縫い目の船とさよなら
鏡に映ったのは、相も変わらず醜い顔だった。美しさの欠片もない
朝の電車は、肉で満ちていた。
扉が開くと同時に、腐敗臭が人と共に排出された。臭気が太陽に熱されて、臭いをつんと強くする。ぞろぞろと進む人波に、流されながら前へ進んだ。右も左も、縫い目が歩く。その不揃いの統一に、自分たちは一つの生き物なのではないかと錯覚した。昔読んだ、ある絵本を思い出す。然し、あれ程素敵な話でもない。これが現実というものなのだ。私ですら、これを一つの生き物と呼んだ。自分と同じものになんて、随分と無関心なのだろう。
銀色の改札に吐き出されて、学校までの道のりを
一つ一つと脈打つ心臓が悲鳴を上げかけたとき、
再び足を動かして、冷房の稼働した校舎へと向かう。まだ履き慣れないローファが、少しだけ靴擦れを生み出していた。まあ、いざとなったら切り取れば良い話だ。目線を三十度程度下げて、足を引き摺る様に歩く。
昇降口までの歩数を大体予想して、その歩数丁度で足を運ぶ。解放された扉を
皆と同じ行動をする事が酷く憂鬱で、然し逃げ出す様な気力もない。そうした日々を今日も費やしては、その日を夜に呪ってやる。最近の、否、ここ数年の私の生活はそんなものだった。高校生に成ったから
四階まで続く長い階段は、今日も今日とて私の心臓を食い破ろうとする。教材の詰まった鞄はやけに重たくて、一歩毎に制服の上から私の肺胞を押し潰した。最上階に着いた頃には喋るのも
何度か段を踏み外しかけて、
冷房の効いた教室が私を迎え入れて、それから引き続き静寂を保つ。蝉の声は只々響いて、小さな雑音として冷房に吸い込まれていった。所定の座席に荷物を置いて、備え付けられた椅子に座る。無音に、時計の針が響く。時刻は、始業時刻の一時間前を指していた。
私はこの時間が好きだった。誰にも邪魔されない、独りの時間。人間が継ぎ接いだ無機物に埋もれて、自分を溶かしていく。そんな贅沢が許される、数少ない環境が
「昨日のテレビ観た?」「待って課題やってくるの忘れた」「あー、あの特番?」「なんかうちのクラス顔面偏差値高くね?」「ワークの答えなら今持ってるけど」「そーそー、それそれ」「この前貸した本どうだった?」「いや、それな」「うわ、神ですか」「コア過ぎて逆に笑ったよね」「いや、これ個人的な意見なんだけど」「あがめたてまつれー」「非常に良いって感想を述べとくね」「お?お?つまりはそういうことですか?」「まじでわかるわー」「いや、ちげーって」「あ、お気に召したー?」「じゃ、お借りしまーす」「いやー、応援してるよ~」「なんだっけ、あの、その、ほら」「ほんとあそこの司会の反射神経よ」「レンタル料十万ジンバブエドルな」「だーかーらーさー」「価値が雑草以下なんだが」「日本語出てきてないじゃん」「何話してんのぉ」「どっかの右側のページの真ん中らへん」「まあ流石にまともに金取ろうとはしないよ」「いや、えっとその」「おはよー」「なんちゅう覚え方しとんねん」「軽くバケモンやったよな」「あ、おはよ」「ね、ね、昨日出た新曲聴いた?」「なになにー?私に言えない話?」「あ、もしかしてあのセリフ?」「ちょま、これ課題じゃねぇ」「聴いた聴いたー」「なんでそれで心当たりあるの?」「あ、もしかしてそういうやつー?」「ごめんそれ赤チャのやわ」「いやわかるくね?」「ミュージックビデオかわよすぎて軽く死んだわ」「否、断じて」「百鬼夜行には笑った」「よし、君達は変態だ」「わかる。周回しといた」「なしてよ」「そー、聞いて聞いて」「えっとねー」「なんで赤チャ持ってんだよ、うち黄チャじゃん」「わーわー黙れ黙れ」「あの子の噂?」「ほんとあの人の調整神がかってる」「変態言うなし」「へぇ」「突然の歌詞テロやめてもろて」「変態呼ばわりはばらん」「いいじゃん趣味だよ」「そういや百鬼夜行ってなんぞや」「あの人はヤバい」「そういやクラティー集金いつだっけ」「うわ、こいつ学力ひけらかしてやがる」「して本題は?」「ばらんて。変化球やめよかし」「ググれ」「明後日だよ~」「へぇって何さへぇって」「昨日おもいっきしドジかましてさ」「あとなんにせよ歌詞が良い」「ふぅん」「でもばらんって草以外もあるくね?」「うわー、自主性に任せる発言だー」「ありがと」「ほら、俺賢いから」「だからなによ」「はい乙」「それ極論じゃん」「あー、確かに。エビとか見たことある」「これクラス全体にもっかい告知した方がいいかな」「まだなんも言うてへんがや」「うちの校風なめんなよ」「あ、一限の用意してなかった。やってくる~」「処すか?」「一般的には草では?」「んー、明日でいいと思われ」「最終的には極論しかなくね?」「お?じゃあ続き言う?」「お前が言うなよ」「良かったね、手振って貰えたじゃん」「それはそう」「スリッパ履いたまま学校の外出た」「何ばらんの形について真面目に議論してんのさ」「ほ、ん、と、さ」「処せ」「はい乙、更新されず」「おけ、把握した」「それ言ったら終わる」「うわー、正論かましやがった」「まってこれって四面楚歌?」
言葉の土石流に耳を塞いで、机に突っ伏して目を瞑った。煩い煩い煩い煩い。そんな言葉を呪詛のように撒き散らして、只々反響する言葉から身を守る。耳の中を飛び回った音たちが、まるでハウリングのように耳鳴りを呼び起こす。
荒れ狂う喧騒を三十分程度。全校に響き渡った予鈴と共に、教室は静寂を取り戻した。然しそれはやけに騒々しくて、収まり切らない脳の興奮を一層激しいものへと転じるのみ。
担任教師が耳元で扉を開き、外耳道を土足で教室に踏み込む。
…─*─…
目が覚めて、保健室という単語が脳裏を
「ですから、脳を混ぜ合わせなければ、次第に脳は腐っていく事でしょう。幸いにもこの病院には脳のストックが豊富にありますし、医師の腕も保証されています。幹細胞が保存されていない現状、そこから御本人と同じ脳を作ることは非常に困難を極めますから、少しずつ脳を入れ替える程度しか方法は有りません」
会話の内容を良く聞きたくて、カーテンに手を伸ばす。けれどその手は宙を掴む事すら許されず、一切の反応を見せることはなかった。只一つ、転がっているだけ。継ぎ接いだ腕の肉達が、各々相容れない動作を互いに強制する。そんな違和感を抱えて、漠然と
暫く後に電子音が数度鳴り、それから一つの影がカーテンに映った。その影はカーテンを掴むと、そのまま横へと引く。一度蛍光灯に目が眩んで、その先には母と、白衣を着た医師と
私の意識の覚醒を認識した医師は、軽く安堵の表情を見せて、それからこう言った。
「今から幾つか質問をするので、『はい』なら一度、『いいえ』なら二度瞬きをしてください」
優しい、そして少し眠気を誘う様な声に、了承の意を込めて一度瞬きをする。心の中は随分と静寂で、どこかすっかり、まるで冷たい水の中に居る様だった。
「ご自分の名前は分かりますか?」
簡単な質問だな、と思いつつ、自身の名前を明確に出力する。驕?螻ア驤エ。その出力が正常であることを確認して、瞬きを一つ。一枚、心の膜が剥がれる。
「今日は何日ですか?」
20r9蟷エ91譛?3譌・(()譖懈律。ちゃんと分かっているなと、瞬きを一つ。また、一枚。心は少しずつ冷静さを取り戻して、その形状を
医師はなるほど、と呟いて、それから近くの椅子に腰掛けて口を開いた。
「今あなたの脳は、他の部位と同じように腐り始めています。最後に検診を受けたのが三年以上前の様ですから、その間に着々と腐敗が進んでいたのでしょう」
淡々と告げられる事実に、只々鼓膜が振動する。嗚呼、そういう事なのか。そんな納得をした。自分の事など、分かっていた積もりだけだったのだ。そんな自虐的な思考が、脳裏を占有する。自分のメンテナンスすら
「どうやら幹細胞の登録も行っていないようですので、現状あなたが受けられる治療は現状の維持か、脳の混合の二択となります」
そう、医師は続けた。思っていたよりも平凡な選択肢に、空回った驚きが隠れない。もっと大きな絶望に心を据えていた私の心は行き場を失って、力なくその場へ舞い落ちた。
心の中で、提示された二択を秤に掛ける。世界を一つ取り込んで、私をもう一度形作るか。このまま動かず、生涯白と向き合うか。私の選んだ選択肢は至って平凡で、単純で、そして明瞭だった。ほぼ、一択というものだろう。
「混合手術、受けますか?」
その問いに、私はしっかりと、瞬きをした。
…─*─…
黄ばんだ天井を視界に収めて、小さい
なんだか歯車が嚙み合っていないような、そんな違和感を覚えて、もう一度欠伸をする。とっても眠い。薬が抜けきってないのかな。寝てしまうのって、つまんない。だって楽しい事がないじゃない。それから、もう一度欠伸をした。
コンコン、と扉が鳴って、失礼します、どうぞ、なんて会話を繰り広げると、お医者さんと看護師さんが入って来た。冴えないおっさんだな、なんて考えて、そういえば僕に手術を提案した人だ、と思い出す。
「調子はどうですか? 痛みなどは」
回りくどい言い方に半目になりながら、問題ないです、なんていい子ぶって答えた。
それから一問一答、これってなんて言うんだっけ、そう、堂々巡り。何度も同じような質問をされて、僕はそれに答える。なんか記憶の確認とからしいんだけど、僕には退屈過ぎた。あー、隕石降って来ないかな、なんて考えて、質問に答えて、うどん食べたいなー、なんて考えて、答えて、静かすぎて落ち着かないな、なんて考えて、答えて、延々延々。
それからつまらない問答と妄想を繰り返して、お医者さんはお母さんを連れて外へと出た。なんだかひそひそと話してるようだったけど、どうやら聞こえないらしい。やっぱり、ひそひそ話なんてものはする方に限る。されるなんて、ストレス極まりない。
外では蝉が元気に鳴いていて、夏なんだな、と感じる。たった一週間の命だ、好きなように生きてくれ。飛んで、鳴いて、巡って、出逢って、それから卵を産んだりして、次の世代の準備ができたら死んでゆく。なんともシステマティックに仕組まれた仕合せを願って、只々僕は嗤った。虫って、哀れ。
もう一度、腕を這う縫い目に目を向けた。人間の繋いだ、仕合せの証だ。死とかいう運命を捻じ曲げて、生き
退屈に伸ばした腕が頂点に達したとき、廊下からお母さんが入って来た。おかえり、と声をかけて、何を話してたの、なんて聞いてみたり。それからちょっと微妙な顔をしたお母さんは、ちょっとだけ、と答えて、それから声のトーンを幾分か上げて、明後日には退院できるらしいから、何か好きなもの食べない? 何でもいいよ、なんて言った。
…─*─…
入院の期間も終わって、僕はやっと退院した。地中から顔を出した、蝉の気分。糸の抜けた頭を触って、小さく頷く。久しぶりに頭上に広がる青空に、壮大な夏を感じざるを得なかった。夏だ。
蝉の大合唱の中、諸々の手続きを済ませたお母さんが病院から出てきた。夏の暑さが身に毒なようで、真っ白な日傘を差そうと鞄に手を入れる。そんなものは見なかった振りをして、お昼ご飯、うどんね、と声を上げた。
その後車で約二十分、連れてこられた食事処は、なんだかお洒落で、でも落ち着いた、そんな
案内された座席でメニューを開いて、全体にさっと目を通す。どれも千二百以上はあって、中には二千を超えるものもあった。恐る恐るお母さんに視線を移すと、どれでも食ってよし、と許可が降りた。心を小躍りさせながらメニューにもう一度目を走らせ、麺類のページで手を止める。数々の蕎麦、うどんが並んでいる中から、温玉狐下ろしうどんを選ぶ。うどんには諸々の小鉢もついているようで、刺身やら味噌汁やら、色々と美味しそうなものが。
これにする、と言ってお母さんに言うと、また何か引っかかったような顔をして、蕎麦とか美味しそうだけど、なんて言った。確かお母さんって、蕎麦アレルギーだったよね、美味しいとかあるの、なんて聞いたら、これまた気まずそうな顔をして、いや、うん、何でもないよ、なんて引き下がった。変なの、なんて思いながら、僕はお母さんがご飯を選ぶのを待つ。暫く後に、大体同じ価格帯の定食を選んだお母さんは、店員さんを呼んで注文をした。
それから料理を待って、その間に久し振りの一家
そんなことをしている間に料理が来て、食べて、話して、食べて。僕が美味しいって言う度に、嬉しそうな、寂しそうな、そんな表情をコロコロと変えていくお母さん。それだけが随分と不気味だった。楽しい食事も行き詰って、口数はどんどん少なくなっていった。美味しいはずのうどんはゴムみたいにぶよぶよに感じて、出汁は水のように薄かった。
耐えきれなくなった僕は、とうとう口を開いた。
「一体なんなのさ」
それだけ言うと、お母さんは口を魚のようにパクパクさせて、
それから、こう言った。
「✕✕✕」
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