第49話
空気を震わせる不穏なざわめきに、彼女は目を開いた。
アシュロンの森は、魔境だ。数多の魔物たちが潜み、日々食べたり食べられたりしている。
文字通り、弱肉強食の世界。
されど、無法ではない。
飢えを満たす、身を守る目的以外で、決して他者を襲ってはいけない――アシュロンの森には、生き物としての暗黙のルールがある。
それが、破られている。
理性をどろどろに溶かしつくすくらい、濃密な血のにおい。
それは、かつて彼女が主人と慕った存在を喪った、あの戦場を思い出させた。
彼女は、身を起こす。ねぐらにしていた洞窟から、のっそりと出る。
魔物たちの鳴き声が、聞こえてくる。
狂喜と騒乱。そして、敵意と怯え。
【腐れ根】や【深紅】、【陰月】のものではない。
亡き親友【銀帝】の二匹の子供たちでもない。
いずれも、彼女たちより下の魔物のもの。
異様な胸騒ぎがした。だがそれは、未だ見ぬ敵への恐れではない。
彼女は、地面を蹴った。黒い流星となって、アシュロンの森を駆け抜ける。
そして、その男の許に辿り着く。
割れた御影石を思わせる眼差しが映すのは、彼女の姿――月のない夜の色の毛並みを持つ黒い馬。
敵か味方か分かりかねない彼女の出現に、その男――【名無し】の剣士は表情をほとんど変えなかった。
〈我が名はゲリュオン。【
彼女――ゲリュオンが放った【思念言語】のスキルにも、さほど驚いていない。
それどころか、面白がっている様子さえあった。
〈……いや、貴様は、そもそも本当に人間なのか?〉
答えは、態度で示される。
【名無し】の剣士は、抜刀した。
そのまま、ゲリュオン目掛けて斬り込んでくる。
切っ先が地面を差す下段の構えから、大きく右から半月を描くように。
間一髪のところで、ゲリュオンはよける。
〈貴様!〉
発した思念言語は、失望と怒りに震えていた。当たり前だ、称賛していたはずの相手からこっぴどく裏切られたのだから。
その感情は、形となって炸裂した。
ゲリュオンという標的を失い、蛮行は空振りに終わっている。
無防備となった背中に、ゲリュオンは渾身の体当たりをくらわせてやった。
モロにくらった【名無し】の剣士が、文字通り吹っ飛ぶ。木々の破砕音が、それに続く。
ゲリュオンは、それを追おうとする。
「今の話は、本当、なのか?」
「ああ」
険しい顔をして頷くビリーに、ゲンゾーは顔色を変えた。
「皆、なのか? 村の、村の者たち、全員が」
「この子の前で、詳しく言わせる気か?」
「…………」
「とにかく、ひどかったよ。奴ら、亜人をなんだと思ってやがる!」
「本当に、なんという……真紅のドラゴンの旗の下だというのに、同族をなんとも思わんのか」
ゲンゾーは、俯く。その声は、苦く、暗い。
気付いていなかった。
今の言葉で、ビリーが全てを察していることに。そして、腰の得物に手をかけていたことに。
「お嬢ちゃん」
ビリーは、コルトM1877を抜いた。
照準を、ゲンゾーに定める。
「耳と目、しっかり塞いでな。俺がこれからやること、正直見てほしくないんだ」
声は、確かにビリーのものだ。
だかそれは、【
「ビリーさん!?」
キリは既に、泣き止んでいた。
それだけ、大きな衝撃だったのだ。ビリーがゲンゾーに向けて、銃を構える光景は。
「目と耳を、しっかり塞げ。嬢ちゃん、俺が言ったことがわからなかったのか?」
銃口を向けられたゲンゾーは、当然うろたえていた。青ざめ、喉からひゅうひゅうと笛のような音を立てている。
「あ、あんた、なにを……?」
「見りゃあ分かんだろ。あんたの脳みそをぶちまけてやろうと思ってんだよ、俺は」
危険な香りを漂わせる声音で、ビリーは言う。
「その前に、いくつか喋ってもらおうか。あんた、なにをどこまで知っているんだ?」
「なにをって……し、知らん! ワシは、ワシはなにも……トルシュ村が亜人部隊に襲撃を受けたことだって、たった今知ったばかりで」
「俺は、襲撃者がトルシュ村の連中の同族……亜人の兵だったなんて、一言も言ってないぜ。それどころか、掲げる旗に描かれるドラゴンの色だってな」
「……!!」
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