縫い目の船とさよなら

 鏡に映ったのは、相も変わらず醜い顔だった。美しさの欠片もないまだらの顔に、百足の如く這う縫い目。私は心底、自分の顔が嫌いだった。顔を構成する一つ一つの肉片に目をり、まだ腐り出していないことに安堵する。六日前に移植した頬の筋肉が、ぴくりと動いた。動きの確認も兼ねて、莞爾にっこりと笑いかける。まあ、上出来だろう。

 朝の電車は、肉で満ちていた。揺々ゆらゆらと揺れる人混みが、一つの生き物のようにうねる。一人々々が吐いた腐った息が、車内に籠って抜けない。心の中で一つ溜息を吐いて、それから吊革にぶら下がった。単調な車輪の音が、車内の空気を揺らす。真夏日にたるんだ思考は、只々ただただ靄が掛かったように愚鈍になっていた。

 扉が開くと同時に、腐敗臭が人と共に排出された。臭気が太陽に熱されて、臭いをつんと強くする。ぞろぞろと進む人波に、流されながら前へ進んだ。右も左も、縫い目が歩く。その不揃いの統一に、自分たちは一つの生き物なのではないかと錯覚した。昔読んだ、ある絵本を思い出す。然し、あれ程素敵な話でもない。これが現実というものなのだ。私ですら、これを一つの生き物と呼んだ。自分と同じものになんて、随分と無関心なのだろう。

 銀色の改札に吐き出されて、学校までの道のりを摩々ずるずると歩いた。爛々らんらんと照り付ける太陽が、脳髄のうずい液を否応なしに加熱する。水分が不足した所為せいか、旗又は神経系に異常を来たしたか。どちらにせよ、耳鳴りが酷いものだ。滴る汗を視界に収めながら、もう少し、もう少しだと心を奮い立たせる。延々と鳴き続く蝉の声に、嗚呼ああ五月蝿うるさいと悪態を吐いた。

 一つ一つと脈打つ心臓が悲鳴を上げかけたとき、ようやく校舎へと辿り着くことができた。暫時歩みを止め、深く息を吸う。少しずつ正常を思い出した心臓が、また酸素を身体の隅々まで運びだした。巡々ぐるぐると倦怠感が身体に蔓延はびこり、鈍々どんどんたる思考回路は錆び出した歯車の様な軋みを上げる。何かを吐き出そうと心が唸って、只々虚無を生み出していた。

 再び足を動かして、冷房の稼働した校舎へと向かう。まだ履き慣れないローファが、少しだけ靴擦れを生み出していた。まあ、いざとなったら切り取れば良い話だ。目線を三十度程度下げて、足を引き摺る様に歩く。

 昇降口までの歩数を大体予想して、その歩数丁度で足を運ぶ。解放された扉をくぐると、一気に蝉の声が霞んだ。軽く一息吐いて、ローファをスリッパに履き替える。

 皆と同じ行動をする事が酷く憂鬱で、然し逃げ出す様な気力もない。そうした日々を今日も費やしては、その日を夜に呪ってやる。最近の、否、ここ数年の私の生活はそんなものだった。高校生に成ったから云々うんぬんだなんて、入学早々に諦めが着いたもの。私はいつまでも変わらない。そんな変化のない微温湯ぬるまゆに、安堵と焦燥を抱え持つ私は矛盾の権化、差し詰め混沌と表現され得る何者かだった。でも案外、他者に対して、詰まりは自身に類似する者に対して無関心。きっと、皆がそういう事なのだろう。

 四階まで続く長い階段は、今日も今日とて私の心臓を食い破ろうとする。教材の詰まった鞄はやけに重たくて、一歩毎に制服の上から私の肺胞を押し潰した。最上階に着いた頃には喋るのもままならないのが常である。

 何度か段を踏み外しかけて、疲労困憊ひろうこんぱいといった様で四階へと足を踏み入れた。粗い呼吸を喉に通して、そのまま平行方向へと移動する。何故これ程に私の教室は遠いのだと誰にでも無しに愚痴を飛ばし、そのまま教室へと入って行った。

 冷房の効いた教室が私を迎え入れて、それから引き続き静寂を保つ。蝉の声は只々響いて、小さな雑音として冷房に吸い込まれていった。所定の座席に荷物を置いて、備え付けられた椅子に座る。無音に、時計の針が響く。時刻は、始業時刻の一時間前を指していた。

 私はこの時間が好きだった。誰にも邪魔されない、独りの時間。人間が継ぎ接いだ無機物に埋もれて、自分を溶かしていく。そんな贅沢が許される、数少ない環境が此処ここだった。世界と自分が入り混じって、何か別の物が生み出される。そんな様な気がした。

 しかしそんな贅沢が続くのも束の間というもので、十分の後には他の生徒が教室に声を響かせていた。蝉の声よりも随分と暴力的な音の束が、右から左から鼓膜を殴る。

「昨日のテレビ観た?」「待って課題やってくるの忘れた」「あー、あの特番?」「なんかうちのクラス顔面偏差値高くね?」「ワークの答えなら今持ってるけど」「そーそー、それそれ」「この前貸した本どうだった?」「いや、それな」「うわ、神ですか」「コア過ぎて逆に笑ったよね」「いや、これ個人的な意見なんだけど」「あがめたてまつれー」「非常に良いって感想を述べとくね」「お?お?つまりはそういうことですか?」「まじでわかるわー」「いや、ちげーって」「あ、お気に召したー?」「じゃ、お借りしまーす」「いやー、応援してるよ~」「なんだっけ、あの、その、ほら」「ほんとあそこの司会の反射神経よ」「レンタル料十万ジンバブエドルな」「だーかーらーさー」「価値が雑草以下なんだが」「日本語出てきてないじゃん」「何話してんのぉ」「どっかの右側のページの真ん中らへん」「まあ流石にまともに金取ろうとはしないよ」「いや、えっとその」「おはよー」「なんちゅう覚え方しとんねん」「軽くバケモンやったよな」「あ、おはよ」「ね、ね、昨日出た新曲聴いた?」「なになにー?私に言えない話?」「あ、もしかしてあのセリフ?」「ちょま、これ課題じゃねぇ」「聴いた聴いたー」「なんでそれで心当たりあるの?」「あ、もしかしてそういうやつー?」「ごめんそれ赤チャのやわ」「いやわかるくね?」「ミュージックビデオかわよすぎて軽く死んだわ」「否、断じて」「百鬼夜行には笑った」「よし、君達は変態だ」「わかる。周回しといた」「なしてよ」「そー、聞いて聞いて」「えっとねー」「なんで赤チャ持ってんだよ、うち黄チャじゃん」「わーわー黙れ黙れ」「あの子の噂?」「ほんとあの人の調整神がかってる」「変態言うなし」「へぇ」「突然の歌詞テロやめてもろて」「変態呼ばわりはばらん」「いいじゃん趣味だよ」「そういや百鬼夜行ってなんぞや」「あの人はヤバい」「そういやクラティー集金いつだっけ」「うわ、こいつ学力ひけらかしてやがる」「して本題は?」「ばらんて。変化球やめよかし」「ググれ」「明後日だよ~」「へぇって何さへぇって」「昨日おもいっきしドジかましてさ」「あとなんにせよ歌詞が良い」「ふぅん」「でもばらんって草以外もあるくね?」「うわー、自主性に任せる発言だー」「ありがと」「ほら、俺賢いから」「だからなによ」「はい乙」「それ極論じゃん」「あー、確かに。エビとか見たことある」「これクラス全体にもっかい告知した方がいいかな」「まだなんも言うてへんがや」「うちの校風なめんなよ」「あ、一限の用意してなかった。やってくる~」「処すか?」「一般的には草では?」「んー、明日でいいと思われ」「最終的には極論しかなくね?」「お?じゃあ続き言う?」「お前が言うなよ」「良かったね、手振って貰えたじゃん」「それはそう」「スリッパ履いたまま学校の外出た」「何ばらんの形について真面目に議論してんのさ」「ほ、ん、と、さ」「処せ」「はい乙、更新されず」「おけ、把握した」「それ言ったら終わる」「うわー、正論かましやがった」「まってこれって四面楚歌?」

 言葉の土石流に耳を塞いで、机に突っ伏して目を瞑った。煩い煩い煩い煩い。そんな言葉を呪詛のように撒き散らして、只々反響する言葉から身を守る。耳の中を飛び回った音たちが、まるでハウリングのように耳鳴りを呼び起こす。剥離片ささくれ立った神経が、更なる刺激に憔悴しょうすいし切っていた。

 荒れ狂う喧騒を三十分程度。全校に響き渡った予鈴と共に、教室は静寂を取り戻した。然しそれはやけに騒々しくて、収まり切らない脳の興奮を一層激しいものへと転じるのみ。くらりと歪む視界は総じて明瞭で、人やら物やらの表面は煌々と蛍光灯の明かりを反射していた。

 担任教師が耳元で扉を開き、外耳道を土足で教室に踏み込む。琴々きんきんと唸る声で私の鼓膜を切り付けた彼女は、白色に発光する板を配り始めた。よくよく見るとそれは一枚のプリントで、そこには大きな明朝体で、幹細胞保存手続きのお知らせ、と書かれている様だった。幹細胞、嗚呼、そういえば保存が推奨されているのか。そんな思考を巡らせて、然し停滞。この配布物が一体何をさせんとしているのか、それを理解する一歩手前で私の脳は文字を認識する、これが常識あるいは要求。そんな煮卵は黄金の視覚で円柱をかたど未曽有みぞうの大森林は氾濫して影響する。円柱は円錐へ旗又は三角錐へ求愛し巡回する達磨だるまは落下上昇下降打ち上がった。三日月は丸、罰、三角へと思想を改造し行き場を失ったベテルギウスはついに裏返ろうと足を生やして蠢き鳴き叫ぶ。回り始めた自動車が行き着く先は歯車と知って、点々と船へと性質を変えていった。私は私は正常だ。私は私で私は私以外の私を決して認めず認識しない。一般から限定への変更は認められず、それは第二熱力の法則が自信を語っている。我々は飽和する、改変される、一般化への道のりは何と素晴らしい事か。そう、の炎天下は語っているのだ。


   …─*─…


 目が覚めて、保健室という単語が脳裏をよぎった。白い正方形が敷き詰められた天井が、やけに眩しく目に映る。少しずつ意識は明瞭に、周期的な電子音が私の命をかたどっていた。遠くから小さな話し声がして、その方向に一枚のカーテンを認める。薄桃色のそれは、まるで世界を隔絶するかのような、そんな薄い膜だった。

「ですから、脳を混ぜ合わせなければ、次第に脳は腐っていく事でしょう。幸いにもこの病院には脳のストックが豊富にありますし、医師の腕も保証されています。幹細胞が保存されていない現状、そこから御本人と同じ脳を作ることは非常に困難を極めますから、少しずつ脳を入れ替える程度しか方法は有りません」

 会話の内容を良く聞きたくて、カーテンに手を伸ばす。けれどその手は宙を掴む事すら許されず、一切の反応を見せることはなかった。只一つ、転がっているだけ。継ぎ接いだ腕の肉達が、各々相容れない動作を互いに強制する。そんな違和感を抱えて、漠然とまばたきのみが私に従った。

 暫く後に電子音が数度鳴り、それから一つの影がカーテンに映った。その影はカーテンを掴むと、そのまま横へと引く。一度蛍光灯に目が眩んで、その先には母と、白衣を着た医師とおぼしき人物と、それから看護師だろうか、が見て取れた。私の脳はまだうつつき止め、朦朧もうろうと三人の人物に目をやった。

 私の意識の覚醒を認識した医師は、軽く安堵の表情を見せて、それからこう言った。

「今から幾つか質問をするので、『はい』なら一度、『いいえ』なら二度瞬きをしてください」

 優しい、そして少し眠気を誘う様な声に、了承の意を込めて一度瞬きをする。心の中は随分と静寂で、どこかすっかり、まるで冷たい水の中に居る様だった。

「ご自分の名前は分かりますか?」

 簡単な質問だな、と思いつつ、自身の名前を明確に出力する。驕?螻ア驤エ。その出力が正常であることを確認して、瞬きを一つ。一枚、心の膜が剥がれる。

「今日は何日ですか?」

 20r9蟷エ91譛?3譌・(()譖懈律。ちゃんと分かっているなと、瞬きを一つ。また、一枚。心は少しずつ冷静さを取り戻して、その形状をあらわにして行く。

 医師はなるほど、と呟いて、それから近くの椅子に腰掛けて口を開いた。

「今あなたの脳は、他の部位と同じように腐り始めています。最後に検診を受けたのが三年以上前の様ですから、その間に着々と腐敗が進んでいたのでしょう」

 淡々と告げられる事実に、只々鼓膜が振動する。嗚呼、そういう事なのか。そんな納得をした。自分の事など、分かっていた積もりだけだったのだ。そんな自虐的な思考が、脳裏を占有する。自分のメンテナンスすらろくに出来ずに、自分を認識していなかった。その因果が、今ここに立ち返ったのだ。

「どうやら幹細胞の登録も行っていないようですので、現状あなたが受けられる治療は現状の維持か、脳の混合の二択となります」

 そう、医師は続けた。思っていたよりも平凡な選択肢に、空回った驚きが隠れない。もっと大きな絶望に心を据えていた私の心は行き場を失って、力なくその場へ舞い落ちた。

 心の中で、提示された二択を秤に掛ける。世界を一つ取り込んで、私をもう一度形作るか。このまま動かず、生涯白と向き合うか。私の選んだ選択肢は至って平凡で、単純で、そして明瞭だった。ほぼ、一択というものだろう。

「混合手術、受けますか?」

 その問いに、私はしっかりと、瞬きをした。


   …─*─…


 黄ばんだ天井を視界に収めて、小さい欠伸あくびを一つ。伸ばした腕には縫合痕が走って、曲げ伸ばしをすると少しだけ、張った。頭を触ると糸が当たって、つい先程までそこが開かれていた事を想起させた。人間の頭って、開けれるんだ。

 なんだか歯車が嚙み合っていないような、そんな違和感を覚えて、もう一度欠伸をする。とっても眠い。薬が抜けきってないのかな。寝てしまうのって、つまんない。だって楽しい事がないじゃない。それから、もう一度欠伸をした。

 コンコン、と扉が鳴って、失礼します、どうぞ、なんて会話を繰り広げると、お医者さんと看護師さんが入って来た。冴えないおっさんだな、なんて考えて、そういえばに手術を提案した人だ、と思い出す。

「調子はどうですか? 痛みなどは」

 回りくどい言い方に半目になりながら、問題ないです、なんていい子ぶって答えた。えて痛みを訴えるなら、ベッドの上が退屈過ぎて死にそう。苦痛。ほら、これも痛みの一つじゃない。そんな愚痴を飛ばしたら、それは大変だ、なんてお医者さんも笑った。うん、冴えないって訂正。ちょっと愉快なおっさん。

 それから一問一答、これってなんて言うんだっけ、そう、堂々巡り。何度も同じような質問をされて、僕はそれに答える。なんか記憶の確認とからしいんだけど、僕には退屈過ぎた。あー、隕石降って来ないかな、なんて考えて、質問に答えて、うどん食べたいなー、なんて考えて、答えて、静かすぎて落ち着かないな、なんて考えて、答えて、延々延々。

 それからつまらない問答と妄想を繰り返して、お医者さんはお母さんを連れて外へと出た。なんだかひそひそと話してるようだったけど、どうやら聞こえないらしい。やっぱり、ひそひそ話なんてものはする方に限る。されるなんて、ストレス極まりない。

 外では蝉が元気に鳴いていて、夏なんだな、と感じる。たった一週間の命だ、好きなように生きてくれ。飛んで、鳴いて、巡って、出逢って、それから卵を産んだりして、次の世代の準備ができたら死んでゆく。なんともシステマティックに仕組まれた仕合せを願って、只々僕は嗤った。虫って、哀れ。

 もう一度、腕を這う縫い目に目を向けた。人間の繋いだ、仕合せの証だ。死とかいう運命を捻じ曲げて、生きながらえるこの人生。なんと素敵なことだろうか。終わり行く命を絡め取り、巡々ぐるぐるとかき混ぜて。そんなこんなで命を均一化して、それまで命が尽きることはない。

 退屈に伸ばした腕が頂点に達したとき、廊下からお母さんが入って来た。おかえり、と声をかけて、何を話してたの、なんて聞いてみたり。それからちょっと微妙な顔をしたお母さんは、ちょっとだけ、と答えて、それから声のトーンを幾分か上げて、明後日には退院できるらしいから、何か好きなもの食べない? 何でもいいよ、なんて言った。有耶うやにされたことに多少の憤りを感じながら、でもうどんが食べたい、大好きだから、そう答えて、にっこりと笑った。それを聞いたお母さんは、どこか寂しそうな顔をしていた。


   …─*─…


 入院の期間も終わって、僕はやっと退院した。地中から顔を出した、蝉の気分。糸の抜けた頭を触って、小さく頷く。久しぶりに頭上に広がる青空に、壮大な夏を感じざるを得なかった。夏だ。

 蝉の大合唱の中、諸々の手続きを済ませたお母さんが病院から出てきた。夏の暑さが身に毒なようで、真っ白な日傘を差そうと鞄に手を入れる。そんなものは見なかった振りをして、お昼ご飯、うどんね、と声を上げた。草臥くたびれたような、困ったような笑顔を向けて、はいはい、とだけ言って先程までと変わらぬ歩調で車へと向かう。仕方がないな、と笑って、お母さんの隣を歩いた。

 その後車で約二十分、連れてこられた食事処は、なんだかお洒落で、でも落ち着いた、そんなたたずまいだった。予約を取っていた中山ですけど、とお母さんが言って、店員さんが笑顔で案内する。内心少し緊張しながらも、漂ってくるいい匂いが食欲をそそった。

 案内された座席でメニューを開いて、全体にさっと目を通す。どれも千二百以上はあって、中には二千を超えるものもあった。恐る恐るお母さんに視線を移すと、どれでも食ってよし、と許可が降りた。心を小躍りさせながらメニューにもう一度目を走らせ、麺類のページで手を止める。数々の蕎麦、うどんが並んでいる中から、温玉狐下ろしうどんを選ぶ。うどんには諸々の小鉢もついているようで、刺身やら味噌汁やら、色々と美味しそうなものが。

 これにする、と言ってお母さんに言うと、また何か引っかかったような顔をして、蕎麦とか美味しそうだけど、なんて言った。確かお母さんって、蕎麦アレルギーだったよね、美味しいとかあるの、なんて聞いたら、これまた気まずそうな顔をして、いや、うん、何でもないよ、なんて引き下がった。変なの、なんて思いながら、僕はお母さんがご飯を選ぶのを待つ。暫く後に、大体同じ価格帯の定食を選んだお母さんは、店員さんを呼んで注文をした。

 それから料理を待って、その間に久し振りの一家団欒だんらん、とまではいかないけれど、久し振りに家族、というくくりで人と関わったような気がした。でもずっと、お母さんがよそよそしかった。なんだか初めて出会う人と話すようで、僕の一言々々に一喜一憂したり、妙に質問が多かったり。

 そんなことをしている間に料理が来て、食べて、話して、食べて。僕が美味しいって言う度に、嬉しそうな、寂しそうな、そんな表情をコロコロと変えていくお母さん。それだけが随分と不気味だった。楽しい食事も行き詰って、口数はどんどん少なくなっていった。美味しいはずのうどんはゴムみたいにぶよぶよに感じて、出汁は水のように薄かった。ついには誰も喋らなくなって、沈黙。

 耐えきれなくなった僕は、とうとう口を開いた。

「一体なんなのさ」

 それだけ言うと、お母さんは口を魚のようにパクパクさせて、つぐんで、大きく開いて、また閉じて、息を、吸って。















 それから、こう言った。

「✕✕✕」

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短編小説 糸永幸湖 @CokoItonaga

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