第54話
母は、美しい
自分の出自をまだ何も知らなかった幼い彼は、純粋に慕っていた。
母にしてみれば、おぞましかったに違いない。
転びバテレンの戯れで犯され、孕まされ、望まず産み落とした子供の母親にされたのだから。
物心ついた頃には、彼はもう母に憎悪されていた。名前すら授けられなかったのが、その証だ。
彼を見る母の目は、常に暗く淀んでいた。精神が不安定になると、金切り声と共に平手や物が飛んできた。たまにかけられる声には、癒えることのない冷たい憎悪があった。
そうである理由の全てを知ったのは、七歳の頃。
夏の夜道を、彼は母の手に引かれて歩いていた。
どこに行くのか聞いたら「お前が生まれる前の場所に帰るだけ」としか答えてくれなかった。
幼い彼は、それがどういう意味なのか、勿論知らない。初めて母に手を引かれて歩くという嬉しさが、思考を止めていたのだから。
やがてたどり着いたのは、静かな淵だった。
夏独得の、湿気を含んだ生温い空気。ぷぅんと甘い、水のにおい。儚い命の光を灯し、飛び交うホタルたち。
彼は目を輝かせ、その光景を夢中になって見ていた。
故に、母がしようとしていることに気づかなかったのだ。
彼の背後に、母はそっと忍び寄り――彼の小さな背を、どんっ! と強く押した。
当然、彼は淵に落ちる。彼は当然、這い上がろうとする。
水を吸った着物の重さで立ち上がれず、もがいていると、母は淵に入ってきた。
そして、彼を仰向けにした。首に手をかけやすくするために。
両手の五指が、彼の首に食い込む。
気道が圧迫され、息ができなくなる。
声を出すことすらも。
「死ね」
母は、ただ冷淡にそう言った。
声に、彼を罵る憎悪はない。聞きようによっては、それが安堵に聞こえなくもなかった。
自身の運命を狂わせ、散々苦しめた諸悪の根源をようやく断てるのだ、当然と言えば当然か。
「生まれ落ちる前の場所へ帰れ。お前が本来在るべき場所へ戻れ」
この時、母が一体どういう顔をしていたのか、彼は分からなかった。
やがて、目の前が真っ黒になる。
なのに、母の声だけははっきり聞こえていた。
意識が、遠のいていく。
「去ね。
ああ、そうか。
納得する。母にとって彼は、そもそも人間ですらなかったのだ。
――「まさか、思い出すことすらできないというのか?」
――「分かっていないのだな。自分が一体、どういう存在であるのか」
――「わたしはかつて、我が秘術にて、自らの神と
この十数年後、成長した彼は全ての元凶である転びバテレンの男、自身の父親にあたる存在と相対することになる。
――「かくして、
――「お前を胎に宿し、そして、血潮と共にこの世に送り出した」
――「さながら、お前は闇の
実際、そうらしかったのだから。
だが、全てをまだ知らない幼い彼は、意識を手放し、そのまま闇に意識を委ね――
「なにをしている、【名無し】の剣士!」
――る寸前、意識が声を捉える。
「今一度、
母のものではない声は、彼の名を呼ぶ。
「悪意の過去など、嬉々と斬り払え! 理不尽など、鼻で笑って叩き斬れ!
斬り捨てろ、自分を縛るものなど!」
声は、彼を鼓舞する。
否、声ではない。
それは、
「抗え、そして、戦え! 我が【
そうすることを望んでいたはずではないのか、【名無し】の剣士!
かっ! と――【名無し】の剣士は目を開いた。
生きながら焼かれるクロムクルゥワハの咆哮が、びりびりと耳朶を震わせる。
「デッド・スワロゥ!」
キリの声も、聞こえた。見れば、亜人と思われる男の腕に抱きかかえられている。
「ようやく起きたか!? やれるか、援護なら任せろ!」
手のひらサイズの濃緑色のドングリのようなもの――【名無し】の剣士は知らないが、召喚した
「殺っちまえ、デッド・スワロゥ! ド派手に殺っちまえ!」
『言われなくても』
立ち上がる。既に立ち直っているから、ふらつくことはない。
刀を構える。
そのまま、突っ込んだ。
〈く、来るなぁぁぁ!〉
悲鳴と共に、クロムクルゥワハは滅茶苦茶に腕を振り回す。
『往生際が悪いぜ!』
【名無し】の剣士は、それらを全て掻い潜り――
ずどがんッ!
――痛恨の一撃を、ぶち込む。
『てめぇの負けだ! このぶよぶよ腐肉野郎がッ!』
それが、最強種の魔物、【陰月】クロムクルゥワハの最期となる。
「おっかねぇ……けど、すげぇ!」
驚嘆と畏敬で身体が震えるのを、ビリーは感じていた。
一体、どれだけの力を叩きこめば、こうなるのか。
足元に黒い肉片が、クロムクルゥワハの砕けた身体の一部が、べとん! と落ちてくる。
【名無し】の剣士の渾身の一撃は、クロムクルゥワハを、文字通り粉々に吹っ飛ばしていた。
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