あの人の続き

佐古間

あの人の続き

三月二十一日 小雨

通勤路にある桜並木、昨日まではそろそろ満開になりそうだったのに、生憎の雨で今日は少し元気がない。

田島珈琲でブレンドを一杯。

洗濯の予定だったが、雨の様子を見て明日に回すことにする。



三月二十二日 晴れ

昨日の天気予報で晴れ予報が出ていたので、いつもより少し早く出勤。

桜並木が予想通り殆ど満開になっている。写真を撮ろうとカメラを構えていたら人とぶつかってしまった。何事もなく謝罪で済んだが、相手の人も写真を撮っているようだった。

田島珈琲でホットラテを一杯。

明日はゴミの日。



三月二十三日 曇り

もう少し写真を撮りたくて今日も早めに出勤。

予報では曇りだったが、朝の時間は眩しすぎず丁度良い光加減。今日は道の全体を撮ろうとしたら、昨日の人が先にカメラを構えていた。

いかついカメラを持って慎重に画角を決めている。邪魔にならないように今日は撮影を諦める。

田島珈琲でブレンドを一杯。

そろそろアイスコーヒーでもいいかもしれない。



三月二十四日 曇り

昨日撮影できなかったので、今日も早めに出勤。

今日も、例の人がカメラを構えて先にいる。道の撮影ではなさそうだったので自分も撮影。どのくらい早くから来てるんだろ?

田島珈琲でブレンドを一杯。

明日からの天気予報では少し冷え込むらしい。アイスコーヒーはおあずけ。



三月二十五日 雨

桜が気になって早めに出勤。幸いそこまで強い雨ではないのでまだ散りきってはいなさそう。雨の花びらもよさそうだったので数枚撮影。

今日は例の人から声をかけられる。認識していたのは俺だけじゃなかったようだ。近隣でお勧めのコーヒーショップを聞かれたので、田島珈琲を教える。もしかしたら後で会うかもしれない。

田島珈琲でホットラテを一杯。

あの人はいなかった。





 さあさあと雨が降っていた。霧雨のような雨だ、夜の間に止むらしい。

 雨は降っていたけれど、埃を飛ばすために部屋の窓を開けていた。家具を動かしたばかりの、埃っぽい匂いに雨の匂いが混ざっていく。

 つい、夢中になって読んでいたのは五年前の日記だ。丁度、私とあの人が出会った頃の日記になる。書いたのは私ではなくあの人で、当時会社勤めをしていたあの人の生活が、つらつらと単調な文章で綴られていた。

 他人の日記を読むことに後ろめたさは感じていたが、日記を開いたこと自体は不可抗力だった。模様替えをしようと思い至った数時間前。棚の中をひっくり返して軽くして、ついでに不用品の整理なんかをしていた折、立派な装丁の本が出てきたのである。

 濃い茶色のハードカバーで、何かの小説かと思ったのだが、表にも裏にもタイトルらしい文字がない。ブックカバーがかかっているわけでもなく、不審に思って中を開いた。

 それで、この本の正体が日記だと気が付いた。見覚えのない本だったので、書いたのは当然あの人だ。私と出会う少し前からの日記だから、探せばこれの前もあるかもしれない。

 後ろめたさを感じたまま、それでも読み進めてしまったのは、たまたま開いた部分が私と出会った頃の日記だったからだ。別に、当時私にどんなことを思っていたかとか、そういう詩的な内容が書かれているわけではなかったが。

(どちらかと言うと、田島珈琲の注文履歴みたい)

 今日はブレンド、今日はホットラテ。少し暑くなってくるとアイスコーヒーにアイスラテが混ざって、ごくごくたまに、アイスティーが入る。

 あの人が通っていた田島珈琲は、古い民家に挟まれた個人店で、地元の常連が多い店だった。気の良く穏やかな夫妻が店を切り盛りしていて、丁寧に入れるコーヒーが美味しかった。

 あの人に紹介されてすっかり私もはまってしまって、しばらくは用事もないのに田島珈琲目当てであの通りを目指したものだ。

 それは、あの人に会えるかも、という打算もあったけれど。





四月四日 晴れ

今日は朝から田島珈琲へ。アイスコーヒーを頼んでいたら、声をかけられて驚いた。

少し前に桜の写真を撮っていた女性。丁寧に田島珈琲を紹介した礼を言われた。気に入ったらしい。

彼女は今日も大きなカメラバッグを持っていた。カメラマンかもと思ったが、聞けずに切り上げた。

また会えるといいけど。

田島珈琲でアイスコーヒーテイクアウト、夕方にブレンド。



四月五日 曇り

今日も朝から田島珈琲へ。同じ時間にあの人が現れる。

聞けばやはりカメラマンで、都心の街並みを撮影して回っているらしい。

名刺を貰ったので検索してみたら、近くで個展をやってるようだ。

田島珈琲でアイスティーをテイクアウト。夕方にブレンド。

週末行こうか少し迷う。



四月六日 曇り

現場直行日。夕方の帰社に合わせて田島珈琲に立ち寄る。

マスターからあの人の事を聞かれたので曖昧に答える。朝以外も時々来ているらしい。

検索を続けていたら作品をいくつか見れた。好きだな。

田島珈琲でホットラテ。



四月七日 雨

今日も朝から田島珈琲に行ってみたが、あの人とは遭遇できなかった。

なんとなく撮った写真の整理をしてみる。やっぱり光の入れ方が難しい。

田島珈琲でアイスコーヒーをテイクアウト。夕方にホットラテ。

個展に行ったら会えるだろうか。



四月八日 雨

週末にかけて豪雨らしい。

雨と言えば、ネットで探したあの人の作品に、雨の街並みがあった。

暗い空の向こうから晴れ間が見えて、道を歩く人の雨の装いがノスタルジックで好きな一枚。

田島珈琲でブレンドを一杯。

個展のチケットを購入した。





 あの人は趣味でカメラを触っていたのだったか、と思い出す。

 最初に見かけたときはスマホで桜の写真を撮っていたが、小雨だったからだと気づいたのは、ミラーレスで撮っているのを見たからだった。

 あの人と付き合うようになって、思ったよりも持っているカメラの数が多いことに驚いた。趣味で集めるには、カメラも、レンズも高額だから。

 私は人や、人の生活、息遣いを撮ることを目標にしていた。あの人は私と違って、日常に交じる何気ない自然を撮影するのが好きだった。

 三年前までは、季節の花を見に行って、よく一緒に撮影をした。あの人は植物を主体に。私は、人と植物を一緒に。

 私から見ても美しい写真は多かったけれど、あの人は頑なに、撮影した写真を公開しようとはしなかった。一枚一枚、丁寧に印刷して、アルバムに収めて、時折私にそっと見せてくれるのだ。私が推薦しても良かったが、あの人が嫌がったので結局あの人の写真は世に出ぬままだ。今は私がひっそりと眺めるだけで、私だけの写真になっている。

 一度だけ、どうして公開しないのか聞いたことがあった。

 まだそれほど親しくなっていない頃、初めてあの人が私の個展に訪れた時のことだ。

 雨の日の街並みを映した写真の前で、一人じっと写真を見ていたあの人に思わず声をかけたのだ。あの、桜並木で見かけた、田島珈琲の人だと気が付いて。

 あの人は私だと気が付くとすぐに顔を綻ばせて、お会いしたかったんです、と言った。

 それから、名刺を渡した後、私の作品を調べて、この写真がどうしても見たかったのだと教えてくれた。

 私はあの人がカメラで撮影をしているのを見ていたから、同業者とは言わずとも、志望の方かと思って、どこかに出したりしないのかと聞いた。話の流れで見せて貰ったスマホの写真が、とても美しかったからだ。

 あの人は苦笑を浮かべて、どこにも出さないと言った。自分の写真は、本当に撮りたいものを映せていない気がするから、と。

 その時はさらに踏み込んで聞くことが出来なかった。ただどうしようもなく惹かれたのはその瞬間で、ではこの人は、趣味の範囲からは逸脱したレベルの作品を生み出しておいて、一体何を映したいのか? と。

 少しずつ、少しずつ、あの人との距離を詰めていくのは、傍から見たら大分あからさまだっただろう。

 ただあの人は鈍感で、あるいは気づかないふりをして、私を好きだと認めさせるのに随分時間がかかってしまった。

 それが、三年前。一緒に暮らすようになってから、あの人は私に写真を見せなくなって、その内、カメラ自体も手にできなくなってしまった。





七月十一日 晴れ

日差しが暑い。行き帰りが大分しんどくなってきた。

彼女が軽量カメラを買ってきたが、どうにも重くてダメだった。

とても嬉しかったが、力の入らない自分の体が恨めしい。

外に出る時間が減っている。今日は彼女がコーヒーを入れてくれた。

アイスだと体が冷えるので、ホットコーヒー。少し温めて飲んだ。



七月十二日 雨

頭痛がひどい。自分の体じゃないみたいだ。

昨日の軽量カメラをもう一度持ってみる。数分なら構えていられそうだったので、洗濯をする彼女を撮った。

多分、すごくぶれてる。



七月十三日 晴れ

起き上がれなくて彼女に心配をかけてしまった。

昨日、調子に乗って少し外を歩いたのが駄目だったらしい。

確認して、薬を少し増やす。



七月十四日 晴れ

やっと撮りたいものが見つかったのに。

時間が、何もかもが足りない。



七月十五日 雨

昨日から入院。

今日は少し回復した。彼女はよく笑ってくれる。

好きだなあ。

死にたくないなあ。





 ぱたりと日記を閉じた。雨の音が少しうるさい。

 周囲に散らばっていた不用品をまとめて袋に入れて、日記は設置しなおした本棚に差し込んだ。

 棚の場所を移してできた壁面に、額縁を沢山買ってきて綺麗に並べた。

 あの人が撮るだけ撮って、世に出さなかった写真たち。こんなことをしてはあの人は嫌がるだろうが、結局、こうしてみるのは私だけなのだから、少し大目に見て貰おう。

 模様替えはもう少しで終わりそうだった。もう着られないあの人の服。いっそ捨ててしまえたらいいのにと思いながら、丁寧に畳みなおして衣装ケースの中に入れた。

 不意に田島珈琲のブレンドを飲みたくなった。少し濃く抽出された、酸味が薄く苦みの強いブレンド。それで、本棚にしまった日記に目を向ける。

 途切れた日記に続けるように、注文記録と一言を書いていったなら、それは。

(まるでまだ、あの人と生きてるみたいだ、なんて)

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