昔話ー怖いもの知らずな男の話ー

雨野榴

昔話ー怖いもの知らずな男の話ー

 ずっと昔、その頃の人々の生きた形跡がもう見つかるはずもないほど昔のこと、ある国の小さな村にひとりの男が住んでいました。

 男は村はずれの粗末な小屋に住み、毎日炭を焼いて暮していました。日も昇らないうちからオオカミの潜む山に入り窯を建てる男を見て、村の人々は「あの男には怖いものなどないに違いない」と密かに噂し合いました。

 そんな噂を小耳にはさみ、これはと思った者があります。その人は偶然通りがかった旅人でしたが、それからまっすぐに来た道を戻るとやがて深い地の底に消えていきました。

 地上からはるか下、薄暗い大広間の入り口で旅人がマントをひと振りすると、その姿は見るもおぞましいものに変わりました。そしてつかつかと中央に歩み寄ると、そこに横たわるこれもまた恐ろしい怪物にひざまずきます。炎のような舌を見せて真っ赤な目玉をぎょろりと巡らすそれは、地獄を支配する悪魔大王です。旅人の正体は彼に仕える悪魔の一人なのでした。

 悪魔は言います。

「大王様ご所望の“面白いもの”、わたくしが見つけて参りました。何も怖がらないという男です」

 それを聞いて、悪魔大王は雷のような声で尋ねました。

「本当か?それはどこのどいつだ?」

「ある村の炭焼き男でございます。暗がりのオオカミも恐れぬ男だそうです」

 どうせ暇つぶしなので、物は試しと悪魔大王はさっそく使いの悪魔を何人か集めて、男を怖がらせるようにとの命令を出しました。そして大王が「男を最初に怖がらせた者には褒美をやる」と付け加えると、悪魔たちは喜び勇んで飛び出していきました。

 この一部始終を陰から覗き見ていた者があります。先日悪魔になったばかりの新入りです。新入りはまだ悪魔の心構えがよく分からず、先輩たちがどのように男を怖がらせるのかそっと眺めて学ぶことにしました。




 新入りが男のもとへ到着すると、ちょうど一人目の悪魔が男を怖がらせようとしているところでした。悪魔はその身を大きなクマに変えると炭焼き窯で火を調節する男の後ろに立ち、ひと声、山の震えるような大声を上げました。それは新入りの悪魔でさえ背筋が凍り付き、息ができなくなるような恐ろしい鳴き声でした。

 しかし男は顔色一つ変えずにおもむろに振り返ると、脇に置いていた猟銃を手に取って冷静に標準を合わせます。クマに化けた悪魔は、男が自分の心臓を狙っているのに気付くと急いで逃げていきました。

 悪魔がいなくなると男は火の調節に戻ります。新入りがその横顔を隠れて覗いてみると、男は大きなあくびをひとつしたところでした。男にはクマなど恐ろしくなかったのです。

 次に、二人目の悪魔が男を怖がらせに現れました。悪魔は真っ白な光に姿を変えると、瞬く間に雲の中に飛び込んでしまいました。途端、辺りは雷鳴とどろく激しい嵐に襲われました。

 炭焼き窯近くの木陰に男が逃げ込むと、そのすぐ近くに稲妻が落ちました。大きな木を真っ二つに裂いてしまうその強烈な光と衝撃に、新入りの悪魔は思わず耳を塞いでしゃがみこんでしまいました。

 それでも男は涼しい顔をして、じっとかがんで雨が止むのを待っています。稲妻は男の近くに何度も落ちますが、そのたびに男は瞬きひとつせず地面でちりちり燃える炎を珍しそうに眺めるばかりでした。やがて悪魔は疲れ果てて、真っ黒な雲ごと遠くの方へ去ってしまいました。

 雲がすっかり晴れると、男は眩しそうに西に傾いた太陽を見上げました。そして窯を崩し、炭が十分できあがったのが分かると、男は軽くをして帰るしたくを始めます。そして炭の入った籠と荷物を背負い、家に向かってしっかりした足取りで歩いていきました。新入りが急いで先回りし藪から男の顔を覗いてみたところ、男は橙色に染まった空を見て微笑んでいます。男には雷など恐ろしくなかったのです。

 やがて男は家に到着しました。男が椅子に座って一息ついていると、ドアを叩く音が小さく響きます。

「誰でしょう?」

 男がドア越しに問いかけると、慌てたような様子で

「私は隣町の医者だが、道がぬかるんでいてとても帰れないのだ。一晩だけ泊めてもらえないだろうか?」

 ドアを開けると、確かに見覚えのある医者の顔です。男は驚いて言いました。

「それは御気の毒です、お医者様!しかしどうして私の家に?」

「もう空が暗く、オオカミが恐ろしいので建物の外に出たくない。それに医者はあまり人々に好かれないものだ」

「そうでしたか、それではどうぞ。狭くて寒いところですが」

 こうして男は医者を家に泊めることになりました。

 男は医者にその家にある一番上等の干し肉とブドウ酒を振舞いました。そして眠るときは彼がいつも使っている藁のベッドを医者に明け渡し、男自身は窓の下に外套を敷いて眠りました。そして翌朝男は早くに起きると、医者の靴の裏にこびりついている泥を拭き取りました。

 さて、医者は男の家を出る段になって、男のもてなしに何度も感謝の言葉を口にしましたが、それから突然苦々し気な顔をすると大きなため息を吐きました。男が「どうしたのですか?」と尋ねると、医者は申し訳なさそうに口を開きました。

「ああ、神様!とても言いにくいのだが、あなたはどうやら病気に罹っているようだ。それも、死に至る病に」

 医者はそう言うと、両手で顔を覆いました。しかしすぐに指の隙間から男の方を覗くと、何かを期待するように観察し続けています。そう、この医者は悪魔が化けた偽物だったのです。

 しかし男はそれを聞いても、「そうなのですか」とすました顔をしています。それから悪魔の化けた医者がどれ程病気の恐ろしさを説いても男の目に恐れが浮かぶことはなく、「それより、早く町にお戻りになった方が良いのではありませんか?」と医者の予定の心配をする始末です。悪魔は根負けし、ついに諦めてしまいました。とぼとぼと去っていく医者の背中に向かい、男は手を合わせて旅の無事を祈ります。それまでずっと隠れて見ていた新入りの悪魔は、それから男が急いで山に入る準備をするのを不思議な気持ちで眺めていました。新入りには何より恐ろしい死さえ、男にとって大したことではなかったのです。

 その時でした。

「誰だ!」

 わずかに音を立ててしまった新入りの潜む木の陰を、男が覗き込みます。突然のことに新入りは驚いて動けなくなりましたが、その姿を見た男は「何だ、子供じゃないか」と肩の力をすっと抜きました。

「どうしたんだ?まだこんなに小さいのに。迷ったのかい?」

 新入りが何も言えずに男を見上げていると、男は「もしかして」と呟いて悲しそうな目をしました。

「君も捨て子なのかい?君のような子はここらじゃ見たことがないから、きっと隣町かもっと遠くの家の子なんだろう。可哀そうに」

 そして男は荷物を放り出すと新入りを抱え上げ、小屋に入って暖炉の前の小椅子に座らせてやりました。新入りはそれから男がくれたパンを水で柔らかくして食べていましたが、ふと自分の胸が妙な感じになっているのに気が付きました。それはこそばゆいような、高鳴るような、それでいてなぜか落ち着く不思議なものでした。

 その日は結局、男が山に入ることはありませんでした。ずっと新入りの世話をしていたのです。やがて男は身支度を整えると、村へ行ってくると新入りに声を掛けました。

「何をしに行くんですか?」

 新入りが靴のひもを締め直す背中に尋ねると、

「君を育ててくれる家を探しに行くんだよ」

と振り向いて笑いかけます。しかし新入りはそれを聞くと、急に胃の腑を撫でられたようないやな感じになりました。そして新入りは自分が悪魔であることも忘れて、

「それなら、どうかここに置いてください。きっと役に立ちますから」

と男に頭を下げて頼みました。

 男は随分と言葉を並べてここよりいい場所があると説得しますが、新入りは頑なに折れません。やがて男は新入りの熱意に負けて、家で共に暮らすことを受け入れました。




 それからしばらくの間、幾人かの悪魔が男を怖がらせるために男のもとを訪れましたが、何度やっても男が怖がることはありませんでした。そんな日々が数年続くと、ついに男を怖がらせようとする悪魔はぱったりと来なくなってしまいました。みんな諦めて、別の命令を行うことにしたのです。

 新入りは男のもとで必死に働きました。男の代わりに薪を背負い、男が山で火を見ている間は家をすみずみまで掃除しました。時々自分が悪魔であることを思い出しましたが、今の暮らしを失うのが怖く頭を振って忘れようとします。二人の暮らしは、本物の親子のように睦まじく平和で、新入りにとってかけがえのないものになっていました。

 しかし新入りは悪魔なのです。悪魔はずっと誰かと一緒にいると、その意思に関係なく近くにいる人の精力を奪ってしまうので、男は少しずつ、それでも着実に衰えていきました。

 ある日のことです。新入りが薪を集め終えて家に戻ると、男がベッドの脇に倒れていました。新入りはとてもうろたえましたが、急いで気を取り直し男を助け起こすとベッドに寝かせてやりました。男は青白いやつれた顔をしており、声を出すのも精一杯という様子です。それでも男は新入りの幼い頬に手を触れると、

「今までありがとう。ああ、君を残して死んでしまうのがこんなに恐ろしいなんて」

 男はそう言って涙を流します。新入りがその手を急いで取った時、男はすでにこと切れていました。

 次の瞬間です。新入りは一瞬にして地下の広間に移動していました。混乱して辺りを見回す新入りに、背後から地鳴りのような声が掛けられます。

「見事であった。何も恐れない男をあのようにして怖がらせるとは。お前と共にいたおかげで、あの男の死期も早まったろう。長く人間と暮らし、そろそろ罰を与えるべきかと考えていたところ、まさかこのような計画であったとは思わなかった。褒美は何がいい?何でも好きなものを取らせよう」

 それは、新入りの様子を魔法の鏡でずっと見ていた悪魔大王からの言葉でした。その姿はやはり禍々しく、新入りは背筋が凍えてぴくりとも動けませんでしたが、褒美と聞くとすぐさまあることを思い浮かべました。そして悪魔大王に向かいなおって言います。

「それならどうか、あの男が死ぬのを取り消してください」

 これにはさすがの悪魔大王も思わず首を傾げます。

「本当にそんなものが望みか?地位や名誉、富はいらないと言うのか?」

 しかし新入りは強い意志を持ってまっすぐ悪魔大王を見上げると、「はい」とはっきりと言い切りました。その眼差しを悪魔大王はしばらくいぶかしげに眺めていましたが、やがてあることを思いついたようににやりと笑うと、「そうか」と大きく頷きました。

「分かった。そんなに言うなら叶えてやろう」

「本当ですか!ありがとうございます」

 飛び上がって喜ぶ新入りに、悪魔大王は「ところで」と言葉を続けます。

「お前はこれまでずいぶん頑張ってくれたな。お前はもう新入りではなく立派な悪魔だ。それで、そんな働き者なお前を私のすぐ傍らに置いておこうと思う。そうなると二度と地上には行けないが……いいな?」

 そう言う悪魔大王の目はまるで新月の夜に覗き込んだ井戸の底のようで、新入りはかつてない恐ろしさにへたり込んだまま小さく「はい」と言うほかありませんでした。

 その頃、男の村では人々が大騒ぎしていました。今まで毎日休むことなく上がっていた炭焼きの煙がその日はとんと途絶えてしまったので、不思議に思った村人が男の小屋へ行くと、男が死んでいるのを見つけたのです。そこにいつも男のそばにいてよく人々の噂に上った子供の姿はなく、男の死体を前に村人はきっとあの子供は不吉なものだったと話していました。

 そんな中、突然死んだはずの男がむくりと起き上がりました。人々は驚きのあまり声も出せませんでしたが、すぐに悲鳴がひとつ上がるとあとは火のついたような騒ぎです。いつの間にか、人々はこのようなことを叫んでいました。

「やはりあの子供は悪魔だったのだ!炭焼きの男は悪魔と契約して復活を遂げたのだ!」

 自分でも訳が分かっていない男に石が投げられ始めたのはそのすぐ後です。ところが、男は何度頭を石で打たれ倒れ伏してもすぐに起き上がって動き出しました。続いて男の心臓に斧が振り下ろされましたが、それでも男は死なずに胸から斧を引き抜きました。そうです。悪魔大王は男から死ぬことを取り消してしまったのです。

 怪我だらけで村から逃げ出した男は、すぐに自分の身に起こったことを知りました。ずきずきと痛む胸の穴もしばらく見ているうちにゆっくりと塞がっていき、ほんの数刻が過ぎてしまえば、男の体は傷ひとつない綺麗な姿に戻ってしまったのです。それは、もはや男が神様の作られた決まりから大きく外れてしまったことを、これでもかと示していました。

 その時、男ははたと気が付きます。

「あの子はどうなったんだ?」

 村では、どうやら姿を消したらしいあの子のことを皆が悪魔と呼んで騒いでいました。しかし、男にはその子供と過ごした年月があります。あの子が悪魔であるはずがないと、男は固く信じていました。

 しばらくすると、男はどこへともなく歩き始めました。その足取りは揺れることなくしっかりとしていて、確かな目的があることを感じさせました。

「あの子はきっと村人を恐れてどこかへ隠れてしまったのだろう……見つけなくては。あの子がいなくては生きている意味がない」

 もはや神様のもとへ行けるはずもない男は、どんなことをしてでもあの子供を見つけ出そうと決めたのでした。再び一緒に暮らせるその日まで、怖いもの知らずなその男の歩みが止まることはないでしょう。




 歩き去った男を見て、悪魔大王は地の底で満足そうに笑いました。そして、すぐ隣で絶望した顔を浮かべ震えている小さな悪魔に囁きました。

「ああ、お前は大した悪魔だ。あの男に永遠の苦しみを与えるだけでなく、道まで踏み外させるとは。さあ、共にあの男の行方をいつまでも見届けようじゃないか」

 小さな悪魔は微かな声で「ごめんなさい」と繰り返しつつ、心の中で男が一刻も早く地獄へ来てくれることを願っています。彼らの前に地上の景色を映し出す鏡の中では、男が今まさに村人の家に押し入ろうとしていました。

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