日記 ―彼女の場合―

藤光

桜日記

 桜の花が咲きはじめると、新しいことをはじめたくなるよね――と彼女が言い出したことに春を感じた。休日のカフェはいっぱい。みんな春の訪れにうきうきしているように見える。


「そうだね」

「今年こそは、日記をつけはじめようと決心してみたりね」

「えっ、佳純かすみちゃんってそういうタイプだっけ」


 彼女と日記のあいだに接点はなさそうに思える。


「なによ、そのタイプって」

「自意識が強いっていう」

「偏見〜」


 そうは言っても日記を書きはじめるというのは、そういうイメージだ。思春期とかに「ぼくって何者なんだ」「人生とは」と思いはじめて書くものだろう。現実の自分と本来そうあるべき自分とのあいだに、距離ができたり、揺らぎを感じるときに日記って書きはじめるもの――若いころぼくが書いていた日記はそうだった。


「結局、自己満足というか。自分のためにあるものなんだろ日記って」

「自分のためで何が悪いのよ。それに人に読ませるためのものでなくたって、すばらしい日記はあるのよ。日記文学ってジャンルもあるくらいなんだから」

「きみが文学を語るとは思わなかった……」

「それに自意識が強いって、小説なんていうを書いているみどりくんのセリフとは思えないわ」

「……ちょっと言い過ぎじゃない? 世界中の作家を敵に回しちゃうぜ」

「でも、図星でしょうが」


 ぐうの音も出ないというやつである。

 佳純ちゃんのいうとおり、ぼくは小説を書いている――と言ってカクヨムという小説サイトで公開してるだけのアマチュア作家だけれど、もう六年続けている。いわゆる中二病ってやつだ。


「でもなあ、やっぱり日記って他人が読んでおもしろいものじゃないよ」


 カクヨムにもそうした日記風のエッセイを書いている人はいるが、芸能人とか有名な人ならともかく、どこの馬の骨とも分からない人の日常がたくさんのPVを集めることはまれだ。まず、失敗する。


 仮にぼくが、高校生だった頃の日記を(当時はノートに日記をつけていたのだ!)読み直すようなことがあったとしたら、書いてあることの青臭さに対する恥ずかしさのあまり悶絶するに違いない。自信がある。自分で書いていてさえそうなのだから、他人の日記を読むだなんて、そんないたたまれないこと……。


「いやいや、碧くんの書いたような中二な日記ばかりじゃないのよ。世の中は」

「ぼくのこと、軽くバカにした?」

「気のせいでしょ、わたし中二な人好きよ」

「……」

「むかし、おじいさんの日記を読んだことがあるの」

「え」

「お母さんが読みなって渡してくれた。お母さんのお父さん、つまりおじいさんの日記帳。小学校の校長先生だったって、筆まめな人だったみたい」


 佳純ちゃんは、文字を読んだり書いたりすることが苦手だ。もちろん、必要最小限の読み書きはできるけれど、まとまった文章をすすんで読む、なんてことはしない。


 ――だって、頭いたくなっちゃうんだもの。


 ぼくの書く小説だって読めない。そんな彼女がおじいさんの日記が読めたというのは意外だった。


「あー日記と言っても、中二じゃないから、記事も短いし」

「……ひと言余計だよ」

「その日記にね。わたしが生まれた日のことが書いてあった。おじいさんとはいっても小さいころに死んじゃってて、わたしにとっては『知らない人』なんだよ」


《3月30日、予定日、恭子に女の子が生まれた。母子ともに無事とのこと。明日、見舞いへゆく。》

《3月31日、〇〇医院に恭子を見舞う。元気そうで一安心。赤ん坊は顔立ちの整った美人さんだ。『佳純』と名付ける。わが家へようこそ、佳純。きみの人生に幸多からんことを。》 


「わたし、祝福されて生まれてきたんだって、うれしくってむやみに感動しちゃって」


 佳純ちゃんから家族の話を聞くことはほとんどないが、両親は離婚していることは知っている。実家のお母さんとの関係もうまくいっていなくて、ずっとひとり暮らしだ。


「それだけじゃないんだけどね。だから――自己満足とかじゃないの、日記は。おじいさんの日記を読んでから、わたし日記をつけはじめたもの」

「えっ、でも、文章を書くのは苦手のはずじゃなかった?」


 ――だって、頭いたくなっちゃうんだもの。


「書かないよ。の」

「とる?」


 佳純ちゃんは、自分のスマホを取りだして、ボイスレコーダーアプリを起動させた。


「文章にしなくたって日記はつけられるの。ボイスメモを使うのよ。これなら文章書いて頭が痛くなることないし、カンタン」


 なるほど。文章の代わりに自分の声を録音しておくわけだ。これなら簡単だし、文字を入力するより早い。


「これは残しておこうってことがあった日は、スマホのボイスメモに日記として残しておくの。意外と楽しいんだ。あとで聞き返すと『あーそうだった』とか『きゃー恥ずかしい』とかなる」

「『ああ、そうだった』は分かるけど『きゃあ、恥ずかしい』っていうのはなに?」


 自分で録音してる自分の日記じゃん。


「聞いてみる?」


 いたずらっぽく笑うと、佳純ちゃんはテーブルに置いたスマホを操作し、音声ファイルを呼び出すと再生ボタンをタップした。ふたりしてテーブルのスマホの発する音に耳を澄ませる。


《……ハア。……ハア。》


 なんか息が荒い?


《……いまさっき……筧さんから……告白してもらっちゃった! どうしよう! どうする?》


 プツっと録音が途切れた。

 絶句。


「『きゃーっ』てなるでしょ。?」

「……うん。『きゃーーーっ!!』ってなった」


 ぼくが告白した日の日記ボイスメモじゃないか。恥ずかしい! いったい何を録音しているんだ。そして、なんてもの聞かせるんだ。ふたりきりならともかく、カフェにはほかの人たちもたくさんいるんだぞ。


「へーきへーき、スマホのスピーカー小さいから、わたしたちにしか聞こえないよ」

「ほかにどんながあるの」


 おそるおそる聞いてみた。


「たとえば、はじめてデートしたときのこととか、ふたりで旅行にいったときのこととか。聞く?」

「いや、いい」


 さっきのから想像するに、ぼくが聞くには恥ずかしすぎる内容だろう。


「ね、日記ってひとりで楽しむものじゃないんだよ。でも、もう日記ははじめちゃってるからね。別のことでないと……」

「なんの話?」

「やだ、春になる新しいことをはじめたくなるよねって、そういう話だったでしょう」

「そうだったね……。てっきり日記の話をしたいんだとばかり思ってたよ」


 さっきからずっと日記の話をしていたから、今日は日記の話だけで済むものだと思っていたけれど。そういうわけにはいかないよね。


「春になったんだから、わたしたちも新しいことはじめない? っていう話をしたかったの」

「でも、ぼくまだアルバイトのままだし――」

「小説には見切りをつけて社員になればいいじゃない。宮森さんも口添えしてくれるっていうし、碧くんが真面目なのは社長も知ってるんだから社員に採用してもらえるよ、きっと」

「でも……いま書いてる長編を仕上げてからでないと……」


 ぼくの煮え切らない態度に、だんだんと佳純ちゃんが怒りはじめた。テーブルに手をついて語気が強くなる。


「そんなこといってもう三年になるのよ! いつまでモラトリアムしてるつもりなの。ちゃんと仕事してさ――」

「でも、あの作品だけは書ききらないと、気持ちの整理ができないよ……」

「ずうっと待たされているわたしの気持ちはどうなるのよ! 小説家にはなれない、仕事はアルバイト。碧くんががんばってるから、その気持ちを考えて言えないできたけれど。ずっとこんなじゃ不安になってくるじゃない――そんなにわたしと結婚するっていやなの!?」

「いやじゃないよ!」

「……」

「……」

「録った」


 え?

 佳純ちゃんが、いたずらっぽく微笑みながらスマホの再生ボタンをタップする。


《――そんなにわたしと結婚するっていやなの!?》

《いやじゃないよ!》


 はめられた……!


「すぐにうちの社員になれ、なーんて言わないけど。責任取ってね」


 なんだ、ぜんぶ佳純ちゃんの計画どおりだったのかあ。

 ぼくも年貢の納めどきなのか。さらば小説家の夢――ぼくはきみをあきらめて彼女を選ぶよ。


「いい天気だし。お花見に行かない? 今日は気分がいいんだ。いい日記がつけられそう!」


 カフェを出ると、彼女のご機嫌を象徴するかのように、街の桜は満開になっていた。

 春だなあ。小説をやめたら、ぼくも日記つけてみようかな。日記ってほんとはいいものかもしれない。

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日記 ―彼女の場合― 藤光 @gigan_280614

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