私の日記

ささやか

日記

「日記を書くといい」

 は私にそう勧めた。

「日記を書くという行為はその日を確定させることに他ならない。君の人生はどうにもふわふわして頼りない。まるで他人事ひとごとのようじゃないか。きちんと自分の人生として体験し、それを記録に残すことで固定させなさい」

 が言うので私は日記を書いてみようと思った。が、日記帳がなかった。何より日記に書くべきことがなかった。

 なんということだ。私は愕然とし、おたまでフライパンを叩き鳴らした。カンカンとけたたましい金属音が私を苛立たせる。こんなことをしても何も物事は解決しないではないか。腹が立ち私はおたまを投げ捨てた。

 諸悪の根源たるおたまを手放したことにより、私の頭蓋骨に明晰な脳味噌がリポップする。閃いた。日記帳がないなら日記帳を買いに行き、日記帳を買ったことを日記に書けばよいのだ。完璧だった。一分の隙もない計画であった。己の聡明さが恐ろしかった。私は「己の聡明さが恐ろしい」と声に出してみた。少しだけ気分がよくなった。

 かくして私は日記帳を買うために自宅を出る。ちょうど午後二時三十八分二十三秒の時だった。向かうは町田文具店だ。ここらへんで文房具を買うとなれば町田文具店しかない。町田文具店に日記帳がないということは、それ即ち日記帳の入手は不可能ということを意味している。

 るんたった、るんたった、と歩かなくてならない。けれど私はるんたったと歩くことができない。るんたったと歩けない人間はやがて死に至る。だから私は死ぬ。仕方がない。死んでもいいな、と思う。だけど積極的に死ぬほどではない。私はてくてくと歩く。右手を強く振るとフライパンの風を切る音が心地よい。

 やがて町田文具店が見えてくる。黄色い看板が目印の古ぼけた小さな店舗だ。だがどういうわけか町田文具店のシャッターは閉じていた。どうしたことだろうか。嫌な予感を覚えつつ、私はシャッターの前まで歩いた。シャッターには張り紙が貼ってある。文字。文字が書かれている。閉店のお知らせを意味する文字が書いてある。町田文具店は閉店していた。終わった。私が日記帳を手に入れることはできなくなった。日記を書くという人間的行為を実行する機会はあっけなく失われた。すこっとあるべき道を踏み外してしまったような気分になる。踏み外してしまった。

 日記帳がないと日記が書けない。日記帳がないと日記が書けない。日記帳がないと日記が書けない。「日記帳がないと日記が書けないんです、日記が書けないと人間的じゃないのです。私は人間ではないのです。それは駄目なことです。どうしたらいいのでしょうか」と通りすがりのおばさんに尋ねてみたが、彼女はゴキブリか大便を見るような目で私を見た後、何も答えず足早に去ってしまった。他の人にも尋ねてみたが大して変わらなかった。どうすればいいのだろう。私は心底困り果ててしまった。困って、困って、困ったところでようやくがやってきた。

「やれやれ、踏み外してしまったものは仕方ない。日記帳がないなら他のモノを利用すればいいのさ」

 はいつもどおりらしくしていた。

「考えなよ」

 私は考えた。答えは意外と簡単だった。私は持っていたフライパンで思い切りシャッターを叩く。ガシャンという音がした。叩く、叩く、蹴飛ばす。シャッターを破ることはどうにも難しそうだった。だが諦めてはいけない。努力が実を結ぶなんて絵空事は意外と現実化するのだ。私が努力を重ねていると、よくわからないおじさんがやってきて「何やっているんだ」と言う。見てわからないのか、莫迦め。私には日記帳が必要なんだよ。私は殴打の対象をシャッターからおじさんに変更した。何の取柄もない屑の見本市で展覧されていてもおかしくない私だが、国際フライパン殴打技師としては二級の資格を有しているのだ。おじさん一匹を殴殺することくらいわけない。こつは反撃と回避を想定しながら殴打を実行することだ。おじさんを殴打しているとまた何匹か人間がやってきたので、私は敢然と己の腕を試してみた。三匹目で警察官がやってきて抵抗虚しく逮捕された。私とフライパンは永劫の離別を余儀なくされた。悲しくておいおいと泣こうとしたが弘法筆を選ばずというように私もフライパンを選ばないので泣く必要はないと気づいたのでやめた。代わりに翌日は右腕に筋肉痛が生じた。

 拘置所は窮屈だったし、取調べは理屈と理由ばかり並べ立てられて本当に退屈だったが、それはつまり人生ってことで、いつもどおりということだった。楽しいことなど何一つなかった。ある時、私は弁護士を呼ぶことができると教えられたので、是非ともとお願いする。待っているとその日のうちに弁護士と面会できることになった。弁護士は黙秘権だとか今後の見通しだとかを小難しく語るがそんなことはどうでもよかった。日記。日記だった。弁護士の説明を遮り、私の事件がニュースになったかどうかを尋ねる。

 返事は肯定だった。大きく息を吐き、どっぷりと深く安堵する。日記は無事に書けていた。それが全てだった。今夜はぐっすり眠れそうだなと私は思った。

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