第89話


 ――キリは、夢を見ていた。


 息が詰まりそうなくらい濃密な闇の中を、キリは一人、歩いていた。

 行くあてなんてない。ここがどこなのかも分からない。

 何故、自分がここにいるのかも。

 それでも、歩きつづけなければならない。

 トルシュ村はもうない。優しかったみんなもいない。

 かけがえのない日々は、恐ろしい暴虐によって終わってしまったのだから 。

 この暗闇がどこまで続いているのか、キリには分からなかった。

 もしかしたら、どれだけひたすら歩き続けても抜け出せないのかもしれない。

 この暗闇に、終わりなど最初から存在しないのかもしれないから。

 不意に、闇が取り払われる。


「……!?」


 キリは、小さく悲鳴を上げた。

 闇なきそこには、広々とした空間が広がっている。

 ほぅっ、とキリは息を吐く。

 荘厳な空間だった。

 絵本に描かれる、いにしえの王国の王様が住まうお城の深い場所は、このようなものなのかもしれない。

 そこには、たくさんの人たちが集まっている。

 肌が白い人、黒い人、黄色い人、褐色の人。

 男もいれば、女もいる。老人もいれば、子供もいる。


 トーガの美丈夫、墨染の衣の暗殺者、車椅子の看護婦の老婆、軍服姿の男装の麗人、忍び装束の青年、きらびやかなドレスの女ガンマン、全身に傷を走らせた厳しい戦士、隻眼の老将、純白の法衣の女性、ライフルと剣を持つ女傑、不遜な態度の魔術師、黄金を纏う少年王、巨漢の僧兵、大槍を背負う武人。


 何故かは分からないけど、その人たちが「異なった」世界から呼ばれた人たちなのだということだけは、キリには分かった。

 その人たちが、【騎士ドラウグル】であることも。

騎士ドラウグル】たちの面持ちの先には、王座がある。

 長い階段の頂点、遥かな高みからこの場を見下ろすよう座すのは、彼ら彼女らを統べる王なのだろう。


「……あ」


 人々の間から、一人、進み出る者がいた。

 その姿を見たキリは、後を追う。

 鮮やかな赤い長い髪を揺らし、その人は歩いていく。

 長身の男だ。

 身に纏うのは、金糸銀糸の縁飾りが施された、儀礼用と思われる軍装。

 胸や四肢には、甲冑を簡略化した装飾品。華を添えるのは、黄金よりもずっと価値があるという、琥珀とエメラルド。

 黄金の肩当てに留められるのは、鮮やかな貝紫かいむらさきの色に染め抜かれたマント。

 顔の上半部は、鳥を思わせる仮面で覆われている。


「デッド・スワロゥ!」


 姿かたちは違った。

 だが、キリには彼が「デッド・スワロゥ」だということが分かる。


「待って、デッド・スワロゥ!」


 キリは、男を追いかけた。


「駄目! わたしを置いていかないで!」


 必死で追いかける。

 なのに、距離はちっとも縮まらない。

 そして、キリは目にする。

 はるかな高みに座すのは、一人の女性だった。

 異様な風体の女性だ。

 身に纏うのは婚礼の衣装。だけど、本来純白であるはずのそれは、不吉な漆黒に染め抜かれている。

 顔は、見えなかった。レースで編まれたヴェールで隠していた。

 女性が立ち上がる。その前に、デッド・スワロゥは立つ。

 二人は、しばし、向き合った。

 女性が、おもむろに手を伸ばす。細い指が、デッド・スワロゥの頬を愛おしげになでる。

 耐えられなくなって、キリは叫んだ。


「やめて、デッド・スワロゥ! そっちになんか行かないで!」













 叫んだ瞬間、周囲の光景はかき消えた。

 キリは再び、息が詰まりそうなくらい濃密な闇の中に一人、残される。


「あの男は、今に、お前以外の女とああいう風になる」


 そんなキリを、ひとつの声が嘲笑う。


「あの男は、今に、お前など見向きもしなくなる」


 その声は、まるで、楽園の禁忌の果実を食べるよう誘惑する、蛇のように甘美なもので――













「キリちゃん、どったの? ひっでぇ顔してるぜ?」


 ふかふかの焼き立てパン、オニオン入りのコンソメスープ、かりかりのベーコンに目玉焼き。

【おしどり亭】は一階が食堂、二階が寝泊まりできるスペースになっている。

 ビリーの話によれば、一泊の料金に追加料金を支払えば、朝夕の二食は出してくれるとのこと。井戸は無料だけど、お風呂を使わせてもらうためにはまた別の料金を払わないといけないという。

 食堂で出された朝食は、どれもおいしいはずのものだ。女将が腕を振るって作ってくれたものなのだから。

 だけれども、キリはそれらをぼんやりとした表情で、ただ口に運んでいる。


「酷い夢、見ちゃった……」


 ビリーはそれだけで察したらしい。「ごめん」と、謝罪の言葉が返ってくる。

 誤解で抱かせてしまった罪悪感に俯くビリーを、キリはじっと見ていた。

 ――女の人、なんだよね? ちゃんとした、大人の。

 だけれども、その傍らで退屈そうに欠伸をしている【魔神】イシスは言っていた。


 ――「それに、お前は女である以前にもう人間じゃないのよ。わたしと契約し、供犠くぎとして子宮を捧げたお前はもう、【騎士ドラウグル】なのよ」


 月のものが来た時に、キリはそういう知識を既に学んでいる。

 子宮が無いってことは、月のものがもう来ないこと。

 月のものが来ないってことは、ビリーはもう、子供を産めない身体なのだ。

 ――でもなぁ……。

 子宮が無くても、その気になれば多分、子供を作るための行為だけはできるはず。


「キリちゃん、マジで大丈夫か? 顔、真っ赤だぜ?」

「キリよ、お前、なに不純なことを考えている」

「ちょ、ディスコルディア?」


 いつの間にか、傍らに【魔神】ディスコルディアが浮いていた。


「フフフフーン♪ まさか、嫉妬しているのか?」

「そ、そんなこと……」

「隠さなくてもいいだろう。我が【騎士ドラウグル】【名無し】の剣士は、美しい男だ。刃を振るい、殺し、流血に彩られる姿……あれほど美しいものはどこの世界にも存在せぬ。キリよ、お前もそう思うだろう。だが……」

「……!!」


 次の瞬間、発せられたディスコルディアの言葉は、キリの心を深く抉る。

 がたん! と、自分でもびっくりするぐらい大きな音を立ててキリは立ち上がった。

 一体何だという、驚いた面持ちのデッド・スワロゥと目が合う。

 瞬間、羞恥心が大爆発した。


「ト、トイレ、行くだけだからっ!」


 そのまま、キリは食堂を飛び出した。






 廊下に飛び出したキリは、立ち止まって顔を覆った。

 心臓の音がうるさい。なにより、顔がものすごく熱い。

 夢の中で言われた言葉を思い出す。


 ――「あの男は、今に、お前以外の女とああいう風になる」


 ――「あの男は、今に、お前など見向きもしなくなる」


 

 そうなのかもしれない。


「わたし、まだ、子供だよ。なんにもできないよ。でも……でも……」


 想う気持ちだけは誰にも負けないはず。

 デッド・スワロゥは命の恩人で、キリのために戦ってくれる【英雄】。

 でも、当の本人は、キリをちゃんと見てくれているのだろうか?

 ずるずると、しゃがみこむ。

 とどめになったのは、ディスコルディアの最後の一言。


「しかと覚えておくがいい、キリよ。我が【騎士ドラウグル】は、お前になど……いや、他の誰にも渡しはせぬ。【名無し】の剣士は、この【魔神】ディスコルディアだけのものだ」













 ビリーは、ディスコルディアの親バカならぬ【騎士ドラウグル】バカぶりを、ジト目で見ていた。


「ホント、容赦ねーな。つーかイシス、少しは見習えよ」

「どういう意味なのよ」

自分てめぇで考えろや。……それより、食ったら行くぞ。今日からお仕事だ」

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