ふみしなければ
ギヨラリョーコ
第1話
男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。
「ネナベってもう死語ですか?」
「なに、それ」
昼の職員室は落ち着きがない。
軽く首を傾げた化学の藤川先生はコンビニ弁当を前に手を合わせて、口の動きだけでいただきますと言ってから割り箸を割った。まっすぐ割れないのを特に気にしていなさそうなのがもやもやする。
いつもだったらお弁当箱とおそろいの青いプラスチック箸で、奥さん手作りのお弁当を食べているのだが、ここ最近それを見ていない気がする。
奥さんがお忙しかったのか、体調でも崩されたか。
気にはなったが、そこを突っ込んで尋ねるのはなんとなく領分を超えている気がする。
「今日の2-3の授業が土佐日記だったので。女の人のふりして書いてるわけだから紀貫之も現代で言うとネナベみたいなもんですよって言ったら、教室がポカーン」
「あ、ネットのオナベでネナベね。そもそももうオナベって言わないじゃない」
「ああ確かに」
「古典の先生が死語とか気にするんだ」
「関係あります?」
「古典なんて全部死語みたいなもんじゃない」
「死なせないように教えてるんですよ」
「頼もしいなあ」
茶化すには優しすぎる笑い方を、5つ上の先輩に抱くには過ぎるほどに好ましく思っている。
既婚者にも同僚にも言うことではないので、黙って、想っている。
僕のチーズくるみパンを見て、「またそれ」と藤川先生は呟いた。
「好きなんですよ」
「栄養偏るよ。若いからって油断してると結構響くんだからそう言うのは」
「今日は藤川先生もコンビニ弁当だから人のことは言えないですね」
いつもの弁当ならいざ知らず。
何かのフライの半分をもそもそと飲み込んで、藤川先生は残りの半分を睨む。
「やっぱり自炊しなきゃだよなあ」
あからさまな会話の導線が見えた。
領分を踏み越える大義名分を寄越されてほっとしながら、ありがたくその路線にのっかる。
「いつもは奥様のお弁当ですよね。めずらしい」
「それがねえ、僕離婚したから」
え、と声が漏れかけたのを無理やり押しとどめた喉からは、醜い音を立てて空気が漏れた。
コンビニ弁当を抑える、年齢相応に肌理の粗い左手の薬指には、鈍くもしっかり輝く結婚指輪が確認できる。
「あ、指輪ね。外した方が良いと思うんだけど。学生ってそういうの目ざといじゃない。とくに女子。結婚した時も別に言わなかったのに『先生指輪してる!』って。怖いよねー」
「すみません、」
「何がよ」
藤川先生は僕の露骨な視線を軽やかに許す。こうなることをきっと分かっていたのだ。 彼が導線を引いた会話だから当然なのかもしれないが。
自分が言わずにいた言葉を言わずにいた理由の半分が急に吹き飛んで、目がくらむ心地がした。
油断すると何か途方もなく最悪な言葉が口をついて出そうで、軽く唇を噛む。
「男やもめは家事も手が回らなくてねえ。あ、『やもめ』も死語かな」
「……そうかもですね」
「土佐日記ってどんな話だっけ。僕もう高校古典とか覚えてないよ。古典死なせちゃった」
藤川先生はけろりとしている、というよりは、意図的に深入りを避けるような雰囲気があった。
踏み込む許可のために線を引いたのではなく、敢えて触れてみせて、なんてことないでしょうとアピールして、だからそれ以上は立ち入り禁止だと先回りして通告されたような。
僕はその通告に従順である以外の選択肢を知らない。
「どんな話って言うか、日記ですよ。紀貫之が土佐から京に帰るまでの日記ですね」
「へえ」
話題を変えたのは藤川先生のわりに、返事は芳しくなかった。
それもそうだろう。離婚の話題でなければなんでもよかったのだろうし。
僕が苛立つ義理もない。ただの同僚だ。
苛立ちは、ただの同僚で無くなる可能性を一瞬でも夢想した自分に向けられるべきだ。
「……『思ひやる心は海を渡れどもふみしなければ知らずやあるらむ』」
「歌?」
「土佐日記に出てくる歌です」
「それ授業で習ったやつ?」
「授業は冒頭しかやりません。藤川先生の時代でまでは知りませんけどね。調べてください」
「古典忘れたとか言ったから怒ってる?」
「いいえ、まったく。僕も化学は全部忘れました」
怒る権利が僕にあろうか。引かれた導線も無しには言いも尋ねもしない僕に。
思いを伝えたからといって軽蔑するような人ではないだろうに、ただ優しくやわらかな拒絶を想像してそれをどうしようもなく耐え難く思う僕に。
「ええと、もう一回言ってもらっていい?」
「あ、いや」
「気になるでしょう」
どうせ忘れる話だろうからと思っていたのに、躊躇いなく藤川先生はデスクトップPCで検索を掛ける。
しぶしぶ復唱すると、藤川先生は軽快にキーを叩いて「これ?」と画面を指差した。
僕が頷いたウェブページを眺める横顔を、さっきまで食べていたパンを丸ごと吐き出しそうな気分で眺める。
「『思いやる心は海を渡って岸の人を想うけれど、一通の文もなく私が海を踏み渡るでもないので、そのことを岸の人は知らないだろう』」
現代語訳をまるまる読み上げて、藤川先生はやっぱり優しすぎる笑顔を浮かべる。
「いい歌だね、なんていうか、普遍的」
死語って言ってごめんね、と眉を下げて付け足す、その柔らかさを途方もなく好ましく、その遠さを憎らしく思って安堵している。
知らなくていい。もはやその指輪は一生そこにあった方が良いと思っていることも含めてなにもかも。
余計なことを何一つ言わないように、パンの最後のひと欠けらを口にねじ込んだ。
ふみしなければ ギヨラリョーコ @sengoku00dr
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