第4章 エルベネグレ

第42話


 その老人から眠りを取り上げたのは、異様な胸騒ぎだった。


 ベッドから身を起こし、壁にかけてあった一張羅――赤鎧熊レッド・ベアの上着を羽織る。

 カーテンから染みた朝日が、老人の小柄な体躯を照らす。

 濃緑色の肌、鷲のくちばしのように曲がった鼻に、ぎょろりとした大きな目。

 老人は、ゴブリンの亜人。

 この世界において、【悪】しき存在とされる者の一属である。


「そんなことは、なかった」


 老人は、一人、呟く。


「そんなことなど、かつてはなかったのだ」


 全ての亜人と魔物が【悪】しき者であるなど。

 全ての人間と獣人とエルフが【善】なる者であるなど。

 そう、全ては――


「500年前、魔王様の死と共に、全てが変わってしまった」


 老人は真実を知っている。かの魔王は、今日に語り継がれるような存在ではないことを。

 確かに、かの魔王は強大な魔力の持ち主だった――だが、強靭な身体の持ち主ではなかった。病弱な身体に鞭打って、上に立つ者としての責務を果たしていた。

 確かに、かの魔王は世界を相手に戦いを挑んだ――だが、それは決して望んで行ったものではなかった。飢餓と病と貧困で衰退していく王国を救うための、最終手段だった。

 老人は全てを憶えている。かの魔王は、語り継がれる邪悪な存在とは全く別の存在であったことを。

 病弱で立つことが辛かったはずなのに車椅子に乗らず、愛する臣民を戦いに赴かせる都度心を痛め、戦士たちの戦死の報を耳にする都度一人隠れて涙を流していた。

 なにより――


「我らが神、フェニックスよ……魔王陛下は、許しがたき罪人なのですか?」


 老人の声は、悲しみと怒りに震えていた。


「故に、あんな惨たらしい最期を迎えなければなかったのですか? 臣下と民の未来を護るために自分の幸せを……女性である事すらも棄てなければならないほど。それ以前に、好きな異性おとこの名すら恥ずかしがって聞けないようなお方が、何故、何故……」


 髪を束ねると、持ち上げて帽子の中にしまう。

 今日もまた、無意味な一日が始まろうとしている。

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