雨降る逢瀬の日記

九十九

雨降る逢瀬の日記

 少女がその日記を見つけたのは、ただの偶然だった。

 埃被った日記には、最後に、見つけて欲しい、と綴られていた。


 埃の匂いが満ちた小屋の中で、少女は身体を起こした。どうやらいつの間にか眠っていたらしい。要らないものを詰め込まれた小屋の中は、色々な物が密集していた。

 少女は立とうとして、寝起きのせいかほんの少し体勢を崩して、近くの本棚へとぶつかった。ぐらりと本棚が揺れて上から落ちて来たのは、一冊の埃被った本だった。

 落ちて来た本は、まるで導線が引かれていたみたいに少女の腕の中にすっぽりと収まった。

 少女は瞬くと、手の中に収まる本に分厚く被る埃を払った。小屋の中いっぱいに埃が舞い、赤茶けた灰色まみれだった本が、藍色の表紙を覗かせる。少女が藍色が覗いた表紙に指を這わせて薄っすらとこびり付いた埃を拭うと、表紙には日記と書かれていた。

「誰かの日記」

 少女は日記をしげしげと見つめると、手で表紙をなぞる。名前は何処にも書かれていないようであった。

「誰の日記だろう」

 呟き、少女はそっと表紙を捲った。


 日記の中では女が笑みを浮かべて揺蕩っていた。真っ赤なワンピースに真っ赤な口紅を塗った女が、微笑みながら日々を揺蕩っていた。

 晴れた日には真っ黒な日傘の下で読書をし、雨の日には真っ赤な傘の中で男を待つ、そう言う女が日記の中で笑っていた。

 少女は目を細めて女の姿を思い描く。真っ青な空の下で真っ赤な色を纏った女が黒い日傘の中で微笑んでいる姿が脳裏に浮かんだ。

 日記の中の女は大凡、全ての事柄を愛し気に見つめているようであった。

 女を残して移ろう季節も、己で育てた花が咲き誇る様も、そうしてそれが落ちる様も、女は愛し気に眺めていたらしかった。女の日記には、幾つもの古びた花弁が押されている。

「愛おしい」

 文字をなぞり呟く。その言葉は女にとってどれほどの価値を持っていたのだろうかと、少女は想う。女の綴る愛おしいは、少女に夜明けの朝露のような輝きを思い出させた。

「雨の日に、あの人の元へ行く」

 日記には、女と男との逢瀬の日々が綴られていた。

 朝から雨が降っていたからと男と会うために真っ赤な傘を差して家を出る女、夕方に雨が降り始めたからと洗濯物を畳んでいる途中で真っ赤な傘を差して家を出る女、夜に雨が降ったからと灯りも持たずに真っ赤な傘を差して家を出る女。

 女は何時だって真っ赤な傘を差して、雨が降っている時だけ男と逢瀬を重ねていた。

「雨の中だけで会える人」

 一本の真っ赤な傘の下、寄り添い笑う女と男の姿を思い浮かべ、少女は微笑む。雨に閉じられた世界での逢瀬は、女と男には何故だか酷くお似合いだと思ったのだ。

 真っ赤な傘を差して男を待つ女は、時には男に待ちぼうけをされることもあったようだった。今日は男に会う事が出来なかった、と何処か寂し気な細い文字で書かれた一文が、日記の中で時折見かけられた。

 会えない日の女は何を思っていたのだろう、と少女は考える。女が男に待ちぼうけをされた日は寂し気な細い文字で綴じられているのに、その心情は日記に綴られる事は無かった。寂しい、と思っていたのだろうか。それとも、仕方がない、と思っていたのだろうか。

「今日はあの人に会えないまま」

 少女は、会えない、と言う文字列をなぞる。文字列をなぞっても、日記の中の彼女の心情を計ることは少女には出来ない。

 真っ赤な傘の下、たった一人で男を待ち続ける女の姿が少女の脳裏に過る。まるで世界に取り残されたようなその情景は、少女には酷く寂しく見えた。

 女の日記には、男以外の登場人物は現れなかった。まるでそれが全てみたいに、日記には雨の日に会う男と女の身の回りの事だけしか書かれていない。雨の日に逢瀬を重ねる男以外は、女の周りには人の影が見えなかった。

 きっと何もいらなかったのだろう、と少女は思う。男と、ほんの少しの身の回りの事しか女はいらなかったのだろう、と少女は思う。男と女の身の回りの事しか綴られていない日記は、それでも女が幸せであったと読み取るには十分だった。

「名前を知らなくとも、呼びかけるだけであの人は振り向いてくれる」

 女は男の名前すら知らないようだった。男もまた女の名前すら知らずに逢瀬を重ねているらしかった。柔らかい字で、彼、とか、あの人、とか記された女の日記には、男の名前らしきものは欠片も無い。

 名前を知らずとも女と男は特別困る事なんてなく、ただただ幸せそうに寄り添っている姿が日記の中にはあった。互いに名前すら知らない女と男の逢瀬は何処までも穏やかで、雨音の中で二人きり、女と男の声だけが響いているようだ、と少女は思う。

 男が何をしている人間なのかも女は然程知らない様子だった。男が故意に隠していたのか、女が知ろうとしなかったのかは分からないが、雨の中で女と会い話す男の姿しか日記の中には書き記されていなかった。

 ただ、男が日向の中を歩くにはあまりにも遠い存在だと言う事は、女はなんとなく分かっていたらしい。

「日陰を歩くあの人が、何をしていたって私は構わない」

 柔らかい字でそう書かれた文を少女は撫でた。


 少女は日記を読み進めた。最初の季節が過ぎて、次の季節がやって来て、また季節が巡り、冬が過ぎ、春が来て、夏が過ぎ、秋も過ぎ、そうしてまた冬が来た。日記の残りの頁は少なくなっていた。

 女と男は相も変わらず、互いの名も知れず、雨の降る中、赤い傘の下で逢瀬を重ねていた。

 けれども、秋が過ぎた辺りから、男が女の元を訪れない日々が増えていた。会いたい、と綴られる女の文字は細く寂し気で、その文字を見る度、少女は文字を撫でた。

 冬の中で、女が男と会えたのは、片手で収まる数だった。その年の冬は雨が少なかったのもある。けれども雨の中待っていても、男が現れ無い日も多かった。女はそれでも男を待ち続けたようだった。

 残り僅かな日記の頁。冬はやがて春になっていた。

「あの人が日照り雨の日に迎えに来てくれる」

 その頃の日記はそれまでと様子が違っていた。男が迎えに来るのだ、と女の日記には書いてあった。

「彼と共に行く」

 これから日向を歩けぬ男と共に行くのだ、と綴られた文を少女はじっと見つめる。

 草木が芽吹く春、桜が咲く崖の上。日照り雨の日、男と二人手を繋ぎ、赤い傘を差して行くのだと女の字が躍っていた。

 日照り雨が降る中、桜の花びらが舞う崖の上で赤い傘を差した二人が佇む情景が、少女の瞼に浮かぶ。けれどそれも幻想に過ぎない。結局最後はどうなったのかなんて日記には書いていなかった。

 共に行くことが嬉しいとも書かれていない日記を少女は見やる。ただずっと待っていたのだ、と言う事が窺えた。

 日記は、どうか見つけて欲しいと、言う言葉で締めくくられていた。


 少女は日記を閉じる。藍色の表紙の日記は黙したまま、女と男の結末を何も語りはしなかった。

 ふと、何を見つけて欲しかったのだろう、と少女は考える。何を、とも書かれていなかった。ただ、桜の木の下に埋まっている、とだけ背表紙の裏に記されてあった。

 少女は小屋の中にあった鉄錆びたスコップを持って、小屋を出た。外は日照り雨が降っていた。


 桜の花舞う崖の上、大木となった桜の木の下には真っ赤な傘が埋まっていた。

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