幸せな読了

かなぶん

幸せな読了

 遥かな昔。もう、いつとも思い出せない時に、どんな容貌だったかも忘れた相手は、其れをここへ連れてきた。其れが願った通りに。

 ――無尽蔵の書物が収められた書庫。物言わぬ本だけが並ぶ空間。

 上下左右、延々と続く本棚は、今なお増え続けている……らしい。

 らしいというのは、其れのため、ここを創った相手がそう言っていたから。

 彼の相手は、神、なのだろう。

 だろうというのは、其れの予想だ。かつて其れの目の前で神が行ったことは、神だけが持つと聞く、創造の力そのものだったから。

 そして、そんな神が其れをここに、其れの好む本だけがある場所へ連れてきたのは、神が其れを気に入ったためだという。

 何故、と問う言葉はすでに意味をなさなくなって等しい。遥かな昔に神自身から聞いた気もするが、其れは今、覚えておらず、たぶん、神もその理由については明確には記憶していない。

 互いにそれくらいの認識――だが、神が其れを忘れることはない。

 何せ、神は欲深き神なのだ。

 一度虜にした其れを、理由が分からない程度で手放すことは、これから先もない。

 とはいえ、其れ自身、ここを出て行こうとは、今までも、そしてこれからも、思うことはないだろう。想像すらするはずもない。

 ここは、欲深き神が問いを重ねることで、ようやく其れから引き出した望み。

 其れにはここ以外に魅力を感じられる場所がないのだ。

 ――一生かかっても読み切れない本のあるこの空間以外には。

 その一生を神と添わせるため、変化を余儀なくされた其れの姿は、今はもう、とっくに元の姿とはかけ離れていた。まあ、実のところ、以前の姿など其れは詳細に覚えてはいないのだが、時折、反射するモノに映る自分の姿に驚いてしまうため、たぶん、今の姿は元の姿とは違うのだろうと思っている。

 其れが依然として持ち得ているのは、そうやって種々に感じられる心と本を見る視力、本を持つ手と本を捲る指だけ。

 他に其れの能力をあげるなら、この世界の虜となるにあたり神へ願い得た、どんな世界の文字もなぞれる語学力、どんな文体でも読める読解力ぐらいか。


 こうして其れは、今日も本を読みに棚を巡る。


 うっかり自分の姿を見てしまわないよう、全身を覆うローブを引きずりながら、飽きもせずに今日のお供を探して、疲れ知らずの身体で背表紙を辿る。

 と、珍しく棚の文字が目に入った。

 ――日記。

 膨大な数の書籍を収める棚には、分類ごとに名前がついていた。

 今日はこの棚にしよう。

 まずは一冊。


 ほっそりとした指が深紅の布地に金縁が施された本を引き出す。

 そこに書かれていたのは、日記というより記録。

 どこかの国の治水やら産業やら軍備やら、とにもかくにも個人の入る隙がない。

 少しばかり退屈だ、と心ある其れが思っていれば、不意に内容が変わる。

 最初は記録の合間に。次第に記録を押しのけて綴られる不穏。

 悪夢――。

 そして唐突に白紙となり、赤黒い染みと焦げた痕が付着する。


 続いて引き抜いたのは、可愛らしいキャラクターが描かれた本。

 その内容にはいつも特定の人物が書かれており、常に好意が溢れていた。

 けれど急に訪れる戸惑い、不安。

 迷いが感じられる文字がしばらく続いた後、吹っ切れたように、それでも好きと書き連ねられた言葉に、なんとなく其れはむず痒い思いを抱く。


 次は本というよりもノートに近い冊子を開く。

 書き手は時間がないのだろうか。それとも筆無精なのか。

 短文だけが記載されており、内容は覚え書きに近い。

 何かを探しているようだが、どうにも上手くいかないらしい。

 ――絶対違うと思うことが確実に正しいのは間違っている!

 憤りは分かったが、意味が分からず其れは困惑した。


 気を取り直し、日記らしい日記の表紙を手に取った。

 しかし中にあったのはネタ帳のような走り書き。

 くすりと笑えるモノから、感情が無になるモノまで多種多様。

 すると途中から、家族の話になった。

 どうやら書き手は愛情深い人のようだ。

 特に父親に思い入れがあるらしい。

 其れは温かな気持ちになり、うまくいくように祈る。


 手帳サイズの日記には左ページに地図が書かれていた。

 ところどころにバツがつけられており、それに対する詳細は右ページに。

 書き手は几帳面な性格――と其れは思ったのだが、続くページには子どものらくがきが描かれ、その側には文字と言い難い文字で、らくがきに対応していると思わしき名前が書かれていた。

 神由来の読解力のある其れでなければ困惑するばかりの内容だが、生き生きと楽しんでいる様子だけは、誰でも感じ取れるだろう。


 青い日記の書き手は、三日坊主らしい。

 思い出したように日々の事柄が書かれている。

 味気ない文体が続く日記だが、書き手が見た夢の話は其れの気を引いた。

 そこでは嫌いなモノを美味しいと感じられたらしいのだが、現実に戻ればやはり嫌な味だったそうだ。だというのに、またその食べ物を美味しいと感じたいと思い、もう一度同じ夢を見たいと願う書き手の心は、飲み食いを必要としない其れにも、ひしひしと伝わってきた。


 それは一見すると日記とは思えない外装だった。

 何かの宗教本のようにも思えたが、内容には懺悔が続く。

 守りたかった者を守れず、見守ってきた想いを喪い、それでもなお支えた相手は、書き手に未来を託して死んだという。

 何を間違ったのか問いかけだけが延々続く。

 同調するように其れも暗い気持ちになるが、晩年は穏やかな時が訪れたようで、吐く息もない其れはホッとする。


 次いで上品な白い日記が其れの気を引いた。

 流れるような筆致は日記に相応しい優雅さだが、苦悩が滲んでいた。

 ――いっそ好きになれたら良かったのに。

 政略結婚の話だろうか?

 相手はずいぶんと書き手を好いているように読めるが、書き手は死なない程度に飽きてくれる方法を探しているらしい。

 人の好みはそれぞれだから、とここに連れて来られる前から、色恋沙汰とは縁遠かった其れはひっそり思う。


 シールやイラストで埋め尽くされたノートは、交換日記らしい。

 ページを捲る毎に違う筆跡の人数は三人。

 絵に近い文字、お手本のような文字、丸みを帯びた文字。

 日々の出来事を書く傍ら、何か噂を集めているようだ。

 主に、お手本のような文字と丸みを帯びた文字の書き手が、噂に対して議論を交わしており、絵に近い文字の書き手は食べ物の話が多い。

 それでも仲の良さが垣間見えるところもあり、其れはそっと文字を撫でる。


 何冊目のノートを読んだ頃だろうか。

 微々たる変化はあるものの、ほとんど同じことの繰り返しを綴ったノートは、ある日を境に一変する。

 字体が変わったわけではない。

 しかし、其れが感じ取った変化は晴れやかで、以降、似たような行事も終始書き手は楽しそうだった。

 その後、一時は以前同様、否、以前よりも漫然と日々を過ごした様子もあるものの、明るさを取り戻した書き手は嬉しそうに行事を綴る。ただし、その明るさには少しの陰りと恐れが滲んでいるのを、其れは感じていた。


 目についた日記をあらかた読み終えた其れは、伸びを一つ。

 朝も夜もない、外も内もない空間に目安となるものはない。

 もっと言えば、其れの身体が疲労することもない。

 それでも読了に伴い、襲ってくる眠気はあるもので。

 明日は何を読もうか。

 日付の概念すらない場所で、そんなことを思いながら、其れは眠りにつく。

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