退屈しのぎにこっそり覗いてみたお隣の日記には、巧妙な仕掛けがありました

兵藤晴佳

退屈しのぎにこっそり覗いてみたお隣の日記には、巧妙な仕掛けがありました

 昔々、あるところに、そこそこ身分の高い老夫婦が住んでいました。

 夫の方はそうでもありませんでしたが、妻のほうは詮索好きで、人の抱えた事情に首を突っ込んで仕方がないのです。

 若い頃は王様にお目通りもできたのですが、今は引退して、田舎の屋敷でひっそりと暮らしています。

 あるとき、訪ねてきた遠い親戚に、夫が気前よく屋敷の一画を割いたことがありました。

 妻は文句も言いませんでしたが、ある日、詮索好きの虫を抑えかねたのか、こう言いました。

「不思議な従兄弟の面倒をみることになったものね、あなたも」

「そうかい」

 夫はいつものことだとでも言うように、軽く受け流します。

 それでも、妻は食い下がりました。

「ふたりともいい男なんだけど」

 この妻、年の割に、というかお年のせいか、美男子に目がないのでした。

 そんなことは、夫も先刻承知です。

「そりゃ、俺の従兄弟だからね」

 話をそらすと、まんまと妻は乗ってきました。

「全然似てないわよ」

「俺の家系は爺さんに似て、向こうの家系は婆さんに似たのさ」

 しゃあしゃあとのたまう夫に、妻は噛みつきました。

「見たことあるの? お爺さんとお婆さん」」

「ない」

 さらりと答えられて、妻は話をそらされていたのに気付きます。

「あるにしてもないにしても、向こうとは比べ物にならないっていうことの言い訳にはならないわ」

 しつこく食い下がられて、さすがに夫も、うるさげに答えました。

「あいつらが俺よりいい男だったからって、何なんだ」

「弟さんのほうを紹介しろって、いろんな人たちがうるさいのよ」

 弟は、王様の傍近くに仕える役人です。

 いろんな人たちとは、娘を持つ親や独身の女性たちのことです。

 原則として、男性は含まれません。

「してやればいいじゃないか」

 断る理由はないのでした。

 男性なら、考えなくてはなりませんが。

 その辺りは、妻も同意見のようでした。

「あの、絵だけは得意なお兄さんのほうが上手に断っちゃうのよ」

 兄も役人を目指していましたが、採用されずに売れない絵描きをしています。

 その言葉が、妻には気に入らないのでした。

「出世しないうちは結婚させないって」

 妻の方は歯がゆそうだが、夫はそうでもありません。

「妙な連中と関わりたくないんだろう、優秀で王様の覚えもめでたいそうじゃないか、いくらでも偉くなるよ」

 反応の薄さに、妻は苛立ちを隠せないようです。

「あなたはどうなんですの」

 王様にお目通りが許されるのと、その覚えがめでたいのは違います。

 昔の働きをけなされた夫でしたが、別段、怒りもしないでさらりと答えました。

「あの兄弟にせいぜい恩を売っておくさ」

 夫のほうもなかなかに食えない男でした。

 だが、妻は妻でいらぬ心配をしていたのです。

「私、弟さんが女を愛せない方じゃないかと思うの」

「まさか。男女の境目を越える者は火あぶりだと決まってるじゃないか、王様のお触れで」

 弟のほうを男に紹介できないのはそういうわけでした。

 昔々はよくあったことらしいのですが。

 深刻な問題に、詮索好きな妻は妻で心を痛めているようでした。

「だから心配してるんじゃない」

「兄の方にそれとなく聞いてみようか」

 気楽な夫に、妻は更に苛立ちます。

「あなたがそれとなく聞くってことは、一番聞いちゃいけないことをズバリと聞いちゃうってことなのよ」

「じゃあ、お前が聞くか?」

 上手い責任逃れですが、妻は妻であっさりとかわします。

「いやよ、恥ずかしいわ、あんないい男に」

「あ~、ムカついた、すっげえムカついた、弟の方に聞いてくる」

 夫の怒りの発火ポイントはそこでした。

 妻との間で交わされる視線の間に、初めて火花が散ります。 

「私が弟さんにも嫌われたらどうするの、あなたのせいで」

「知るか、いらん詮索するお前が悪い」

 夫に痛いところを突かれた妻は妻で逆襲します。

「関わり合いになったらどうするの、火あぶりの! 匿ったことになるのよ、私たちが!」

 逆捩じを食らわされて、夫はあっさりと軟化したようです。

「何とか知る方法はないかな?」

 こういうとき、妻の頭の回転はたいへんに速いのでした。

「日記とかをたまたま見たってことにすれば」

「とかじゃなくて、現に今、持って来とるじゃないか」

 行動も素早かった妻は、ツッコむ夫にその日記を差し出しました。

「読んでみせてよ」

 人の日記を読むのは、誰であっても気が引けるものです。

 この夫も例外ではありません。

「自分で読め」

「カギが掛かってるのよ」

 表紙に鍵穴があって、裏表紙から鎖を回して閉じられる型のようでした。

 日記の主にとっては最後の砦といったところでしょうか。

 だが、この妻には通じなかったらしいのです。

 無残に引きちぎられた鎖を眺めながら、夫は諦めたようにぼやきました。

「それを自分で外しといて、責任は俺に取らせようってか」


 いちばん最近の日記には、こんなやりとりが書き残されていました。


……「絵は得意でも文章は苦手なんですね。私が直してあげましょう」

 故郷へ帰って役人の採用試験を受けるにあたって、せっかく私がそんなふうに申し出たのを、あなたは不機嫌に断った。

「女には分からん」

 でも、見掛け倒しのあなたには、実力だけで合格するなど、夢のまた夢。

 それなら、他の申し出をするしかない。

「じゃあ、あなたの代わりに試験を受けます」

 割と真剣だったのですが、あなたには冗談でしかなかったようです。

「バレたらいい笑いものだ」

 そう言われてしまっても、私は諦めるわけにはいきませんでした。

 売れない絵描きだったあなたが、田舎の役人からでも立身出世を志したのは願ってもないことでしたから。

 いいえ、そうしないではいられなかったのです。

 私の身体の奥底に染みついていたものが、私をそう呼んでいたのです。

「じゃあ、あなたの弟だってことにして、一緒に試験を受けましょう」…… 


 妻の方は大いに落胆しました。

「女だったなんて……!」

 夫の方は感嘆の声を上げます。

「女の身で男に姿を変え、地方の役人から、兄を凌いで王様の傍近くまで仕えるとは!」


 さらにさかのぼって読み進めると、兄弟、実は若い夫婦のなれそめが記されていました。


 ……あなたがお母様の遺した指輪を捧げて私にプロポーズしてくださったことは、本当に嬉しかった。

 私は学者だった父の薫陶を受けて育ったが、女では身を立てることもかなわない。

 ましてや、その父も母も早くに亡くしては、生きていく術もなかった。

 そんなとき、私に父の学者仲間を紹介してくださった方がいたのだった。

 惨めな身の上を助けてもらうための結婚など考えてもいなかった私は、きっぱりと断った。

 ところが、その方が手にしていたハンカチの裏に縫い取られていた、美しい百合の絵に私はひと目で心を奪われたのだった。

 花言葉は、純潔。威厳。無垢。

 私が求めていたものが、そこにあった。

「この刺繍の下絵は、どなたが描かれたものですか?」

 詰め寄る私に、父の学者仲間はしどろもどろになりながらも、あなたの名前を教えてくださったのだった……。


 妻はうっとりと、日記の同じページを何度となく眺め渡しました。

「いいお話ねえ……」

 夫も感涙にむせびながら、次のページをめくります。

「あの兄……旦那もなかなかの男じゃないか、使えないと思っていたが」

 弟が王様からどれほど信頼されようと、出世しないうちは結婚させないとは。

 なるほど、と妻もため息をつきます。

「王様そのものにならない限り、出世に果てはありませんものねえ」


 さらにページを遡ると、記されていたのは、頭は悪いが絵の腕は確かな、若い夫の生い立ちでした。


 ……寂れ果てた農村を出たご両親を、都で亡くされたあなた。

 身の上は、私と同じでしたのね。

 この出会いは、決して偶然ではなかったのだと思います。

 刺繍の絵柄を描いて売るのを生業としていたことも、それが巡り巡って私の目に止まったことも。

 天涯孤独の身の上になった私たち。

 女の身で学問を修めた私と、絵の腕の他は顔しか取り柄のないあなた。

 これからも、共に支え合って生きていきたいと思います……。


 ところがここで、夫は首を傾げました。

「変だな?」

 感動に水を差された妻は、ムッとします。

「何です? 運命で結ばれた、愛し合う二人の話を!」

 そこで夫は物語でも読むように、書かれた日記を声に出して読み上げます。

 さらに感涙にむせぶ妻を、呆れたようにたしなめるのでした。

「妙に筋道の通った日記だと思わんか?」

 毎日の出来事は、偶然の連続。

 それをひとつひとつ書き留めていたら、まとまりのないものになるのが当たり前。

 それなのに最初から読んでみると、この日記はまるで筋書きのある物語のようなのでした。

「そういえば、不思議ねえ」 

 妻もようやく、首を傾げます。

 夫もようやくのことで、もっともらしく頷いてみせることができたようでした。

「な? そうだろう」


 そこで開いてみた日記の表紙の裏には、こう書いてありました。

 

 ……この日記は、読まれることを覚悟で書いてあります。

 日記というものは、いつかどこかで人目に止まるものですから。 

 これまでの経緯は、遡ってお読みになった通りです。

 信じる信じないはお任せいたしますが、今後とも、どうぞ宜しくお願いいたします……。


 美しく賢い弟と、それを結婚させようとしない兄の関係。

 老夫婦はしばし唖然としていましたが、やがて、詮索好きな妻は照れ臭そうに笑いました。

「あらぬ疑いをかけましたが、余計な心配だったようですね」

 夫も皮肉っぽく答えました。

「弟が女を愛せない人だという読みだけは、正しかったんだがな」

 妻はさも感じ入ったような物言いで、話をそらします。

「不思議な兄弟ですねえ」

 そんな手に引っかかる夫ではありません。

 たしなめるように言い直します。

「いや、純粋で朴訥な夫と機知に富んだ妻、と言うべきだろう」

 その日記、いや、愛し合うふたりの物語。

 そんな人たちの、そんな仕掛けにしてやられたわけです。

 ちょっと退屈気味だった老夫婦は、やがて顔を見合わせて微笑み合ったのでした。

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退屈しのぎにこっそり覗いてみたお隣の日記には、巧妙な仕掛けがありました 兵藤晴佳 @hyoudo

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