第52話
【
気配は、完全に消したはずだ。
前々から目をつけていた【
なのに、あの赤毛の男に気付かれた。
あろうことか刃を振るってきて、肉体の一部をざっくりと落としやがった。
この【陰月】クロムクルゥアハ、最強種の魔物に傷を負わすとは、万死に値する行為だ。
怒りに任せて、獲物の頭を一気に噛み砕いた。
仲間の無残な死に様を見て恐慌状態に陥った別の獲物の、喉笛に喰らいつく。
別の腕に捕らえていた下の魔物たちは、悲鳴を上げ、暴れ、もがいた。上がる悲鳴が心地よい。
怒り心頭のクロムクルゥアハは、空腹だった。
腹いせに、下の魔物たちをいたぶって喰ってやろうと思っていたが――
クロムクルアハは、その前にふと思う。そういえば、魔物以外の生き物を喰うのは久しぶりだった。
さっき喰った奴は、格好から察するに軍人だろう。
しかし、軍に属す者が、何故わざわざこのような場所へ?
〈…………〉
風に乗って、においが流れてくる。
確か風上には、普段あまり近づかない場所があった。
だが、今だけはそれを忘れることにする。
いいにおいだ。絶望は、甘く、香しいにおいがする。
「ミディー爺ちゃんの牛をやったのは……多分、【腐れ根】か【陰月】だろうな」
ある時、ゲンゾーじいちゃんが運んでくれた物資を下ろす手伝いをして、お駄賃に珍しい白いチョコレートの板をもらったことがある。
半分に割って、ロナーと一緒に食べた時、こっそり教えてもらったのだ。
「【腐れ根】? 【陰月】?」
「魔物の最強種って言ったら、わかるか?」
「ものすごく強い魔物ってことだよね? 魔王か【転生者】しか倒せないっていう」
「今はそうじゃなくなってきているらしいって、ゲンゾーじいちゃんは言ってたけどな。それについてはまた今度教えてやるよ。で……」
ロナーはおもむろに、地面に落ちていた棒きれを拾う。
【腐れ根】ニーズヘッグ
【獄炎】ゲリュオン
【深紅】カーバンクル
【陰月】クロムクルゥアハ
地面に書かれた名前を、キリはまじまじと見た。
「とにかく、アシュロンの森には、四体の魔物の最強種が統治者として君臨しているんだ。ゲンゾーじいちゃんが言うに、すごく長い時間を生きているんだって」
「じゃあ、すごく強いんだ」
「ゲンゾーじいちゃんが言うに、すごく強いなんて言葉で済ましちゃいけないってさ。魔王と魔王が率いる軍勢の中でも相当怖がられていたんだって。だから、間違っても出会っちゃだめだって。特に【腐れ根】と【陰月】は、すごく厄介だって。どっちも悪意の塊だって」
「……へぇー」
ふと、思う。
悪意の塊という言葉以前に、今思えば引っかかるものがあった。
あの時、ロナーは「ゲンゾーじいちゃんが言うに」って言っていたから、ロナーにこれらのことを教えたのは、ゲンゾーじいちゃんなのだろう。
じゃあ、ゲンゾーじいちゃんは、どうやってこのことを知ったのだろう?
なんていうか、ひどく生々しすぎる知識だった。まるで、自分の目で見たものを語っているみたいに。
「ゲンゾーじいちゃんって、何者なんだろ?」
そういえば、キリはゲンゾーじいちゃんと長い時間話を交わしたことがない。
はて、と首を傾げたキリの傍らで、ソールとボレアスが「ガヴヴヴヴ」と唸り声を上げ始める。
「ソール? ボレアス?」
「ガルッ!」
「バウッ!」
今思えば、ソールとボレアスはきっと「逃げて!」と言っていたに違いない。
突如、近くの藪から何かが飛び出す。
それは、キリには黒い腕に見えた。
腕は、ソールとボレアスを、猛烈な勢いで打つ。
悲鳴を上げ、吹き飛ぶ二匹が地面に落ちる。その前に、別の腕が伸びて絡め取った。
「ソール! ボレアス!」
ぐるぐると巻きついた腕は、捕らえた獲物をぎゅうううう! と締め上げる。
ソールとボレアスの喉から、悲鳴が上がる。
キリもまた、悲鳴を上げた。
悲鳴を上げるキリの前に、そいつは現れる。
最強種の魔物。【陰月】クロムクルゥアハが。
一言で言うなら、巨大な黒いゼリーの塊。
目も鼻もないそれはぶよぶよと脈動し、表面から生えた無数の長い腕が、動物図鑑で観たイソギンチャクの触手みたいにぷらぷら揺れている。
〈こんにちは、かわいい獲物さん〉
楕円に近い形状の表面、亀裂が横向きに走る。
ぐばっ! と開いた大きな口は、まるで大きな洞穴のよう。
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