の個体なのではないか、なんて幻想が駆け巡る。

 正式な名前としては中々に長ったらしいものだったけれど、心を喰らう植物、だなんて巷では呼ばれていて、その呼び名の通り、人間に寄生して、その宿主の感情の起伏を主食として成長するらしい。だから彼女は、この寄生者からすれば格好の苗床、なんだろうな。感情が動けば動くほど、暴食の君は喰い散らかして、僅かな上澄みだけが表層に現れる。そんな現状で、あんな顔を出来る彼女は、やっぱり。

 で、何で私なの、なんて口を開いて、問いかける。さっきの彼女の、何の答えもない、一言へ。その理由を聞いて、特段私が得する事もないというのに、私の口からそんな、相手の真意を探ろうとする言葉が、してや彼女に対して、出てくるだなんて、やはりこれは異常事態なのだ、と再認識する。

 なんとなく、かな。そう答える彼女は笑顔で、だけれども、それが嘘だなんてことは、単純で明快だった。まさに貼り付けたようなというか、表情筋を僅かに釣り上げた、そんな笑顔。君がそんな顔するなんて、知らない。言いようもない、怒りのような感情が私の中に渦巻いて、彼女に抱いていた幻想が、彼女から引き剥がされていく音が聞こえた気がした。

 でも。

 ただ、どうせ死ぬなら、一番綺麗な場所で死にたいんだ。

 そうやって笑う彼女は、本物だった。乖離かいりは、止まった。中途半端な彼女の人物像が、双頭の、化け物となってわだかまって。今目の前に居る君が、かつて私が望んだ君なのか、それとも幻想の裏側なのか分からない。そんな彼女を、もう少しだけ見ていたいと思った。否、願った、のだろうか。

 珈琲は、冷め切っていた。


 それから、彼女と別れた。どうしようもない好奇心と、それから、未だに彼女を受け入れられない懐疑心とが、私の心には棲んだままで。誰も居ない我が家にただいまと声をかけて、足の踏み場のない部屋に分け入った。かび臭い匂いがせ返って、その隙間を縫うように樟脳の香り。相変わらず混沌とした私の城壁は、城主すらも拒もうとする。

 それを押し切った先にある布団に倒れ込んで、頭の天辺から、指先まで、じんわりと疲れが巡った。もう何をする気力もないことに気が付いて、夕食なんて抜いてしまおうかな、なんて思考が脳裏を過る。怠惰。けれども、僅かに残った人としての理性がそれを拒んで、気力を振り絞った左手が、脇に積まれた小山の中から食物を漁った。あった、カップ麺。命を、繋いだ気がした。

 幸い、電気ケトルは生きていて、沸々と揺れる湯が音を立てた。卓袱台ちゃぶだいの上に隙間を作って、そこにカップ麺を据える。これを生命の神棚としよう、なんて意味のないことを考えて、具材を払々ぱらぱらと振り掛けた。かちん、と、電気ケトルが事切れる音。

 出来上がったお湯が、啾々しゅうしゅうと音を立てて麺へと染み込む。科学的ケミカルな香りが鼻腔に登って、不健康な自身を知覚した。標線までをお湯が満たして、蓋を閉める。三分間の、タイマーをかけた。


   …─*─…


 不思議と、痛みは無かった。痛みっていうものは、命を守るためにあるはずのものなのにな。この身体の変質は、つまり、命に害は無いんだろうか、なんて、この寄生者の目論見に乗ってみたり。

 これまでの人生で、私をどこまでも突き動かしてきた、最早相棒とも言うべき感情は、すっかりと息を潜めてしまった。何だかわびしい、そんな気持ちになって、けれどもそれすらどこかへ行ってしまう。私はとうとう私じゃなくなってしまったようで、けれども、或いは、私の憧れに、近付けたんじゃないか。そうであって欲しいと願って、現状に満足している自分に気が付いた。

 毎日、毎日、少しずつ成長していくこの生物は、私の感情を喰らっていて、いつかは私を食い破るんだとか。それはつまり、こいつは私なんじゃないかとか、少しだけ可愛く見えてしまうのも無理はない。

 左手から肩にかけて変質した私の腕は、特に不自由もなく動いている。洗面所の鏡に映る私は、まるで映画の中から這い出してきたみたいで、宇宙の果まで旅を始めてもおかしくはないような。どこかのマンガで、こんな登場人物が居た気がしたけれど、思い出せないな、溜め息を吐いた。

 出しっ放しにしていた蛇口を締めて、洗面所の明かりを落とす。生活空間、六畳。飼っているオカメインコが余に静かで、少しだけ不安になって鳥籠を覗いた。黒い、目が、二つ。僅かに光を反射して、こちらをじっと。少し退避たじろいで、それからちゃんと生きていたことに安堵する。良かった。

 冷蔵庫を開けると、僅かな野菜と、生食期限の過ぎた卵が一つ。これじゃあ、何も作れない。覚束無い足取りで玄関へ向かって、買い替えたばかりのスニーカーを履いた。そういえばあいつは、何も言わなかったな、なんて、ふと思い出す。人の変化というものに一切口を出さないあたり、変わっていないあいつに少しだけ安堵したり。

 梅雨の盛りの夜空は、重苦しい蒸し暑さで、それに対抗しようと回る室外機が、齷齪あくせくと熱の塊を吐き出している。最近少しずつ開発の進むこの街は、工事途中の建造物が、ちら、ほらと。それが何だか、自分の身体を溶かして作り変える蛹のようで、不安と期待とをその外殻に押し込めているみたいだった。

 徒歩十分程の所にある統合スーパーは、この時間ながらには賑わっていた。私は籠を掴んで、少し迷ってからカートに入れた。店舗に入ると、梅雨の湿気と対照的に冷気が溢れる。上着、羽織って来れば良かったな、なんて少しだけ後悔した。

 宛もなくふらふらと陳列棚の合間を縫って、目に付いた食材を片端から籠へと放り込む。人参、にら、蒟蒻。それから少しだけ考えて、キャベツと調理用味噌と豚肉を買った。これだけあれば、夕食にはなるだろう。

 レジを通した籠から買い物袋へ、商品を入れていく。この作業はあまり得意じゃない。少しだけ不安定な詰まり方をした商品が、持ち上げると同時にごとりと鳴いた。

 建物から出ると、また、暑い夜空。排気ガスに濁った空は、月すらも霞ませていた。今夜愛の告白でもしようとしていた人達は、どうなるんだろうか。そんなくだらないことを考えて、どうでもいいやと結論付ける。どうでもいい、どうでもいい。そんな下らないこと、どうでもいい。この思考は、私自身のものなのか、植物によるものなのか。曖昧になって、少しだけ腕を確認した。分からなかったけど。

 右足、左足。一歩々々と進む道は、後戻りは出来ないようで、家に着いた私はやはり、少しずつ私じゃないんだろうな、なんて。一方通行の毎日が、少しだけ寂しく感じたような気がした。

 家に着くと、少しだけ蚊取り線香の匂い。私の家は未だ変わりないようで、それに少しだけ安堵した。ただいま、とオカメインコに声を掛けて、返事を待つ。帰って来た無音に溜息を吐いて、手を洗った。洗面所の明かりは、点けなかった。


   …─*─…


 あの後、彼女から連絡が来たのは、七月の中旬だった。家の外では蝉が鳴いていて、本格的な夏が響いてる。こんな時期に外出か、なんて怖気ついて、けれどもまあ、死に往く君の願いくらい、聞いてあげないことも無い。そう考えて詰め込んだリュックには、二泊三日の用意が出来上がっていた。

 広島に行きたい、と彼女が言い出したのは、多分、修学旅行のやり直しのような、そういう目的があったからだと思う。楽しかった思い出に浸りたいのか、変わってしまった自分を受け入れるためか、或いはこんなものはただの邪推で、只々行きたかっただけなのか。突如として言われたものだから、思考だけを取り残して、私は家を後にした。

 新幹線の中では、互いに殆ど喋ることが無かった。特に話すことも無かったし、もしもあの頃のままだったら、彼女が一方的に喋り散らしていたのだろうけれど、そんなことも無く。けれどもそれが居心地の悪いものかと聞かれれば、そんなこともなくて。まるでもう一人の私が隣に居るようで、なんだか不思議な気分だった。

 ねえ、と話しかけられて、横目に彼女を見る。正確には、話しかけられたような気がして、だけれども。轟々と風を切る音と、車輪の滑る音に掻き消されそうな声。彼女は変わらず前を向いたままで、何も言わなかった。聞き間違いだったような、けれども、そうでもないような。何、と聞き返すのも違うような気がして、少しだけ首を回して彼女を見た。

 その動きを制止するかのように、今度はどうにか聞き取れる、何でもない、が、彼女の口から零れた。ほんの少しだけ気になって、けれどもこれは、自己満足なんだろう。そうやって言い聞かせた。

 そう、と答えるように溜息を吐いて、それからもう一度、彼女の横顔を見た。五秒程見つめてから、鏡の向こうから這い出してきた自分自身を見ているような、そんな気持ちになって、思わず目を背ける。それから、もう一度口を開くことはしなかった。

 新幹線を降りて、駅前で軽く昼食を摂った。食にそこまでの拘りは無かったけれども、折角だから、そう言って彼女は、怠惰な私を引っ張って行った。少しだけ、彼女は彼女だった。

 連れて行かれた先は、駅から少し離れた所にあるお好み焼き屋さんで、人は並んでいたけれど、駅前の有名店と比べればぼちぼち。客の入れ替わりも終盤のようで、私達の後ろには数人程度しか並んでいなかった。

 会社員風の二人組が出てきたと同時に、カウンターの一番奥へと通された。厨房には強面こわもての店主一名、他には従業員が居ない。修学旅行の時、見つけたんだ。そう、隣でメニューを眺めながら彼女は言った。そっか、と一言返して、私もメニューに視線を滑らせる。居酒屋特有のメニューの並びに、飲酒という二文字が脳裏にちらついて、厭々、まだ昼の直中じゃないか、と理性がそれを制止した。

 ちらりと隣に座る彼女を見ると、彼女も彼女で酒類の頁を開いている処だった。

 一瞬、目が合う。

 二人揃って一つ次の頁を開いて、注文するお好み焼きを選び始めた。流石に、相手に運転をさせるのは忍びない。車で移動することを決めたことを、少しだけ後悔した。

 注文は思っていたよりも早く出てきて、二人で無言でそれを食べた。修学旅行の時は、彼女とは行動班が違ったから、なんだか新鮮な経験のように思う。生地を咀嚼して、飲み込んで、コップに入った水を飲む。たったそれだけのことが、少し、今この時だけは特別だった。

 それからは、広島の街を巡った。有名所からあまり知られていない場所まで、只々時間を潰すかの様に。一つ一つの場所に長居しないで、ただ遠目に見るだけのこともあった。先を歩く彼女は、ただひたすらに、移動しているだけのようで。けれども別に急いでいるわけでもなく、単純な、確認作業のような、そんな気がした。

 宿に着いた頃には、日も沈みだしていた。通された部屋の窓から外を見ると、宮島が静かに浮かんでいて、変わらないな、なんて少しだけ懐かしむ。蝉が遠くで、控え目に鳴いていた。その鳴き声を、波が攫う。夜が少しずつ水面に映り込んで、そして音を飲み込んでいるような。そんな気がした。

 夕食が運ばれてきて、また淡々と、食事という名の栄養摂取が始まった。食事は十分に美味しかったし、話そうと思う話題も無かった。けれども。

 何で、私なの、と、どうしても気になって問いかけた。何故私は今ここに居るのか、ここに居るのは何故私なのか。本当に、これは只の好奇心以外の何物でも無かった。只々、気になっただけ。もし私が猫ならば、劇薬になるくらいの。


   …─*─…


 君の目を、見ていられなかった。それから、やっぱ君は変わらないんだね、なんて思った。納得していないから、私がどう思っているかなんて気にしないで、只々純粋に質問しているんだろうな。そうだ、君は、そういう奴だった。私は君のそういうところを知っていた。だからこそ、そんな純粋な君に、私の捻じ曲がった性根を見せるだなんて、そんなことは、できる訳が無かった。

 動揺。それを植物に明け渡して、無かったことにする。久しぶりの餌を得た暴食は、それを綺麗に平らげた。我ながら、ずるい。否、ずるいなんて、それを評価できるのは私だけなのだけれども。

 それから、少し深呼吸をしてから言った。私が、君に似てきたからだよ。だから、思い出したんだ。

 酷い言い訳だった。逆だろう、と、怒る私が居た。怒る、ではないか。怒りとは別の、けれども怒りにあまりにも似た、そんな感情。また、心を明け渡す。喰らう。醜いな、なんて漠然とした思考が、脳を満たした。

 君は、そっか、と呟いて、また黙々と食事を摂り始めた。それに呼応するように、私も箸を動かす。そう、本当に、それだけなんだよ。君に話しかけるように、自分に言い聞かせた。それだけ、なんだよ。本当に。

 夕食は、殆ど味がしなかった。


   …─*─…


 食後、浴場へと行っている間に布団は敷かれていた。隙間なく並べられた二枚の布団に、少しだけ気恥ずかしさを覚える。ねえ、別に寝相、悪くないよね、なんて尋ねると、朝抱き着いてたらごめんね、なんて冗談めかした返事。まあ、寝相が悪くてもこれくらい、逆に、布団を離す方が面倒なのだけれども。

 君、テレビ観る、と尋ねて、んん、と、肯定か否定か分からない返事。寝る前にテレビ観ると、寝れない、そう彼女が付け足して、そう、と返してリモコンを置く。既に布団に寝転がっている彼女の上を跨いで、棚の中を物色した。歯ブラシやら石鹸やら櫛やら、諸々のアメニティ。歯ブラシを一本鞄に入れて、また別の棚へ。

 こういう物を物色してしまうのは人間のさがだと思っているので、致し方ない。電気ケトルとお茶を見つけて、ねえ、お茶いる、なんて尋ねると、カフェインは、と眠そうな声が返ってきた。緑茶だから入ってる、と答えると、じゃあいいや、寝れなくなるし、それだけ言って、寝返りを打った。

 電気ケトルにお茶一杯分の水を入れて、沸かす。気泡が底から離れる音が、不規則な拍を奏でていた。とん、てん、たたん、とん、てん、たんとん、ててん。

 沸いたお湯と粉末を混ぜて、飲める温度になるまで待つ。少し熱いくらいの温度になったら、吹いて冷まして、喉に流す。喉の奥が少し焼けるようで、それが心地よくもあって。一息、吐いた。

 いつの間にか、雨が降り出していて、とんとんと雨粒が窓を叩いた。時計を見ると、夜の十一時。高校生なら、これくらいの時間に消灯していたっけ。ねえ、先生、そろそろ消灯の時間ですか、なんて尋ねると、消灯時刻はしおりで確認しなさい、なんて返される。ふむ、じゃあ消灯。私の脳内のしおりにはそう書いてある。電気のスイッチは、思いの外軽く動いた。

 暗い中を布団に潜り込んで、深く息をした。窓の外は雨脚が強くなって、遠くで雑音が、白く景色を塗りつぶす。さっき飲んだ緑茶が、そんなすぐに効く筈はないけれど、眠気をどこかへと追いやってしまっていた。

 ふと気になって隣を見ると、彼女は既に寝ていた。こうして見ると、整った容姿だな、なんて思う。思い返せば、高校時代、彼女の周りにはいつも人が居たっけ。彼女の底抜けの明るさと、この容姿の相乗効果だったんじゃないだろうか、なんて思考に浸る。

 彼女とは、高校時代、殆ど関わっては来なかった。三年生の時、たった一年同じクラスで、その時に何度か話した程度の関係。私にとって彼女は、只々視界に映る元気な人、だった。それから、それが羨ましくて、そして現実との差を見せつけられているようで、嫌いな人、だった。

 そんな彼女が、無防備にも今、私の隣で眠っている。私が彼女をうっかり殺してしまわないだなんて、なんとも不思議な巡り合わせがあるものだ。そんなことを考えて、そっと彼女の首に手を掛ける。このまま力を入れてしまえば、かつての望みは叶うのだろうか。あの頃の私は、少しくらい、浮かばれるだろうか。力を掛けると、背中側に少し、植物の感触。ああ、これは、駄目だ。そう思って、私は手を離した。天井の木目が、私を見ている。黙っててね、そう囁いた。心臓の鼓動が、今までに無い程に跳ねている。落ち着け、落ち着けと、私は自分に言い聞かせた。それすら只々眺める天井を、私は、私が眠るまで、睨むでもなく、只眺めるでもなく、目を合わせ続けていた。

 雨の匂いがする。

 うん、明日、朝早く、ここを出てしまおう。今の彼女に、私は必要無いから。彼女の回想に、私は邪魔でしか無いだろうから。私は、彼女の隣に居るべきでは無い。こんな、私欲の権化なんて。


   …─*─…


 普段と違う布団だったからか、朝起きた時、全身からぱきぱき、と音がした。気分爽快、とまではいかなかったけれども、まあ睡眠は取れた方だと思う。

 おはよう、と声を掛けようとして、隣の布団がもぬけの殻になっていることに気が付いた。昨日のやり取りを思い出して、それから、周りを眺めて。荷物やら何やら、綺麗に片付けられている部屋が網膜に焼き付く。

 そっか。そっか。そう、だよね。

 起き上がって、荷物をまとめた。朝日が水面に反射して、光の粒が踊っている。強烈な白い光は壁を埋め尽くして、その一つ一つがまるで私を嘲笑っているかのようだった。波の音が、する。昨夜の雨は見間違いだったかのように、綺麗な青空だった。少しだけ、湿っぽい匂いが鼻に届く。

 机の上には一枚、紙が置いてあった。


 多分、私は必要ない。


 そう書き殴られた紙切れ。あいつの筆跡で書かれた、あいつの言葉。私は、丸めて捨てた。うん、そうだ。私が、やりたかったことは終わった。これで、良いんだ。これで。そうやって、言い聞かせた。既に、私にとっては最善だったんだ。

 宿をチェックアウトしてから、その日の宿をキャンセルした。電話口の機械的なフロントの声に、少しだけ安堵する私が居る。帰りの新幹線も取り直して、それから私は宮島に向かった。本当はあいつと行くつもりではあったけれども、その必要も、ない。あいつは、必要ない。私と行くことに意味が、あったはずだった。でもその意味は、ついえてしまったのだから。

 連絡用フェリーは、思っていたよりも大きくて、そのエンジン音の周期性に、少しだけ安堵した。瀬戸内海は風もなく、随分と穏やかに船は進む。潮の香りが、私が今海に居るのだと実感させた。

 フェリーが宮島に着いたとき、大体太陽は真上に昇っていた。じりじりと照り付ける太陽は、容赦がない。このまま溶けてしまうんじゃないかなんて下らないことを考えて、ふらりとすぐ近くの飲食店へと吸い込まれた。

 店舗の中は冷房が効いていて、観光客をみすみす見逃すまいという企業努力が、企業でもないけれど、見て取れた。ここに一人、その目論見に乗った人が居ますよ、と。夏に侵された脳が、無駄口を叩く。全身の毛穴から冷気が、体の中へと侵入しようと藻掻もがいていた。

 注文をして、少しだけ、五、六分程度待つ。一人少ないからか、昨日よりはほんの少しだけ、早く料理が出てきたような気がした。頂きます、と呟いて、一口、一口。美味しい。久し振りに、そう感じた私が居た。

 食事を終えて、会計を済ませる。店の戸口に蝉が張り付いて、己の存在を激しく主張していた。その境界線を越えることに億劫になりながら、一歩だけ外へ出る。じわり、と、汗が浮き出た。前身の毛穴が、半永久的に汗を生産しているのが分かる。冷房という恩恵を失った私の身体は、最早熱の塊へと変わり果ててしまっていた。

 島の中央部に向かって行くと、段々と傾斜が強くなり、ぽつりぽつりと山道が見て取れた。木の葉が日陰を作り出して、少しだけ涼しそうな、そんな幻想。ふらりとそちらに吸い込まれて、一歩、踏み込む。ほんの一瞬の静寂があって、それから木の葉の擦れる音に包まれた。遠くに、鹿が群れている。少しだけ目が合って、それからその一団は、どこかへと移動していった。

 その道を奥へと進んでいくと、小さな広場があって、展望台のようになっていて、そこから、鳥居が見えた。碧い海に、朱い鳥居。強烈なコントラストが、音を止めて、網膜に一枚の情景を刻み付けた。けれども何も感じなくて、代わりに、只々静寂が、或いは静止が、その全てを完成させていた。

 それから私は折り返して、本土に戻って、新幹線に乗って。そうして私のエゴイズムは、幕を閉じた。私は、満足だった。もうこのまま、私という自我が消えても、それすら良しと思える程に。

 ただいま、と家の中へ声を投げ込んで、荷物を放る。ふとオカメインコの鳥籠を見ると、オカメインコがゲージの底に落ちていた。手に取ると、普段よりも随分と低い体温と、弛緩した体。オカメインコは、死んでいた。

 ゲージの中へ亡骸を戻して、手を洗ってから電気を消す。そんな単純な作業に、何ら詰まる事はなく。只々少し残念だな、なんて文字列が脳裏に浮かんで、でもそれは脊髄反射のような感情とも呼べない何かで、中身のない言葉はぽろぽろと、水の足りなかった泥団子みたいに、崩れ落ちてしまった。

 ベッドに、体を埋める。意識は、少しずつ、深い海の向こうへと落ちて行った。光も届かないような、深い、深い碧だった。


   …─*─…


 もう、連絡は来ないものだと思っていたから、彼女からもう一度来た連絡に、驚きと、疑問と。少しだけの申し訳なさを抱きながら、私は家を後にした。

 誘われたのは、近場の水族館だった。丁度駅が近いこともあって、電車に揺られること三十分。かつて何度か来たことのある道を辿った。そういえば、と、高校生活最後の遠足も、この水族館だったな。ふと、思い出す。

 集合場所に彼女が指定したのは、港付近の公民館前だった。駅と水族館を繋ぐ道を、ほんの少し逸れた所。時計を気にしながら、緑色に変わった信号を渡った。

 彼女は、先に着いていた。ロングスカートと長袖、という出で立ちの彼女は、よく見ると、首元までを「それ」が侵蝕していた。今にも消え入りそうな程に白い彼女の皮膚に、毒々しい程の生命を孕んだ「それ」。相異なる二つの存在が、只々静かに、いびつな均衡を保ってそこに在った。

 おまたせ、と声を掛けると、全然、大丈夫だよ、なんて言って彼女は笑った。行こうか、その一言を口にして、彼女は入口へと歩き出した。その歩調はどこか懐かしくて、今目の前に居るのは、どこまで行っても君なんだ。そう思えた。

 大人二枚、と注文する彼女の声に、時の流れを感じる。彼女が財布を出したのを見て、私も慌てて財布を出した。それを横目で見て、いいよ、これが最後だし、と言って彼女は私を制止した。ずるいな、なんて少しだけの対抗心を抱いて、それから私は財布を仕舞った。

 水族館に入ると、水槽から差す光が、揺らめいて、彼女を蒼く染めていた。彼女は水槽に目をやって、けれども、その視界には何も映っていないような気がした。只の、主観であるのだけれど。

 それから彼女は、無言で歩き始めた。ゆっくり、ゆっくり。けれども、ほんの少しだけ、速足で。立ち止まらなかった。だからと言って、何も見落とさなかった。一つ一つの命を網膜に焼き付けて、その動きを焼き付けて。

 私は、そんな彼女を目で追っていた。満足しているように見えた。無為に時間が過ぎていくのが、楽しかった。鰯の群れが煌めいて、えいが影を落として行く。綺麗だな。そう感じている間も彼女は、どんどん先へと進んでいった。私は、只々彼女に着いて行くだけで。

 そんな巡り方をしたものだから、お昼には全てを巡り終えていた。彼女との会話は、朝のやり取りだけ。結局、真意は分からなかった。

 水族館の前に展開している売店で昼食を購入して、歩きながら食べる。この辺りは埋め立て地で、港と云えども砂浜は無かった。コンクリートで固められた地面に、クレーンの音が響く。

「私ね」

 彼女が立ち止まって、こう言った。

「君が羨ましかったんだ」

 ふと、その続きを聞きたくないと、思った。

「君の感情が表に出にくい所とか、いつも冷静な所とか。そういう君が、好きだったんだよ、人として」

 どこかで、聞いたことのあるような、そんな、下らない理由だった。

「憧れてたんだ」

 煩い、黙って、お願いだから、と、心の中で私が叫ぶ。

「だからこの病気になった時、少し嬉しいとすら思ったの。君に成れるんじゃないかって」

 彼女の背中は、やけに小さく見えた。少し震えた声が、気に障る。

「成り切れなかった、なぁ」

 そこで切って彼女は、振り返った。否、そう、見えた。一瞬の出来事だった。彼女の身体から、腕から、脚から、無数の蔦が生え、伸び、広がり、絡まり。全身を包んで、旗又は全身を突き破って、分かれ、合わさり、広がり、集まって。体液とも付かない汁のような、或いは繊維のような、そういったものが飛び散って、生々しい音を立てる。

 かつて唇だったものが、一瞬だけ、動いたような気がした。

「————」

 辺りは、緑色の匂いに包まれていた。噎せ返る命の香りが、潮に混ざって吐き気を呼び起こす。花が咲き、赤い実が生る。あまりの非現実さに、そして、彼女の感情が、この花を咲かせたんだ、なんて事実に、この化物を、美しい、だなんて形容しようとしている私が居た。

 それから、巫山戯るな。憤る私が居た。そんな言葉で終わらせるな、私をそんな言葉で表すな。あんたが憧れてたものは、そんな大層なものじゃないんだ、と。

 羨ましいのは私の方だ。私が、私の方が。私がどれだけ、どれだけ、あんたに狂わされたか、焦がれたか、あんたのことを嫌ったか。あんたに出来たことが私には出来ない、あんたに成りたかったのは、私の方だ。

 こんな化物なんかに感情を喰わせて、私の振りをして。あんたは私じゃないんだ、どれだけ演じても。偽物だ。偽物だったんだ。

 行き場のない、理不尽な怒りが、胃から逆流して、喉を焼いた。吐瀉物には、声を作ることが許されていなかった。

 悔しかった。そんなにその感情が要らなかったのなら、私にくれれば良かったのに。貴方はそんな、成り果てなくて良かったのに。

 私の手は、無意識に、その赤い実へと伸びていた。

 そうだ、死ぬまで生きて、生きて、生き延びて。最後死んで彼女に会ったら、嫌みたっぷりにこう言ってやろう。


 私は君に、成り切れなかったって。

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短編小説 糸永幸湖 @CokoItonaga

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