一言日記

壱ノ瀬和実

一言日記

 あるときから、一言日記をつけるようになった。

 具体的なことは一切書かない。ただ一言、『ありがとう』『ごめん』『嬉しかった』『苦しい』。その日感じたことだけをスケジュール帳に書いていた。

 時折昔のスケジュール帳を引っ張り出してみる。

 ボールペンで書かれた無数の一言がずらりと並ぶだけのページたち。

 おいしかった。

 ありがとう。

 ごめん。

 我慢の限界。

 嬉しかった。

 痛い。

 悲しいかなマイナスな言葉の方がすぐに記憶と結びつく。

 前向きな一言に記憶が付随しないのは、自分にとってあまり意味を成さない事柄だったからなのだろう。

 一言日記を始めて思った。

 人間は無数のありがとうを忘れているということ。その時々に抱いた感情なんて、瞬間に感じているだけであるということ。

 始めたばかりの一言日記については殆ど思い出すことができなかった。それだけ多くの感情を忘れているということにもの悲しさを覚えた。

 久しぶりに、ビールを開ける。美味い。これを日記に書いても一週間後にはもう思い出せないだろう。勿体ないな、感情が。

 ページを繰る。

 一日だけ、何も書いていない日があった。

 書く必要もなかったのだ。

 絶対に忘れられない一日がある。


「日記でも始めなよ。毎日何かを続けるって大切だよ」

 彼女がそう言ったことが全ての始まりだった。

 最初は手間だった。だが慣れれば大したことはない。大したことを書いていないからだ。

 彼女はいつもスケジュール帳を開いて、そこに書いてあることについて嬉々として訊ねてきた。

「このマズいってどういう意味?」「じゃあこの申し訳ないっていうのは?」「誰にありがとうって思ったの?」

 俺はそれを、少し面倒だと思っていた。

 流すように答えたことを憶えている。どう答えたかは、憶えていない。

 それを、今は酷く後悔している。

 彼女からの問いかけがなくなったのは、それから暫くしてのことだった。

 病院のベッドに横たわる彼女に、俺は何もしてあげられなかった。

 苦しそうにする彼女に、俺は今日あったことを話した。返事はなかったが、それでも話し続けた。

 そして空白が訪れた。

 瞬間、俺の頭は真っ白になった。

 何も出来ない自分の不甲斐なさも無力さも全ては彼方に消え去って、視界に滲む涙が頬を伝うまでに時間はかからなかった。

 一年前の今日。一言日記は空白だ。

 何も書かなくてもすぐに思い出すことが出来る、永遠に忘れない一日。


 慈愛に満ちた表情で、彼女は囁くように言った。

「一歳のお誕生日おめでとう。わたしたちのところに産まれてきてくれて、本当にありがとうね」

 一言日記に書くまでもなかったこの上ない幸せを、俺はいつになっても思い出すに違いない。

 無数に忘れていく感謝も、少しずつ過去になっていく悲しみも、これから記されていく様々な感情の機微も。

 今日と言う日に刻み続ける幸せに勝ることは、きっとないだろうから。

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一言日記 壱ノ瀬和実 @nagomi-jam

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