第53話
【名無し】の剣士は、道なき道を駆けていた。
キリの悲鳴が聞こえたからだ。
「一つ聞くぞ、【名無し】の剣士。あの小娘を助けて、何になるというのだ?」
並飛行するディスコルディアは、不満そうだった。
「くだらぬ。絶望しきった者など、わたしにとっては
『ソイツは、違うと思うぞ』
「ほぉう? 何故、そう言いきれる?」
『絶望しきった奴ってのはな』
【名無し】の剣士は、言葉を返す。この程度のことぐらい、経験として知っているからだ。
『そもそも、叫べねえんだよ。叫ぶことすらできやしねぇんだよ』
「一理ある。だが……」
『……?』
「本当に、それだけか?」
『ソイツは、どういう』
「理屈に合わぬことができるのが、そもそも人なのだろう。だが、お前は……」
『ディスコルディア?』
ふと見えたその表情は、人を食ったような笑みを常に浮かべ、不敵な態度と口調を崩さない、【魔神】ディスコルディアのものではなかった。
「……人ではなく、最早【
答えに詰まる。
まさかこの【魔神】、嫉妬しているのか?
そうこうしているうちに、視界が開けた。
脅威の前に、キリがいる。
悲鳴を上げる獲物を前に、クロムクルゥワハは嗤っていた。
恐怖を含んだ血や汗を発する生き物の匂いほど、いいものはない。
その一方で、引っかかるものがある。
長い時を生きたクロムクルゥワハは、様々な種族を喰ってきた。
しかし、目の前の獲物は、キリは、そのどの種族にも当てはまらないにおいがする。
憶えがない、というわけではないだが――
〈……!?〉
瞬間、クロムクルゥワハは身体の表面が粟立つのを感じた。
本能が告げている。恐れるべき危機が、今一度迫ってきている。
〈来たね!〉
木々の間から、影が飛び出してくる。クロムクルゥワハに、真っ向からやって来る。
脅威を前に、今再び相まみえた赤毛の男――【名無し】の剣士を、クロムクルゥワハは嗤っていた。
そう何度も、やられてたまるか。
こういう、厄介な奴を相手にした時の秘策を発動させる。
「〈GAOOOOOOOOOOOOON!!!!!!〉」
クロムクルゥワハは、咆哮した。
『……!?』
それだけだ。
ただ、それだけで、【名無し】の剣士が――
どさっ!
――倒れる。
「デッド・スワロゥ!?」
にわかに、信じられない光景だ。
【黒竜帝国】の兵士たちを、【六竜将】イカズチを倒した【
「な、なんで!?」
「ちっ!」
ディスコルディアが、姿を現す。
地に伏した【名無し】の剣士の傍らに、降り立つ。
「デカブツのくせに、無駄に頭が回るな!」
白目を剥き、喘鳴を吐きながら痙攣する様を見たディスコルディアは、歯嚙みする。
こいつ、やりやがった。
完全に想定外である。物理的攻撃では敵わぬからと、まさかこんな手でくるとは。
咆哮とはそもそも、強化された大声である。面と向かってぶつけられれば、大抵の者は委縮するだろう。
だが、【名無し】の剣士は、その大抵とやらにそもそも当てはまらぬ者だ。
クロムクルゥワハは、それを見越した上で、咆哮を仕掛けた。
ただし、物理的な咆哮は囮である。
本命は、囮と同時に発動させた、【思念言語】のスキルによる咆哮。
【思念言語】の本来の用途は、特定の相手だけに言葉を伝えることである。
伝える側が言葉にできるものであれば、なんでも伝えられるのだ。
言葉とは、声で伝えるもの。
強化されたただの大声、「GAOOOOOOOOOOOOON!!!!!!」という咆哮も、相手を委縮させる目的で使うのなら言葉になる。
度を越えた音は、暴力と同じだ。
物理的なものであれば、時として聴覚器官や脳に深刻なダメージを与える代物と化す。
そんなものが、もし、精神に直にぶつけられたなら――
「デッド・スワロゥ!」
倒れた
「デッド・スワロゥ、起きて! ねえ、起きてよ!」
叫んで、身体を揺する。
「デッド・スワロゥ! デッド・スワロゥ! いやっ……! いやああああああああああ!!!」
〈いい声だ、もう少し聞いていたい、けど〉
「ぎゅぅっ!?」
びゅんっ! という音を耳が捕らえる前に、キリは地面に叩きつけられていた。
腕で弾き飛ばされたのだ。まるで、おはじきでも弾くように。
衝撃で、ロナーのペンダントが切れた。きらきらした青い石が、あっちこっちに散らばる。
〈また後でね、後でもっとちゃんと聞かせてね。じゃあ、まずは〉
そして、クロムクルゥワハは――
「やめてっ! なにするの!?」
デッド・スワロゥを、ひょいっ、と摘まみ上げた。
そのまま、上に持ち上げる。洞穴のような口が、上を向く。
なにをしようとしているのか、嫌でも分かった。
「やめてっ! やめてよっ!」
〈いただきまーす!〉
「やだ……やだ……こんなのやだぁ……!! う、うう、うわああああっ!!!!」
また、キリはなにもできない。
大切な人が、また、目の前で死ぬ。
キリは、泣きながら絶叫した。
故に、また気付けなかった。
青く強い光を、ペンダントだった石たちが放っているのに。
と、いうのも――
「下がれっ!」
「っ!?」
突然、小柄な人影に抱きかかえられる。
「ゲンゾー、じいちゃん……?」
「大丈夫じゃ、ビリーに任せい」
ゲンゾーじいちゃんに抱きかかえられたキリがその場から離れるのと、「ぼぉーん!」だか「ドォーン!」だか分からないけど、とにかくものすごい音が立て続けに上がった。
それよりもずっとものすごいのは、クロムクルゥワハの悲鳴だ。
口を開き、腕をめちゃめちゃに振り回し、身体をぶるぶる震わせて、叫びまくっている。
生きながら焼かれていく生き物の残酷なにおいは、気のせいかにんにくのにおいに似ているような気がした。
「ソール! ボレアス! 全力でぶちかませ!」
ゲンゾーじいちゃんが、叫ぶ。
命令を受けたソールとボレアスが、目の前を疾風の速さで駆けていくのが見えた。
身体に帯びるのは、バリバリと鳴る雷。
くわっ! 顎が開く。
「ガォオオオオオオン!!」
「ガォオオオオオオン!!」
怒りの咆哮と共に放たれるのは、炎のブレス。
ごぅごぅ唸って、クロムクルゥワハの身体を容赦なく、焼く。
再び、クロムクルゥワハの悲鳴が上がる。
みるみるうちに、炎はクロムクルゥワハを蝕んでいく。
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