第5話

真っ暗にしないと眠れない私に合わせて、いつも小さな懐中電灯を手の中に忍ばせて野中は眠る。

女の子同士では、夜通し無駄話をして過ごすお泊り会。

そんなことをしてみようとしたこともあった。

母に大きな白い布を借りて、天井に小さなフックを取り付けて、簡易なテントを作った。その中に、家中にあるクッションや、古いぬいぐるみを放り込んだ。

その中で彼女の懐中電灯を灯して、肩を寄せ合ってみた。

話した内容は、あまり覚えていない。

会話が、そもそも弾むことが日頃あまりない二人には、イベントっぽく偽装しようとも、あまり効果はなかったのかもしれない。


どれくらいそうしていたのか、母が、夜のおやつを差し入れてにノックをしたころには、お互い別に用意していた布団の上にいた。

可笑しそうに朝食の席で母は言った。姉妹のような寝顔だった、と。

隣り合って座って、お互いに目を見合った。

嬉しそうに笑った野中は、机の下でそっと私の手に手を重ねた。

生温い温度が、やさしく私の冷たい手に残った。


それからはただ、布団を並べて十時が過ぎるころには横になった。

ぽつりぽつり、真っ暗な部屋の天井に向けて投げられる言葉が、私たちには馴染みよかった。

そしていつも先に寝てしまう野中の寝息を、私は子守歌に眠った。


真っ暗な部屋では、野中の寝顔を見ることも叶わない。

彼女の白い肌は、さすがに発光して浮かび上がったりはしない。

どんなに目を凝らしても、僅かに布団の盛り上がりが分かったり、寝具と彼女の髪の境がぼんやりと知れるばかりだった。

小さなころからの、暗いところでなければ眠れないという癖が、こんなところで私を救うとは。


私が真っ暗でなくては眠れなくなったのは、母の影響だった。

本当は、微かな庭木の揺らめきにも風の誘いを見逃さず、何度も寝床を抜け出す私に、珍しく行動を起こしたのだった。

今ならば子供が夜も遅くに、ふらふらと外に出ることの不安が、少しは理解できる。

だけど、幼い私にはそれを慮ることはできなかった。

どんなに母が必死に私を探しあててくれようと、その頬に涙が走るあとを見つけても、私には優先するものをもう決めていたから。

裸足で庭にいたのは初めのうちだけで、そのうち遠くへと風に踊らされるまま足は動いていった。

夜が私を食い止めはしなかった。星も月も何も私を止めなかった。

風が手を前へと誘い込んでいくのを、必死で追いかけた。


母は窓を封じた。雨戸を閉じ、窓を閉じ、遮光の分厚いカーテンを引いた。少しの音も影も遮断して、やっと私は静かに寝むる子供になった。

母をすこしだけ憎んだのは、この時だけだけだ。

風は朝、少し不満そうに強く私にまとわりつく。それが宥められない小さな子供だった私。


成長した今も、だから真っ暗闇でなければ眠れない。

風が呼ぶのなら、私はパジャマのまま、裸足で外へと飛び出すだろう。

夜に溶かされて、昼間より実態のような、蒸気の影のような、ぼやけた存在ながら風を視界に触ることのできる。

長く愛を求めた相手が、私には今も重たく命に係わる場所で、熱を持ち続けている。野中を置いたまま。


私は手を伸ばしたいのを必死にこらえる。

怖い。

そんな気持ちを彼女に押し付けることがないように。

爪を立てる腕は震えているから、時々は胸に押しつけて撫でてやる。

私を抱くものは、自身か風か。

彼女に飲み込まれたいだなんて、恥ずかしくて仕方ない。

並べた布団の距離、私は彼女を思い続ける。

彼女が夢に避難している間だけ、その体が私のこの想いの中におぼれてくれたらいいのに、と。


「ねぇ、ちいかちゃん」


暗闇の中、その声は閃光よりも鋭い。


闇一色しかない空間で、しっとりとひらいた彼女の瞳は、より一層深く渦巻くような、複雑な色味をたたえていた。

私は声を失う。

それはただその瞬間だけのものだったけれど、永遠にあの一瞬のなかで私の声は失われたままだ、と分かった。


「なに」


「そんなに何が怖いの」


起きていたことを不思議に思わない口調に、いつもの揺らめくような声の発し方とは違う、向ける一点に刺しこむ用意を感じた。


白い布団、枕、その上に彼女の明るい髪の毛は躍っている。

ほっそりとした顎、曲線は緩やかに頬をつくり、額は少し狭いけれどきれいな形をしている。まるい目の間をささやかな鼻が通り、そしてうすい唇が私の方を向いて開かれる。

見える、とは少し違う。

覚えてしまった線が、いつも握る色鉛筆の線で空間をなぞる。

それを野中の目にはめ込むように添える。

それはきっと寸分もたがわない彼女の形だ。


私の目を、彼女は真っすぐに見ている。


「なにも。なにも怖くなんてないよ」


「本当に?」


「何を怖がっているように見えるの」


「私」


声と同じ速度で彼女の手は伸びてきた。

何も拒まない、つまりは何も受け入れてはいない私の頬に辿りつく。

彼女の手は温かかった。

手と手では測りきれなかった、とろりと甘いようなぬくもりに、目に熱がこもる。


「どうして、私を知ることを怖がっているの」


「こわくなんて」


「じゃあ、どうして私をそんな目で見るの」


「どんな目をして見えるの」


「私の本当なんてすこしも欲しくないって顔」 


私は思わず頷いてしまいそうになるのを、どうにか堪えた。

彼女の本当。それを知ったなら何が変わるというのだろう。


「何を笑っているの」


「野中は、質問ばかりだね」


「あなたが聞いてくれないからでしょう」


「私のせい?」


「ちがう。あなたのためよ」


野中の手が、沿った時と同じように静かに私の頬を離れた。

指先が頬の肉を離れる、一瞬が心に焼き付く。

これ以上、いったい何を知ればいいというのだろう。

野中に聞きたいこと。そんなことが私にあるだろうか。


「野中は、何を聞いてほしいの」


囁くような声は、まるで楽しい内緒話のようなささやかな甘さを含んでいる。彼女がため息をつくように息を吐く。呆れた、そう言いたいのかもしれない。

それでも彼女は、口を開いてくれる。

赤い舌が、白い歯の奥で、静かに言葉の背を押す。


「例えば?私の幼い頃のこと。どんなことを考えていたのか。今にどうつながる成長があったのか。初恋や、大袈裟に聞こえるけれど裏切りや、家族のこと、どんな教科が好きで、それはどうしてなのか。これからどんな勉強がしたいか。そのために行きたい大学はどこなのか。どんな風に生きていきたいのか」


野中は流れるようにそう言った。

私は横になったままだというのに、眩暈がしそうになっていることに気付く。

触れなれた枕の硬さ。中のプラスチックの小さな輪が、微かな私の動きにも音を作る。

耳の中で、どくんどくんと血流が走っている。

それは私の描く線の速度に似ていた。

風が私に駆けてくる、あの恐ろしく無垢な速度にも。

そして私の目は閉じていたことを思い出して、開いた。


「ねぇ、起きてる?」


野中が小さな声で問いかける。

私は上がった熱をいくらか喉より下へ下ろしながら、「起きてる」と答えた。

野中が目を閉じて、安堵するのが伝わる。

そしてまた一段と強い目が私へ、開かれる。

まつ毛の柔らかな丸みが、あまりに幼い風を産む。

きっと私だけが受け止めた風。

私が愛した風とは、根本を分かつ風。


「あなたが一番聞かなければいけないこと」


「なんだろう」


「私が言うの?」


野中は本気なのだと、今更気が付いた。

もちろん、遊びで彼女がこんなことを言い出したのではないことくらい、分かっていた。

それでもこの一線だけは、守ってくれるのではないか。

そんな甘ったれたことを、まだ願っていた。

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