第125話


 静かだ。

 風はない。虫たちの鳴き声も。

 生き物の、呼吸の音すら。

 まるで、大嵐を前に必死に息を潜めているかのよう。

 実際、その通りだ。明日になれば、大嵐が起こるのだから。

 今いるのは、人影のない廃墟群、かつてブレンダの街だった場所、旧市街。

 傍らには、キリがいる。野営用の毛布に包まっている。

【名無し】の剣士は、空を仰ぎ見た。

 目を、細める。広がるのは、この世の全ての宝石を散らしたような、美しい夜空。

 その中心に、月が座す。

 しんしんと投げかけられる、柔らかな光。

 月は、好きだ。月は、全てを受け入れてくれるから。


「お月さん、好きなのかい?」


 正面からかけられる、声。

 ビリーだ。焚き火に、取り出した瓶の中身、ざらめを思わせる粉をふりかけている。


『粉?』


 変化はすぐに起こった。

 粉を振りかけられた瞬間、燃える勢いが強まる。

 その際、炎が眩しい緑の色を帯びた。しかし、それは一瞬のこと。すぐに元に戻る。


『……?』

「【炎妖精ほのおようせいの粉】、炎の勢いを持続させるお守りだ。薪を代えなくても、軽く一晩は持つ。あと、魔物よけの効能もある。安心してのんびりできる」


 言葉から察するに、【異世界】のまじないの道具らしい。


『へぇ〜……便利だな、【異世界】』


 炎の向こうで、ビリーは獰猛に笑っていた。


「……今夜は寝かせないぜ?」

「ビリーさん……!?」

「この破廉恥【騎士ドラウグル】が……!」

「誤解を与えるようなことを言うんじゃないのよ! このバカチン【騎士ドラウグル】!」

「冗談に決まってんだろーが! ちょっと色々話とかないと後々面倒くせぇことがあるんだよッ!」






 時計の針を戻そう。

 黒札が貼り出される前日、その夜。


「ここを出るぞ」


 ビリーは、キリたちに荷物をまとめるよう言った。


「明日、冒険者ギルドに黒札が貼り出される」

「黒札?」


 聞き慣れない言葉に、キリは首を傾げる。


「それって、依頼が書かれた札、だよね? 黒札ってことは 黒い紙に書いてあるの?」

「ああ。……人狩りマンハントの依頼がな」

「え……?」


 意味は分からない。だけれども、ひどく不吉な響きの言葉から察するに、何か恐ろしいもの。


「なに……それ」

「言葉のままの意味さ。人の命に金が賭けられたってこと」

「……ビリーさん、命って、お金に……なるの?」


 冗談だと笑い飛ばして欲しかった。だけれども――


「なるよ。つーか、人命が軽視される場所じゃあ、別に珍しくねーぜ。アメリカ大陸西部ワイルドウエストじゃあ、普通だったしな」


 あっけらかんとした口調で、ビリーは返してくる。


「そういうわけだ、冒険者連中がお前を見る目は、明日から変わるぜ。デッド・スワロゥ、12億イェンの賞金首。おめでとう、明日から熱烈な追っかけには困らんぜ」

「なんで、そん、な……! どうして!? デッド・スワロゥは何も悪いことなんか」

「どうして? そんなの、決まっている」


 何を今更? とばかりに、傍らに出現したディスコルディアが鼻を鳴らす。


「お忘れかな、キリ? お前を助けるためだけに、お前がデッド・スワロゥと呼ぶこの【魔神】ディスコルディアの【騎士ドラウグル】は、かなりの殺戮をしているのだ。なのに、賞金を賭けられるに値する恨みつらみを、大人買いしていないとでも?」

「…………」


 キリは、絶句する。

 その通りだ。

 でもそれは、全部キリのために、キリを護るためだけにやってくれたことだ。


「全部、わたしの、せい……?」

「キリちゃん、【魔神】とかいう倫理道徳ぶっちーズが言うことなんか、まともに受け取んな」


 ぽむ、と。

 気を落としかけたキリを慰めるよう、頭に手が乗せられる。あやすように、優しく撫でられる。


「デッド・スワロゥ……」


 眼の前には、いつの間にかデッド・スワロゥがいた。

 見上げる、目が合う。

【魔神】との契約の代価デッド・スワロゥは喋ることができない。

 だけれども、その目はキリに言っていた。「俺は大丈夫だ、気にすんなよ」——と。


「うん……ありがとう」

「よし、支度完了! とっととここを出ようぜ、皆様方。念のため、普通の出口じゃなくて、従業員の出入り口から出ようか」


 その後、ビリーの誘導に従って、キリたちは【おしどり亭】を後にする。

 そして、ひとまず旧市街に避難したのだった。






 そんなわけで、【名無し】の剣士たちは、旧市街にいる。


「しかし、何故、旧市街なのだ。人混みに紛れて、街の外に出ればいいのではないか?」

「愚問だな」


 ディスコルディアからの問いに、ビリーは笑って答える。


「連中の裏をかく」

「我が同胞たる【魔神】イシスの【騎士ドラウグル】ビリー・ザ・キッドよ……なにか、策でもあるのか?」

「ああ」


 意味深な表情で、ビリーは頷く。


「……とっておきのが、ね」







 夜が明ける。

 日が昇る。

 賞金を求める冒険者たちが、旧市街に集束していく。


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