銀輪の映える夜

武石勝義

 仕事を終えて、店長に挨拶しながら店を出る頃には、時計の針は既に深夜の二時を回っていた。


 僕の職場は、夕刻からこの時間まで営業している飲食店だ。周りに立ち並ぶ店も似たようなものだけど、繁華街から少し外れた立地のせいか、この時刻になると人気は感じられない。寂れているとも言えるけど、徘徊する酔っ払いにもあまり出会わずに済むから、個人的には好ましい。


 何より好ましいのは、店のバックヤードに多少の余裕があるという点だ。


 店を出て裏手に回った僕は、段ボールが積み上がったバックヤードのぽっかり出来た隙間に、そっと片手を伸ばす。そしてゆっくりと引っ張り出されたのは、我が愛車GIANT TRADISTジャイアント・トラディスト。今どき珍しい、アルミのホリゾンタルフレームにWレバーという、ひと言で言えば時代遅れのロードバイク。


 でも僕にとっては長年苦楽を共にし続けた、愛車と呼ぶほかない大事な自転車だ。


 僕がこの店で働くことを決めた理由は色々あるけど、そのひとつに屋内駐輪可という点がある。散々使い倒してきたからあちこち傷だらけではあるけれど、その分愛着のある自転車だし、繁華街の外れとはいえ店先にほったらかしは心許ない。都心で長時間駐輪するなら、ちゃんと管理人がいる駐輪場か、もしくは屋内。といっても後者はレアケースだから、自転車駐輪もOKな職場に恵まれた僕はラッキーだと思っている。


 ドロップハンドルに引っ掛けたヘルメットを手に取り、後ろの穴にぴったりと嵌まった赤い点滅灯を灯してから、クリアレンズのサングラスと共に被る。そろそろ日中は陽気でぽかぽかするとはいえ、まだまだ夜は冷え込むから、パーカーの上に蛍光色のペラペラなウィンドブレーカーを着込んでいる。そしてペダルを回しやすい、裾が絞られたジョガーパンツにスニーカー。背中にはこれまた年季の入ったくたびれ気味のデイパックを背負って、普段使いに自転車を乗り回すにはこれぐらいの格好がちょうどいい。


 今夜はちょっと肌寒いぐらいで、この季節には珍しく風も穏やか。夜空には星明かりこそネオンに打ち消されてまばらだけど、ビルの合間に覗く三日月が煌々と輝いて、絶好のミッドナイト・サイクリング日和だ。


 店から自宅のアパートまでは、片道三十分。フロントライトを灯して、サドルに跨がって、さあ真夜中の街を走り出そう。


 ***


 アスファルトの道路を、自転車が滑るように走る。


 都心の大通りは、この時間でも明るい。周囲には街灯や電飾に彩られた看板、それにまだいくつも明かりのついたビルがひしめいて、フロントライトなんて要らないぐらいだ。


 そして車の台数は目に見えて少ないから、夜中の道路は最高に気持ちがいい。


 片側二車線の左側を走る車なんて、ほとんどない。自転車専用車線みたいなものだ。日中なら思わず舌打ちしたくなる路上駐車も、この時間ならささいなこと。路肩に停まったワゴンをゆうゆうと避けながら、僕の自転車はペダルの回転に合わせてスピードを増す。


 ひと踏みすれば、その分ぐんと前に出る。


 何度も回せば、さらにぐいぐいと進む。


 アルミのフレームは自転車としては硬い部類らしいけど、その分ペダルを回す足が自転車を前に押しやる感覚が伝わって、なんだか自分の手足のような錯覚さえ覚える。大袈裟に言えば、人馬一体。晴れの日も雨の日も風の日も、当たり前のように乗り回してきたこいつは、僕の身体の一部であるように思う。


 煌びやかな街明かりに照らし出されて、ふたつの輝く銀輪が音もなく転がっていく様を想像する。それとも蛍光色のウィンドブレーカーも目立つだろうから、銀輪を生やした黄緑の幽霊に見えるかもしれない。


 僕は、もはや僕と一体化した自転車と共に、夜の街中を駆け抜けていく。


 といっても、街中には信号がある。


 行く先の信号が黄色であったら、僕はもうペダルを漕ぐのを止める。昔は赤になる前にと思ってペダルを踏み締めていたけど、ただ単に疲れるだけだし、背中にどっと汗を掻く。今の季節はまだしも真冬だと、この汗のせいでかなり冷えてしまう。そのせいで一度風邪を引いて寝込んでしまってからは、もうそんな無茶はしなくなった。


 毎日のことなのだから、変に疲れたり風邪を引いたりしないで、適度に身体を動かす快感が何より大事。


 おっと、信号が青になった。背中からせっつくような車がいるわけではないけれど、僕はフレームに下ろしていた尻を上げて、なんとなく急くようにペダルを踏み込んだ。


 ***


 目の前に橋が見える。幅の広い、頑丈で大きなアーチ型の橋。こいつを渡ったら左折して歩道を横切り、川沿いの土手道に入る。


 日中は散歩したりジョギングしたり、近所の行楽先として人気の川原だけど、もちろんこの時間に人影はひとっこひとりない。それどころか今まで明るい街中だったのが一転して、今度は途端に夜の闇に包まれる。土手道の横の車道を隔てた向こうにはマンションが建ったりしているから真っ暗闇というほどではないけれど、路面を窺うのはフロントライトの明かりひとつだ。自然、僕が自転車を駆る速度も心持ち緩やかになる。


 僕の自転車のフロントライトは、通販サイトのお薦めに上がっていた、無骨な円筒型。単三電池三個で灯されるその明かりは予想外に明るくて、こいつならどんなに暗くても平気だろうと思ったけど、実際の夜闇の中ではまだまだ心許ない。


 でも僕が土手道を走るときにスピードを落とすのは、それだけが理由じゃなかった。


 土手沿いには一列に、桜の木が植えられている。そして先週末には例年より早めの開花宣言が出て、今僕の頭の上には満開の桜の花が咲き誇っていた。


 自転車のライトと、遠目に連なるマンションの窓明かりの中に浮かび上がる夜桜の下、僕は黙々とペダルを漕ぎ続ける。白ともピンクともつかない無数の花が、そよ風のようなスピードで僕の上を通り過ぎていく。夜桜に覆われた土手道を駆け抜ける、僕にとってはこの季節、毎晩のささやかな贅沢だ。


 途中、桜の木々の狭間にちょこんと設けられた四阿あずまやが現れると、僕はペダルを踏む足を止めてその前で自転車を停めた。そのまま自転車を柱に立てかけて、目の前のベンチに腰掛ける。デイパックを下ろすと汗ばんだ背中が夜風に触れて、思わずぶるっと身体を震わせた。


 長居して風邪でも引いたら元も子もない。でも僕は、晴天の夜にはこの四阿でひと息つくことを欠かさない。


 デイパックの中からステンレスボトルを取り出し、ボタンひとつで開いた飲み口に口をつける。ボトルの中身は、店長がいつも店仕舞いの前、締め代わりに淹れるコーヒーのお裾分け。ボトルは保温がしっかり効いて、淹れ立ての温度とあまり違いは感じられない。飲み口から匂い立つ香りを楽しみながら、舌を火傷しないようにちびちびと飲む。


 そして目の前には、月明かりに照らし出された我が愛車。


 床の間に飾られた自慢のロードバイクを肴に酒を嗜む、なんて数寄者がいることを、インターネットの記事で読んだことがある。なんて馬鹿なことを、とは思えなかった。床の間に仕舞い込むのはもったいない気もするけど、お気に入りの自転車を眺めてうっとりする気分はよくわかる。それが高価な代物か安物かなんてことは、多分誤差の範囲。


 だって見て欲しい。少しグレーがかったアルミのフレームはあちこち傷が目立つけど、むしろ味があるだろう。頑丈が取り柄の安価なホイールも、月光を照り返して鈍く輝く様が美しい。ドロップハンドルに巻きついたバーテープだけは先月交換したばかりだから、ぴかぴかでちょっと浮き上がって見えるかもしれない。


 月明かりと夜桜を背景に、愛車を鑑賞しながら美味いコーヒーを飲む。残り十分も走れば自宅なんだけど、足を止める価値は十二分にある。


 何度繰り返しても飽きることのない、僕にとってはささやかな至福の瞬間だ。



 ***


 やがて四阿あずまやを発って、僕は自転車に跨がり家路につく。


 帰ったら真っ先にシャワーを浴びよう。そういえば店を出る前にスマホを見たら、最近会ってなかった友人から、SNSのメッセージが届いていた。あいつのことだから、きっと久しぶりに飲みに行こうというお誘いかな。どうせ仕事の愚痴を聞かされるんだろうけど、いつも最後は学生時代の馬鹿話で花を咲かせることになる仲だ。たまにはいいかもしれない。となったらさっさと返事してやらないといけないな。こんな時間になってしまったけど、あいつなら気にすることもないだろう。


 そんなことを考えながらペダルを漕いでいると、路面から急にガタガタと振動が伝わり始めた。この土手道は一部未舗装のままなのが難だ。去年はここより上流の辺りで大掛かりな改修工事が施されて、土手道の幅はそれまでの倍以上、路面も綺麗に舗装されて見違えていた。この辺りも早いところ改修されると嬉しいんだけど。市が違うから無理なのかな――


 途端、路面から伝わる振動が変化した。


 ただのガタガタじゃない。タイヤの余裕が感じられない、路面を直にごりごりと削るような感触。こいつはもしかしたら――


 慌てて自転車から飛び降りた僕は、まず前輪を触るが、異常は無い。ということはと思って思って後輪のタイヤを触れると、まったく張り合いなくべこんと凹んだ。


 参った、パンクだ。


 こうなることを恐れてパンクしにくいタイヤを履かせていたつもりなのに。がっくりしながらタイヤの表面をなぞると、原因はすぐにわかった。細い釘が綺麗に突き刺さっている。これだけ見事に刺さっては、どんなタイヤも形なしだろう。


 はあというため息混じりに肩を落として、僕は仕方なく自転車を片手で支えながら歩き出した。交換用のチューブや工具はデイパックの中に常備しているけど、この真夜中の屋外で修理する気にはならない。だったら家はもうすぐだ。諦めて歩いて帰ってから、室内で修理する方がいい。


 僕の相棒は時たま、こんなトラブルに見舞われる。お陰で余計な手間暇をかけさせられたことは両手の指の数でも足りないけど、だからといってこいつを手放す気にはなれない。だって手のかかる子ほど愛おしいって、よく言うだろう。


 ましてやこいつは僕にとってそれ以上、なんたって僕の身体の一部なんだから。


 願わくば、巡回中のお巡りさんには見つかりませんように。自宅までの残りの道程を、とぼとぼと自転車を押し歩く僕の頭に浮かぶことといったら、せいぜいそれぐらいのことだ。


(了)

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銀輪の映える夜 武石勝義 @takeshikatsuyoshi

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