第6話

彼女は終わらせたいのだろうか。

そんな問いが胸を突く。

強く、息を止めるような強さで。音が、目の後ろで花火のように広がる。

美しい光の残像だけが、目の影を通して私の視界を散っていく。

小さな音たち。意味を振り切った、羨ましい音。

私の胸は、痛みに弱く鳴る。それでも血の速さは変わらない。


「言ってほしいって、本気で思ってるの」


「思ってる。だからこうしてちいかちゃんと向かい合っているんでしょ」


「後悔しかしないかもしれない」


「ちいかちゃんは、後悔すると思うのね」


「思うよ。だって」


「だって?」


私は唇を噛んだ。熱が走り回る。

頬が、目の奥が、鼻筋まで痛みが這い上がっていく。

真っ暗で、本当に良かったと思う。

未練を迸らせ、体がじっとりと濡れている。

握りこんだ手のなかは、汗でいっぱいだ。

乾いているのは口の中だけで、何度か唇を舐めてみたけれど全く潤わなかった。


「野中」


「なぁに」


「本当に聞きたいんだね」


「聞きたいわ」


「聞いたその後のことを想像できる?」


「想像はね。でも、本当のことは分からない。だって私はまだ何も本当には聞かれていないんだから」


「―そうだね」


私は諦める。

そう口にだしそうになりながら、必死で堪えた。

片方の耳が、枕との板挟みで傷みだす。

送り出された血液は元気で、私は体の生きたい力に生かされていることを強く意識した。


「野中、聞きたいことがあるの」


「いいわ。きいてちょうだい」


「野中は、どんなことを楽しいと思う子供だった?」


「色紙を並べることが好きだった。それで何かを作ることはあまり熱心じゃなかったわ。ただあの四角い色を、いくつも並べていくと心が落ち着いたの」


「今も好き?」


「今はちいかちゃんの絵を見る方が好きよ」


「ありがとう。じゃあ、野中の初恋は」


「初めて家族以外を好きになったのは、幼稚園の頃だった。相手が男の子だったのか、女の子だったのかも思い出せないんだけど、その子を思い出すと、いつも黄色い帽子を被ってた。歯を見せて笑って、私を振り向くの。名前はたしか、みからはじまる。みつるとか、みのるとか。みのりとか、みさととか。三文字の名前だったのかも。でも覚えてるのはそれだけ。いったいどうして好きになったのかは忘れちゃったわ」


「そう」


「傷付いた?」


「なぜ?」


「私はいい加減なところもあるんだって知って」


「そんなこと、前から知ってたよ」


「そう。ならよかった」


「ねぇ、野中」


「なあに」


「どうして、ここにいてくれるの」


野中がゆっくりと体を起こすのが分かった。

布団が体を落ちて、彼女の上半身が私を見下ろしている。

彼女は目を閉じていた。

息を深くして、呼吸と心音が同じ速さになるようにしているみたいだ。


「ちいかちゃん」


「なに」


「起きて」


私はその声に従う。

枕のそばに手をついて、できるだけ静かに。

頭というものはこんなにも重たかったのか。

そう思うほど、この球体は下を向きたがった。

離れていく枕に執着した。白いはずの枕。よく見知った、心のない隣人。

いつの間にか冷たくなっていた、手の中の汗がシーツへしみ込んでいく。


彼女と向かい合う様にして座った、私の手を、彼女はぎゅっと掴んだ。

痛いような力ではない。

手首に、けれど入ってくる熱は、とても強かった。

彼女の心音が、私をも同調させようと誘う。


「ちいかちゃんの手。ちょっと冷たいね」


「野中はあったかいね。眠たいんじゃないの?」


「そうだね。眠たい。明日は二人で寝坊希望だわ」


「それは構わないけど」


「私があなたと一緒にいるのはね」


野中の目が、私の両目に入る。

まん丸の意志。彼女の手の形に、心音は響いている。


「私があなたを好きだから」



そっと彼女は笑った。

そして手の力を緩め、私の手のひらを開かせた。

互いの指を編み込んで、握りこむ。

交互に入った指が、同じ握りこむ力を教える。

両手ともにそうされて、私は彼女の目から逃げるように下を向いた。


「でも、それは私の好きとは違うんだね」


「そうね」


「私は野中にキスしたい。抱きしめて、体中触ってみたい。同じくらい執着して、いつまでもいっしょにいたい。そんな、約束ができる関係になりたい」


声が途中から震えた。

幾度も選んだ言葉。

伝えることはないと繰り返しながら、その横顔に、後ろ姿に、私を見つける目の中に、私はいったい何度この気持ちを組み立てただろう。

この影が、せめて差せばいいなんて思いながら。

だからそれを、本当に口にしたとたん、恥ずかしくて目が回りそうだった。何より、想像のなかで幾度も想像した、困った顔で断る野中を本物にしたくなかった。

彼女は、けれどまだ手を放してくれなかった。

気もち悪いと、思っているだろか。

かすかに私の手は震え始めていた。

それを励ますように、握り返してきたのは野中の手だ。

柔らかい掌、指の腹。白いその形が、きちんと実物として私の手を握っていた。


「ちいかちゃん」


「なに」


「私、今まで女の子に告白されたことはないの」


「私もないよ」


「男の子と付き合ったことはある。処女でもない。それを聞いても、私が好き?」


「好きだよ」


「ちいかちゃん」


「うん」


「私、ちいかちゃんと手を握るのは好き。あなたの手は少し硬くて、色鉛筆を握るところがとくに硬くなってて、なのにすべすべで光沢まである。骨も細いのか、長くて一本一本が個性を持ってるみたい。風をその指先で、私へ吹き付けてくれたこと覚えてる?」


「野中に風と遊んでるところを見られたとき」


「そう。私にはない、あなたの指の物語も含めて好きよ」


「ありがとう」


「だから、手をつなぐことはいくらでも。抱きしめることも全く嫌じゃない」


そう言って野中は私の手を引っ張った。

いい匂いのする彼女の肩に迎えられた唇。

先にゆるりと巻き付けられた彼女の腕。

揺りかごにでもなったみたいに、私を受け入れる。

胸と胸が触れ合っている。鼓動が早鐘を打つのが止められなかった。


「ちいかちゃん。こうやって抱きしめ合うことも、いやだとは思わない。あなたを抱きしめるのは、私を安心させてもくれる。他人をこんな風に抱きしめたことはなったけれど、家族にする抱擁とは違う。血の繋がりのない、ちいかちゃんとくっついていることの方が、安心が深いかもしれない」


彼女の唇が動くたび、彼女の顎を置いた私の肩に振動は伝わった。

あまりの安らぎと焦燥に、体が半分に引きちぎられてしまいそうだった。


「だけど、キスやセックスはできない」


「分かってる」


「いいえ、まだ続きがあるの」


野中は体を一度放すと、いつの間に流れたのだろう、涙が走った私の頬を両手で包んだ。


「でもね、それはいつできるようになるか、分からないものよ」


「のなか?」


「ねぇちいかちゃん。このまま変わらない関係なんて寂しすぎる。世界は一秒も待ってはくれないのに。私たちだけが変わらないなんてこと、できるはずない」


そっと額の、髪の毛で隠れた真ん中に、彼女はキスを落とした。


「だから、そんなに簡単に諦めてしまわないで」


野中の頬の線。

何度も空間の上でなぞってきたやわらかさ。

今は見えない、たしかにある線の上を、まるい光が落ちていった。

ゆっくりと、形が変わっていく。

小さな光。丸く膨らんで、下へ間延びして、細い顎の一点で震えていた。

彼女の光。


「野中、ねぇ、」


「なぁに」


「私、あなたが好きだよ。恋しい気持ちもあるけど、あなたを裏切ることのない、友達としての、唯一の人として。あなたが好きだよ」


野中の目が、ゆっくりとまるく鎮まる。

光は内側でその熱を適正量に堪える。

落ちていった光は、きちんと闇に溶けて、世界はなにも変わってはいないみたいだ。けれど。


「私も。千五火ちゃんが好き。あなたが、本当に好きなんだよ?」




私たちがそのあと、どうやって手を離したのか覚えていない。

いつの間にか寒さに負けて、お互いの布団に潜り込んで朝を迎えていた。

少しの間、確かに笑い合ったことは覚えている。

野中が望んだように、少し寝坊をした。

私たちの朝ごはんはテーブルに置かれていた。

母からの短い手紙には、「出かけてくる」とだけあった。

温めなおしたみそ汁は、野中の好きな豆腐がいつもよりたくさん入っていたような気がした。

隣り合って座りながら、私たちは誰も聞いていないのに、ひそめた笑い声を落とし合った。

朝は遅く、大きな窓から庭木が揺れていた。



もしも私の気持ちを野中に知られたなら。

それは互いに感じ合うことではなく、確かに言葉で彼女を押さえつけてしまったら。

もう二度と、関係は修復できないだろうと思っていた。

たったひとつの掛け違いが、底の見えない溝を生む。

そしてそれはけして消えない。

私と父のように。母と父のように。

彼らの関係は続いているけれど、そこには確かにあったいいものが、また蘇ることはない。


私と野中の間の何かも、そうやって失われるか、変質してしまうのかの二つの分かれ道しか、用意されていないのだと思っていた。


彼女は、私を軽蔑しなかった。


野中は私を好きだと言ってくれた。

私の好きを突き放すでも、ただ受け入れるでもなく、頷いてくれた。

受け取ってくれた。そして諦めるなと言ったのだ。

それは私の望む形に流れるのか、彼女の望む方へ形を変えるのか、それとも二人の繋いだ手が、そのどちらでもない道を一緒に探していけるのか。

分からないけれど、彼女はこれからを、自由にしてくれたのだ。風のように。


私は少しだけ。

いつだったか風がそう教えてくれた。

風は私にまとわりつく。そしてしなやかに離れていく。

最後のほそい尾が、途切れる前にまたそよと風はやってくる。


風は私に何も求めない。

それでもこうして今も、そばにいてくれる。

何を感謝しろとも言わないまま、私にもっと少しだけになれということもなく、見つめれば吹いてくる。

風は、私の兄弟。風は私のやさしさ。私の自由。


では野中は。

野中は、私のではない。

彼女は彼女の自由を手に歩いている。

そのうえで私を見つめ返してくれる。

彼女の自由が、私を選んでくれる。それが、私にはうれしい。


はじめて、私は私は望まれている。


風が吹く。


私の歩く隣を。

彼女が歩く隣を。


愛していることは形にならない。

そのままで、歩いて行けそうだと、ただうれしかった。




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ワタシという風 とし総子 @tosi-souko

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