上書き保存なんてできなくて

阿賀沢 隼尾

上書き保存なんてできなくて

 女の恋は上書き保存だなんて、そんなものは嘘だ。私にはとてもそんなことはできなくて、いつもあの人の面影が残ってる。

 でも、一緒にい続けるのにあの頃の私達は若すぎた。初めてのデートで手を繋いだあの人の手の温もり。唇の感触。あの人の家に行って初めてエッチをして幸福の痛みがあることを知った。

 別れるきっかけなんて些細なことだった。あの日のことは全部覚えている。雪がしんしんと降る十二月の中旬だった。

「ごめん。俺、好きな人が出来たんだ」

 そう彼から告げられた時、何の感情も湧かなかった。悲しみも、嫉妬も、怒りも。明鏡止水とも言えるくらい私の心にさざ波は起きず、無があるだけだった。

「そっか。好きな人ができたのなら仕方がないね」

「怒らないの?」

「なんで?」

「だって、付き合っている相手がいるのに好きな人ができたなんてそんなの駄目だろ

?」

「浮気になっちゃうから?」

「そう。浮気になっちゃうから」

「なんでだろうね。正直、自分でも分からないの。いつか、こうなるって心のどこかで思っていたのかもしれない。

いくら上書き保存をしようとしても

 それでも、あの人がくれた言葉はいつまでも私の心の中に生き続けていて。高校二年生の頃、私のことが好きだって言ってくれた人がいたけれど、どうしても恋愛感情が湧かなくて。でも、「デートくらいなら」と一緒にデートをして、そのまま勢いでラブホテルでセックスをした。

 正直、何も感じなかった。その後も何回も彼とヤッた。無駄に時間をやりすごすだけで。でも、快楽に身を任せていれば何かを忘れられる気がした。

 高校卒業後、大学に入学して私は県外に出て彼とは一切連絡を取らなくなった。私の唯一の趣味の読書。バイト先は下宿の近くにある古本屋さん。老夫婦が経営していて仕事の内容もほぼほぼ座っているだけで、その間は本を読んでいてもいい。ていうか、ずっと小説を読んでいる。

 確かに、私は周りの人から見てみれば可愛い部類に入るのかもしれない。そう言われてみれば、高校の時の唯一の友人からはよく「可愛い」と言われていたけれど。

それでも、クラスの女子たちからは嫌われていたと思う。陰口を言う人もいたし、避けられていたりもした。けど、正直そんなのはどうでも良かった。

 どれだけクラスや学年の女子たちから悪口を言われても私は彼と共に体を重ねたかった。寂しさがあったわけじゃない。どこか、中学生の時の思い出が蘇ってくるようで、その面影を唯追いかけたかっただけなのだと、今振り返ってみるとそう思う。

 同じバイト先やサークルの先輩や後輩と寝た事だってある。半年くらいだけど何回か付き合ったこともある。

 唯のヤリマンじゃんって言われるのは仕方のないことだと思う。自分でもそう思うから。

 誰でも良いから隣にいて欲しい。誰でもいいからいて欲しい。そうしないと私自身がどうにかなってしまいそうで。泡になって消えてしまいそうで。

 追いかけていた憧憬は風化することはなく、どこまでも、どこまでも私の影となってついて来た。

 どれだけ良い男に「大好き」と「愛している」と言われても、私の心まで届くことは無くて。

「白馬に乗った王子様」なんて言うのは少女の抱く淡い幻想で、その幻想は「大人」になるまでの期間限定の魔法なのだろう。

 それでも、誰かと結ばれたいと思ってしまうのはこのぽっかりと空いた心の穴を誰かに埋めて貰いたいからで。その穴を快楽で満たそうとしているだけなのは自分が一番良く分かっている。

 

 最近、気になる人が出来た。

 その人といると、自然に心が満たされた。

 満たして貰うんじゃなくて、自然に流れて満ちてくるものなのだと気づいた。その人と一緒にいると、自然の森の湧き水のように透明な水が私の中に流れてきた。

 だから、私もその人の為に何かしようと思えた。

 自然体でいられるということがこんなに楽なことなんて思わなかった。

 あの人と一緒にいた時間は私の記憶からは消えない。あの匂い、感触、時間、空間、その全ては私から離れて「何か」へと対象化していく。

 女の恋は上書き保存なんていうのは嘘だ。

 今の私は誰かを忘れる為の時間を誰かと過ごすんじゃない。そうしている限り、きっとその人の面影を私は追いかけているんだと思う。あの時はその瞬間、その瞬間で精いっぱいで。もう、将来のことなんてどうにでもなるくらい、地球が壊れてもどうでも良いくらい幸福だった。

 過去を忘れるわけでもない。

それでも、この人といれば明日を強く踏み出せる。そう思える人を今見つけられたことは私にとって幸運なことなのだろう。

今は一緒に未来へ踏み出してくれる人がいる。一緒に考えてくれる人がいる。それが今の私の一番の宝物だ。

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