とりとめのない短編集
仁科するめ
第1話 僕と春が向き合う話
僕は春が好きだ。暖かくて、桜や梅が咲いていて、花粉が飛ぶのはつらいけど、気分が前向きになる。でも春を憎んだことが一度だけある。
僕は大学に入学し、地元から遠く離れた千葉の街に住むことになった。いわゆる「千葉都民」というやつである。不慣れな通勤電車に揺られ、大学のよくわからない講義を受けた後、最寄り駅の駅前にある塾でバイトをする日々だった。大学も塾のバイトも、僕にとっては刺激的な日々で楽しく感じていた。大学の同級生の友達も少ないながらできたし、塾では尊敬できる講師の先輩や愛する生徒たちに囲まれて授業を頑張れた。
塾講師という仕事は難しかった。自分自身、教育学部を卒業したわけでも在学しているわけでも何でもないのに、教室の扉をくぐった瞬間に「先生」と呼ばれるからだ。以前「先に生まれただけの僕」というドラマがあったのをふと思い出し、言い得て妙だと考えることもあった。しかし、同じ教室の講師の先輩方が様々なアドバイスをくれたことで、自分自身でもわかるほど講師力が向上していると感じた。その中でもN先生は経験・実力ともにピカイチで、たくさん頼ったしたくさん教えを乞うた。プライベートでも仲良くしていただき、僕の家でスマブラをしたり、N先生の好きな遊戯王に興じることもあった。僕は小中で遊戯王をはじめとするカードゲーム全般に触れたことはなかったため、全くの初心者から始めていたが、デッキ作りやルールなど、様々なことを持ち前の「講師力」で教えていただき、ついにN先生に勝つことができるレベルになった(ほぼN先生の反則によるサレンダー負けだが)。N先生には公私ともにお世話になったし、親元を離れて不安が大きかった一人暮らしを支えてくれた一人だった。
塾講師を初めて一年と半年が経とうとした冬の初めのころ、N先生に焼肉屋に呼び出された。僕は「N先生のおごりでうまい肉が食える!」とルンルン気分で向かったが、N先生はそうではなかった。無論、おごることが嫌だったからではない。
席に着き、ビールと食べ放題プランのタン塩を注文し、話は僕たちが勤めている教室の受験生のことになった。当時僕もN先生も数名の受験生を担当していた。お互いの受験生の様子について情報を共有し、意見交換したのち、お互いの身の上話になった。僕は「大学の単位を落としすぎて留年しそうな話」をし、N先生は笑いながら
「後期こそはがんばれよ」
と声をかけてくれた。次はN先生のターン。N先生は「春から別の教室で勤務になりそうだ」という話をした。僕たちが勤めている塾は全国チェーンで、当時N先生は近隣の他の教室でも授業を行っていた。それが春からその教室専任になりそうだ、という話だった。七輪の上ではハラミが焦げ始めていた。
「断ろうと思えば断れる。今高校二年生の生徒も担当しているし、無責任に放り出したくはない。」
N先生は悩んでいた。その教室の専任になれば、N先生が目指している社員登用にも近づけることは明白だった。僕はどう声をかければいいかわからなかった。とりあえず焦げたハラミを取り除きながら、僕はおもむろに話し始めた。
「N先生は、今後自分の人生を歩むべきだと思います。教室や生徒のことは、僕たち後輩たちに任せてください。N先生が育て上げた講師がいるじゃないですか。」
こうは言ってみたものの、内心不安でいっぱいだった。教室一の実力者がいなくなること、これからN先生に会えなくなること、N先生の担当生徒のこと…悩みの種は尽きなかった。
でも、僕はホルモンを網に並べながらこう続けた。
「僕たちは大丈夫ですよ。今やN先生なんか目じゃないです。」
強がる僕をよそ眼に、ホルモンはどんどん固くなっていった。
結局、N先生は3月いっぱいで異動していった。最後の日に行ったささやかな送別会では、N先生は珍しく酔っていたが、それも無事お開きになった。
N先生と別れるとき、酒が入った僕は強がっていた。
「いつでも戻ってきていいんですからね。たまにはうちにも遊びに来てくださいよね。遊戯王強くなっておきますからね。次はボコす!」
最後はもう目を見ることもままならなかった。帰り道、僕は一人で静かに泣いた。
春が来るたびに思い出す、一人の講師との別れ。どんな卒業式の思い出よりも小さく、色濃いものだった。
今年も桜が咲いている。あの日の帰り道に見た桜の木が今年も咲いている。あの時は夜桜だったけど、今日は晴れ空だ。先生になってから、涙もろくなった。
とりとめのない短編集 仁科するめ @aburamashimashi
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