第37話 束の間の平和

 この時代、女性は十五歳になったら成人する。

 さっさと婚約者を決めて、頭にこうがいと呼ばれる髪飾りを付けるのだ。


(ちなみに婚約者が決まらなかったら二十歳まで成人を伸ばせる……)


「あ〜あ、鼻水が止まらな〜い」


 朝っぱらゴロゴロしている呂琳の頭には、もちろん笄なんて物は付いていない。


『姉上は成人しないのですか?』

 呂白がクソ真面目に質問して姉のメンタルをぶっ壊したのが昨日のこと。


「ほらよ、柑子みかんを買ってきたぞ。南方産だ。これでも食って元気を出せ」

「ありがとう! 兄上!」


 風邪気味でも食欲はあるらしくガバッと跳ね起きた。


「皮をむく前に揉むといいぞ。柑子が甘くなる」

「そうなの?」

「ああ、柑子の中に含まれるクエン酸……」

「くえんさん?」

「いや、何でもない。とにかく甘くなる」


 うっかりカタカナ語を発してしまうことが年に数回あった。


「琳は最近、退屈そうにしているな」

「だって洛陽は人が多いんだもん。外に出たら人波に酔っちゃうというか」

「言えてるな。あと自然が少ない。并州の方が気楽だったな」

「そうそう」


 英姫と下の妹二人は買い物へ出かけている。

 呂琳と違って都会での暮らしに馴染んでいる。


「兄上はいいな〜。父上から兵士を借りているからな〜」

「遊びでやっているわけじゃない。真面目に情報収集している」

「私も入れてよ! 千里隊と順風隊でしょう! 私も間諜になりたい!」


 呂青は皮をむく手を止めた。


「琳には無理だ。地味な仕事なんだ。一日中路上を観察することもある。飽きるに決まっている」

「ちぇ〜」


 呂琳は柑子を一房ちぎると、手首のスナップで高く浮かせて、上手いこと口で受け止めた。


「美味し〜い!」


 呂青も真似してみたが、柑子は鼻にぶつかった。


「兄上の下手くそ〜」

「琳が器用すぎるのだ」


 愉快そうに笑う呂琳の部屋には大小さまざまの弓が飾ってある。


「新しい皇帝が誕生したんだよね。これから世の中は良くなるかな?」

「どうかな。まだ十四歳だ。側近たちが牛耳っている」

「むむむ……お利口さんの皇帝だといいな」

「俺が思うに……」


 柑子に歯を突き立てると酸味と甘味が広がった。


「権威と権力は分離すべきだと思う」

「どういうこと?」

「皇帝は政治をしない。大臣の任命だけをする。もし政治が悪くなったら大臣を変える。この時、全ての責任は大臣が負う。その代わり皇帝は大臣の政策に口出ししない。三年とか五年とか期間を決めて、わりと自由にやらせる」

「もし大臣が悪い奴で、皇帝を監禁しちゃったら?」

「勤皇の士が立ち上がる。そして悪い大臣を倒す。皇帝は次の大臣を任命する。……すまない、琳には難しい話だったな」


 呂琳は首を振った。


「皇帝は大変だから負担を減らしてあげたいってことだよね」

「雑な言い方をするとそうなるな」


 最後の一切れを飲み込んだ呂琳が、物欲しそうな目を呂青の手元へ向けてくる。


「もう一切れ食うか?」

「うむうむ」


 呂琳の口へ入れてあげた。


「兄上に食べさせてもらう柑子が一番あま〜い!」


 こういう平和な時間がずっと続けばいいなと呂青は思った。

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