第103話


 うんうん頭をひねるイシスを、ビリーは鼻で笑った。


「どうあっても手に入らないからこそ、欲しいんじゃねーの? まぁ、俺は関わり合いたくなんざねーけどなー」


 もっとも、命の倫理を弄ぶ【魔神】たちには、こんな簡単なことさえ分からないだろう。


「それより、我が契約者たる【騎士ドラウグル】ビリー・ザ・キッド、用足しだけでどこまで行くのよ」


 ビリーは意図的に無視する。

 そして、唐突に、立ち止まった。


「我が契約者たる【騎士ドラウグル】ビリー・ザ・キッド?」


 眼前には、朽ちかけた教会。その周辺にはちょっとした広場。

 風が吹いてくる。昼寝したいくらい、穏やかな陽気だ。

 そんな中、聞こえてきたのは小鳥じみた口笛。

 ビリーは、口端を上げる。

 合図だ。多分、時間通り。

 口笛を返す。

 やけに大きく響いたのは、周囲から小鳥の声がなくなったからだ。

 それもそのはず。

 のそり、と。

 教会の影から、そいつらは姿を現す。

 星の瞬きのように柔らかく輝く銀の毛並みの狼が二匹。

 最強種の魔物、フェンリル。名は確か、ボレアスとソール。


「ワフッ!」

「ワフッ! ワフッ!」


 ビリーの姿を目にし、二匹は尻尾を振る。


重畳ちょうじょう重畳ちょうじょう。くたばっていないようで、よかったぜ」

「…………」


 フェンリルたちに付きそう彼は、渋面だ。軽口に答えず、黙ってじっとビリーを見ている。

 その、ゴブリンの亜人の老人は。


「久しぶりだな、ゲンゾー爺さん」













「ビリーさん、遅いな……帰ってこないな……」


 大きい方にしても、いくらなんでも遅いような気がした。


「…………」


 そういえば、前にも同じようなことがあった。

 ロロのことを思い出す。

 仲の良かった、オークの亜人の男の子。バッタ取りが上手で、ボーラさんが作ってくれるお菓子が大好きだった。家の手伝いが終わると、みんなでいつも一緒に遊んだ。

 そんなロロは、結婚式のとき、トイレに行くと言ってそのまま戻ってこなかった。


 ――もし、あの時、引き止めていたら。

 ――それ以前に、キリがなにか危険を察知できていれば。


 心の奥底。蓋が、わずかに、ずれる。

 思い出さないようにしていたものが、溢れてくる。

 ブルースプラウトを袋に詰め込む手が、止まった。手が細かくぷるぷる震える。折角摘んだブルースプラウトが、ぼろぼろ落ちてしまう。


「…………」


 できるだけ、考えないようにしていた。なるべく思い出さないようにしていた。悪夢になったって、なるべく早く忘れるよう努力していた。

 デッド・スワロゥに、迷惑をかけたくないから。

 だけれども――


「考えちゃダメ、考えちゃダメ、考えちゃダメ、考えちゃダメ……」


 目を閉じて、呟く。

 あれは過去だ。どうあったって戻れない。

 分かっているはずだ、なのに――


「ロロ……」


 じわっ、と。まぶたの裏が、熱くなる。つんっ、と。鼻の奥が、痛くなる。

 震える息を吐いて、「ひくっ」と嗚咽を漏らす。

 歯を食いしばって、溢れだそうになるものを堪える。


「……え?」


 髪に、そっと、手が触れられる。


「デッド・スワロゥ……?」


 目を開いて、驚く。

 いつの間にか、デッド・スワロゥが目の前にいた。

 しゃがんで、片手だけで、キリの髪に触れている。

 キリは、顔を上げた。


「……こやつから伝えろと言われているから、伝えてやる」


 その背後に、ディスコルディアが降り立つ。


「『部外者の俺が言うのもアレなんだけどよ、こんなこと』」

「…………」


 交互に、二人の顔を見た。


「『泣けよ、辛いんなら。別に俺は、迷惑だとか思ってないし』」

「…………」

「『演じるなよ、大丈夫だっていう自分を、無理してまで』」


 キリはわずかに首を振った。

 不器用だけど、優しい言葉だ。

 ディスコルディアを通じてだけど、初めて聞く、デッド・スワロゥの言葉は。

 髪に触れているデッド・スワロゥの手に、自分の手に重ねる。


「ありがとう」


 そして、キリは、静かに涙を流した。


「もうちょっとだけでいいから、こうさせて」


 デッド・スワロゥは軽く頷いた。

 刀を握る手は大きくて、ごつごつしていて、硬かった。

 でも、温かさある。

 キリはしばし、そのぬくもりに甘えた。


 故に、キリは気づけなかった。

 自分たちの様子を、戻ってきていたビリーが複雑そうな目で見ていたことを。

【魔神】ミスラが、いつの間にか姿を消していたことを。

 なにより、ロナーの形見のペンダントが、また、ぼぅっと光を放っていたことを。

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