第84話
月が、地上に冷えた光を投げかけている。
帝宮ラグナロクは、夜の静けさに支配されていた。
その奥部、
王族の血筋に連なる者たちが住まうスペースに、ベラドンナの執務室はあった。
指輪の印章が、書類に押される。
凝った首を回し、ベラドンナは顔を上げた。
【六竜将】であり宰相のメギドは一礼し、書類を受け取る。
目を通し終わると、机の上の書類を集め、整理していく。
扉の外に控えていた侍従に書類の発送を依頼すると、メギドは室内に戻る。
「お疲れ様でございました」
「ペンは剣よりも重い、と「異なった」世界では言うらしいぞ」
「左様で」
メギドが作業をしている間、ベラドンナは壁を見上げていた。
そこには、一枚の絵画が飾られている。
「陛下、お身体に障ります。どうか、少しお休みになられてください」
執務椅子に深く座ったまま、ベラドンナは険しい顔で絵画を見ている。
立ち去ることが出来ず、メギドは主君の顔を見た。
胸に去来するのは、複雑な感情だ。
「……まだ、かつての傷は癒えませぬか」
「イカズチ、残念だったな。……いずれ、竜将アルデバランや海将ゲードルードの域に達するはずの、すばらしい戦士だった」
「陛……姫さま。お疲れのところ、かつてのことを思い出すのはおやめくだされ。お心の傷に響きます」
「また私を置いて、一人逝った」
答えは返ってこない。
ベラドンナの目に、現実は映っていなかった。その目はただ、絵画だけを見ていた。
「異なった」世界から伝わったというそれを描いたのは、ギュスターヴ・ドレという画家なのだという。
天にいとまを告げた堕天使の長は、その下に広がる世界へと向かい、止まることなく落ち
ていく。
成功を期しながら、真っ逆さまに。
確かこれは、『
「一敗地に塗れたからといって、それがどうだというのだ?
すべてを失ったわけではない。まだ、不屈不撓の意志、復讐への飽くなき心、永久の憎悪……降伏も帰順も知らぬ勇気があるのだ」
「…………」
メギドは知っている。この絵画は、今はベラドンナと呼ばれる彼女が自分自身に科した戒めであることを。
常に隠し持つもう一つの意思。
メギドが仕える本当の主君が味わった屈辱を、痛みを、なにより怒りを、決して忘れぬ彼女の。
「どうかもう少し御身をいたわってください。いくら健康なお身体を得たとはいえ、倒れては話になりませぬぞ」
「……あれからどれだけの月日が流れた、じい? 我が祖国が、【転生者】どもに蹂躙され、穢されて……!」
「姫さま!」
軍靴の音が響いたのは、その時だった。
「お取り込み中だったか?」
歩み出たのは、【黒竜帝国】のものではない軍服を纏った男。腰に帯びる得物は、日本刀。
男性の美しさとストイックさ、戦士としての凛々しさと厳しさ――そして、殺す者としての異質さと虚無を己が物として従え、不吉な死のシンボルにして祭具たる漆黒の棺桶を背負うのは――
「土方か」
「【
主君の姿を認めた【騎士(ドラウグル)】、土方歳三は一礼する。
「……【
その時にはもう、ベラドンナは【黒竜帝国】を統べる女皇帝の顔を取り戻していた。
「急で悪いが、ひとつ頼まれてほしいことがある。
件の男……我が忠臣にして誉れ高き戦士、【六竜将】イカズチを討った【
決して、殺すな。生きたまま、必ず、わたしの目前に引っ立ててこい」
「…………」
返答は、捉えようのない沈黙で返される。
「不服そうだな。同族を討つことは、お前たち【
「てっきり、殺してこいと言われると思っていたんだが」
「いかなる理由があれ、一国の統治者が私情で物事を動かしてはならぬのだ。生憎、今のわたしは【黒竜帝国】の皇帝という身分なのでな」
「…………」
「不服か?」
「確かにそれは正しいことだ。だが、お前はそれでいいと本当に思っているのか? お前の本心は、復讐を望まないというのか?」
「……そういう、わけでは」
「戦争好きの侵略国家の君主らしくないな」
「なっ……!? なんと、無礼な……!」
ベラドンナへの不遜な態度を咎めようと、メギドは口を開きかけ――しかし、土方の視線に押しとどめられる。
その切れ長の眼が発する光は、人を斬るためだけに生み出された刃のようだった。
エルフとして長き時を生き、様々な形で数々の戦場で場数を踏んできたメギドでさえ、寒気を引き起こす。
元は、「異なった」世界、
されど、今は【
殺戮と流血を望む人ならざるもの、死をまき散らすこの世ならざる存在。
振るう力は、文字通り災禍。持ち得る強さに震え上がらぬ者は皆無。
【
「相変わらず、手厳しいな……
「弁えすぎなんだよ、お前は。上に立つ者として」
「……ならば、
「言われずとも」
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