第4話

風が私を巡る。

体の中の、様々な液体の流れを追いかけるよう。

その作用を真似られるように、私は手の指を一本一本広げ、大きく胸を開いて、体を後ろへ反らせた。

体と心に境界がないように、私には世界と私の境界が曖昧だ。

それを望まれているようにも思うし、ただ私が望むように、風が沿ってくれてるようにも思う。

私は生まれてから今まで、一番近く風に囁かれ、その柔らかな襞に頬を寄せてきた。

そこには愛情とか、劣情、憧憬、友情、執着という関係性をつくるのに必要な糸は、ひとつも存在しなかった。

私のことが好きだとか、大切だとか、そんなものを与えてもらったことはない。

窓で切り取られた幼い私を、つまらないとは思っていても。私がいなくても、風は変わらない。美しく、透明な世界を撫でている。

けれど私は違う。

私には風に対して、執着も愛情もある。

こんがらがって、うまく体が動かなくなるほどに。

これが恋なのだと、思っていたほどに。

けれど違った。

私は野中に出会って、恋を知った。

そして風に抱くこれの名を、取りはがさなくてはならなくなったのだ。


ー恋ではない。けれど。


風を描いていた絵は、いつしか風と自身との関係性を描くようになった。

そしてもうひとつ、描くものが増えた。

野中だ。


彼女の後姿。

横顔。

手。

私に小さく振られる手。

言葉にしたならささいな合図を送る朽葉色の目。眼球の丸みを想像しながら、色鉛筆は走った。


彼女を描くとき、私は青を使う。

十二色しかない浅い色彩のなかの、二つをすり減らす。 

風との関係を映しこむように描くときは、緑を一番使った。

今では何本もを一緒には持たなくなったが、握りこむ癖は治らなかった。 野中は笑わなかった。目を細めて私の描く線の重なりを見ていた。


彼女は、私のものにはならない。

その焦燥が焼いた場所を、風は無遠慮に吹いた。

血が乾かないようにつよく。

そして風のことで絡まった思考の中で、息を細っていると、野中が私のことを呼んだ。甘い、あの声。そして思考の糸は、濡れて重たく下がる。

私の首だけを開放して。


野中はけして、何を描いているのか聞かなかった。

野中を描いているときは、ただ美しくそばにいてくれた。

そんな彼女に、風はやわらかく吹くようになったという。


「ちいかちゃんと仲良しのおまけね」と。


野中は毎週私の家に泊まりに来るようになった。

母は野中を気に入っているし、父は彼女のいる土日をこの家では過ごさない。

それがどんな取り決めで実行されているのかは、知らないけれど。


野中が泊まりに来るのは、土曜日の午後からがほとんどだった。

昼食を終えて、胃が落ち着くのを待っていると、控えめなノックが部屋に響く。

彼女の足音はあまりに小さくて、拾えないときがある。

我が家はスリッパを置いていないから、というのもあるのかもしれないが、まるでドアの外に唐突に出現したかのように、彼女はノックの音で現れる。私の世界に。


「どうぞ」


そう声を掛けるまで、彼女は何も言わずに待っている。

いつもは面白く豪胆なところを見せるのに、学校にいない時の彼女は繊細でおそろしく気を遣う。

それが息を詰めている様子ではないから、何も聞いたことはないが、彼女の自由はどちらなのか、私は未だに判然としない。


「お邪魔します」


細く開いたドアから、彼女の持ち込んだ空気が駆け寄る。

家では窓を閉めるようになったのはいつからか。

それは随分はっきり覚えている。野中に恋を自覚した時からだ。


野中は慣れた部屋をいつも一度見まわしてから、一番私の描く時、気にならない場所を察知して、巣を作り出す。

部屋に飛び回っている画用紙を重ね、開いたままの本を閉じていく。

私の放り込んだままにしていた衣類を、ハンガーにかけたり畳んだりもする。

最初にこの部屋に入った野中は、目をぐっと開いて、驚きを胸で収めていた。

口元を覆っていた白い手が、そっと剥がれ落ちると、彼女はどうしても聞いておきたいと言わんばかりの、はっきりとした声を出した。


「この部屋は何年ものなの」


「掃除は毎週やってるよ」


「じゃあ、どれくらいでこの状況におちるの」


「そんなにひどい?ちょうど今日で一週間だよ」


「わかったわ」


そう答えた彼女は早かった。

いつもてきぱきとした人だとは思っていたけれど、彼女は私の絵を描くスペースを中心に、きれいに円を描くように片づけをしていった。

母が部屋に入っても気が削がれるというのに、野中の立てる微かな紙の音や、膝を床につけるやわらかな音、呼気ですら連なる音楽のように感じた。彼女はいつの間に仲良くなったのか、気が付いたころにはモップ掛けをしており、それはどこから持ってきたのか問うと、


「ママさんから借りたわよ」


と笑った。彼女がきれいにしてくれた場所を私は撫でた。


「野中はきれい好きなんだね」


「自分が座る場所と寝る場所にかぎってね」


「でも学校で掃除してるときは一番動いてるように思うけど」


「そうね」


野中は、一人であっちもこっともと磨き上げていく。

他の担当している場所であっても、自分に手が空けばするりと入り込んで終わらせていく。

彼女にはきちんと掃除の順序ができており、そのペースに人を合わせることはしないが、自分のそれを相手に合わせて変化させたりもしなかった。

時折、近くで掃除をしている時、他の生徒と変わりなく、ぼんやりと彼女を見ながら動いていると、彼女はそっと視線を寄越した。

手が止まりかけてる。そこはもうきれいよ。もっと力を込めて。

そんな適格な言葉が脳に響くような目に、私は兎に角頷いて見せるしかなかった。

そして野中は笑って目を逸らし、自分の作業へと戻っていく。


私は、彼女の声にも、目にも逆らえない。


野中は言う。

ちいかちゃんは、ほしいものが足りていないのね。

それが何かを、彼女は追及しないけれど、たぶん分かっているのだ。

そして、私が彼女にこの想いを伝えることはないことも。

それによって野中との関係が、今の永遠に変化しない円をはみ出し、現実の中で、ぐちゃぐちゃになって、なかったことのように見えなくなることを。私は恐れている。

だから彼女は答えない。私のために。

そしてそれは彼女にとっても、譲れない一線なのだと思う。


パステルカラーのワンピースは、ふわりとした印象とは違って、きちりとかたい生地でできていた。制服の冬の生地。それを思い出すような、野中の内面を象徴するような服たち。

毎回ワンピースを着てくる彼女に、


「いったい何枚持っているの」


と聞いた。


「私が飽きないくらい」


と、ため息を吐くように言った。

彼女の着てくる洋服は、彼女によく似あっているけれど、それを彼女が好きなのかは今も知らない。


「ちいかちゃんは、私になんにも尋ねないのね」


時々、片付けも終わり、私も色鉛筆を走らすのを止めて、少し人心地ついたような空気が流れたとき、彼女は口にする。


「何にもってことはないけど」


「ふうん」


野中は、唇を尖らせるようにしてそれだけを言う。

私の家に来ると、そこからどこかへ出かけることはない。

それなのに野中は、とてもていねいな化粧を施してやってくる。

眠る前には、静かにいくつもの小瓶から液体を振りかけ、白い手でそれを美しい顔へとしみ込ませていく。

あまりにゆっくりとした動作でそれは行われるので、私は日ごろは見られない、野中の額の線や、何も色が付いていない唇の、そのままの姿を焼き付ける。

野中はそんな視線には全く乱されず、決められた動きを繰り返していく。

その完全に隔絶された距離が、彼女には似合う。

そして私たちにも。

何も尋ねない。尋ねるのは野中の役目で、私は彼女の中に情報として、心象として、立体を持っていく。

けれど私には、もうそんなものはいらないのだ。

あまりに鮮やかで、輪郭をなぞることさえできないものが、私の体のすべてに存在して、私の内部のあらゆるものに影を与えてくれている。

これ以上の光量は抱えられない。

彼女と歩いていくためには、必要な量を守らなくてはいけない。


たとえば、どうして毎週ここへ彼女は泊まりにくるのか。

何故、そんなにも美しい佇まいのまま、私のそばにいるのか。

目線の中に、僅かに混ざる揺らぎは、どんな感情なのか。


ねぁ、私を、好き?

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