第45話
正直、今にも心が折れそうだった。
かつての自分が生きた
目の前に現れたのは、フェンリルという魔物だ。
いかなる者にも従わない、徒党を組んでも討伐すらできないとされる最強種――魔物の中でも最強と伝えられるものの一属。
伝説の存在。されど、実在している。
――風よりも早く動き、口から炎を吐き、雷を纏って大空を駆け抜ける。
――大魔法ですらその体を傷つけることはできず、爪は全てを切り裂き、牙に砕けぬものはない。
――纏うは、魔物とは思えぬ神々しさ。
――生きた伝説、打ち破られざる王。
――古き時代においては、神ですらあった。
何年か前に立ち寄った町の酒場で、吟遊詩人はそう謳っていた。
ビリーははっきりと憶えている。
伝説によれば、討伐に成功できたのは魔王を覗けば【転生者】ぐらいだという。
使役できたのは――
「…………」
本音を言えば、全てをかなぐり捨て逃げ出したかった。
だけど、ビリーは退けない。護らなければいけない存在を捨てて、退くことなどできやしない。
「ビリーさん……」
「お嬢ちゃん」
フェンリルから目を逸すことなく、ビリーは言う。
「……逃げろ!」
「ぇ、えぇっ!?」
「俺はいい! 俺のことは気にすんな!」
「ちょ、ちょっ……!?」
「倒せなくても、時間稼ぎくらいはできる!」
「あ、あの、あの……」
「いざとなりゃあ、赤毛のアイツが……デッド・スワロゥがいる!」
「そ、そうじゃなくて!」
「行け」
「ビ、ビリーさんっ、ちょっと!?」
「早く行けっ!」
「勝手に盛り上がっているところ悪いのだけど」
すぃっ、と。ビリーの前に【魔神】イシスが降り立つ。
「んだよ、てめぇ! この修羅場ってる時に出てくんな!」
「とりあえず、お前にこれだけは言うのよ。落ち着け、バカ」
「あぁ!?」
「キリ、というのよね」
イシスはビリーを無視し、キリに問う。
「あの子がなんなのか、教えてほしいのよ。できれば、このバカに分かるように」
「バカってなんだ、バカって! 非常識の塊そのものの【魔神】が!」
「黙るのよ、バカ。……ああ、それとも、低能未熟とでも呼ばれたい?」
「ちょっと、おい……!」
止める間もなかった。背後から、キリが抜け出る。
「よせっ! 戻れッ!」
あろうことか、フェンリルに駆け寄っていくではないか。
「お嬢ちゃん、何を考えて」
「ステイ!」
次の瞬間、信じがたいことが起こった。
「ワフッ!」
「……え!?」
「お座り!」
「ワフワフッ!」
キリの声に応じるよう、フェンリルは止まり、座る。
「やっぱり……! ボレアスだ!」
「え、やっぱり……って?」
「お前の悪いくせなの」
幼子を小馬鹿にするよう、イシスは言う。
「あのフェンリルは、こっちに敵意を持っていないのよ」
「いや、いやいやいや、ありえんだろ! コイツ、魔物だぞ!? さっきの連中と同類の」
「だからお前をバカと言うのよ。「異なった」世界の常識に、未だに囚われすぎているのよ」
「え、じゃあ、このフェンリルは?」
「ボレアス、ソールは?」
「ワフッ! ワフッ! ワゥォォォオオオン!」
フェンリル――ボレアス、とキリに呼ばれたそいつは、空に向けて突如遠吠えを放つ。
「ワゥォォォオオオン!」
それが意味するのは――
「ワゥォォォオオオン!」
がさがさと、藪が擦れる音。
「ワフッ! ワフワフッ!」
飛び出してきたのは――
「げっ! も、もう一匹……」
もう一匹のフェンリルを目にしたビリーは、呆然と呟く。
だが、それは僅かの間。
「そこにいんのは、誰だ!」
次の瞬間、コルトM1877をフェンリルたち――の背後に向けている。
「十だけ数える。痛い目に遭いたくなかったら、出てこい。十、九、八……」
「や、やめとくれっ!」
藪ががさがさ鳴った。思い切り蹴飛ばされたボールのように飛び出してきたのは、小柄な人影だ。
「やめとくれっ! 撃たないでおくれっ!」
ぎょろりとした大きな目は、自身に向けられた凶器を前にぶるぶる震えていた。
赤いフェルト帽子を被り、
濃緑色の肌に、鷲のくちばしのように曲がった鼻、ぎょろっとした大きな目。
「ゴブリンの亜人!?」
「やっぱり、ゲンゾーじいちゃん!」
「キリちゃん!? なにやっとるじゃ、こんな場所で!?」
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