月の音を聞く君と

揺井かごめ

ねえ、先生。

「聞くところによると」

 そう言って、彼女は私を見た。

 否。

 正確には、私の足音を聞いて振り向いた。

「月というのはセミに似ていると思うんだけれど、どうかしら」

「また君は、おかしな話を始めるつもりだね?」

「酷いわ先生、おかしくなんか無いでしょう。私はいつだって真面目なのよ?」

 病室の窓から、霧雨と、じっとり湿った六月の風が吹き込む。カーテンが大きくはためいて、彼女の頬を撫でた。

「セミの季節には、いささか早いだろう。窓を開けたのは誰だい?」

「はぁい」

 彼女は、くすくすと笑って返事をする。私は、苦笑がてらわざとらしく溜息を吐き、ぴしゃりと窓を閉めた。

「身体が冷えるからやめなさいと、何度も言っているつもりだがね?」

「そうだったかしら?」

「とぼけるのはしなさい。君の耳は、すこぶる良いんじゃなかったのかい?」

「ええ、すこぶる良い耳が覚えていないんだから、やっぱり言っていないのよ」

「君という子は……」

 私は、彼女のベッド脇に置いた木製の丸椅子に腰掛ける。

「それで、今日はどんな話だい?」

「もう忘れたの? 先生ったら、スマートなのは靴音だけなのかしら?」

「はいはい、分かったよ。月とセミが似ている話だろう? いちいち鼻につく言い方をしないように。そんなだから、私以外の医者から倦厭けんえんされるんだよ」

「別に気にしないわ。先生さえいてくれれば」

「私が困っているのに?」

「困ってしまえば良いのよ、先生なんて」

「君は悪い子だな」

「わざと悪い子なのよ」

「そうかい」

 私は、彼女の手を握ってやる。彼女はめしいた目元を和らげて、ふふふと笑った。

「で、月とセミがどう似ているんだ。靴音以外はスマートじゃない私に教えてくれるかな?」

「良いわ」

 彼女の小さな人差し指が、ぴんと立つ。

「月は時間によって姿を変えるんでしょう? 昼間の蝉時雨と、夕方のひぐらしのように」

「……それだけかい?」

「いいえ。月というのは凄く美しいんでしょう? 私は、雨上がりのひぐらしの声ほど美しい音を知らないわ」

「ううん……」

 私はなんとも言えずに唸る。人生最上の音がヒグラシの鳴き声、なんて、ちょっと不憫な気さえする。

 不憫と言えば、まあ、この子は最初から不憫だ。

 身寄りも無く、重い病に身をおかされ、私のようなうだつの上がらない医者しか喋り相手が居ない。ほとほと困っていた。不憫で可憐な彼女の相手は、私には荷が勝ちすぎる。

「ちょっとこじつけが過ぎるな。まず、月の形は一日じゃ変わらない。日ごとに、太ったり痩せたりするんだ。大体29.5日かけて、真っ暗な新月が、まん丸な満月になる」

 私は、彼女の掌に指を滑らせる。

「最初は何も無いんだ。その場所に、細い光が現れる」

 三日月、上弦の月、十三夜月、小望月……と、言葉と共に形を描いていく。

「そして、この丸い形が満月だ」

 くるりと同心円を描いた私の指を、彼女の柔らかな手が捕まえた。

「いつも説明ありがとう、先生。でもね、私だって、そんなことは知っているのよ?」

「知っていたのかい」

「ええ」

「知っていて、よりによってセミなのかい?」

「ええ」

「そうか……」

「先生には、難しかったかしら?」

「ああ、靴音以外はスマートじゃない先生には、些か難しかった」

「あら、またイササカ? 先生はイササカが好きね」

「そうかもしれないな」

 私は彼女の頭を緩く撫でた。彼女は心地よさそうに、頭を私の身体に預けた。柔らかな栗色の髪が指の間をすり抜ける。彼女の髪は長かった。うちの病院の床屋はセンスが良い。この子にはロングの方が似合う。

「ねえ、満月はどんな色なの?」

「それも知っているんだろう?」

「知ってるわ。知ってるけど知らないわ」

 生まれつき盲目の彼女は、色を知らない。言葉をいくら教えても、彼女がそれを身体で理解する日は、永遠に来ない。

「ねえ、教えて、先生」

 甘えた声に苦笑する。この子はいつから、私にこんなに懐いたのだったか。


「君の好きな、ひぐらしの声に似た色だよ」



 ねえ、先生。私、本当は知っているのよ。

 先生が私を可哀想な子だと思っていることも。

 先生がいつも、私の欲しい言葉を選んでくれていることも。

 その言葉が、ぜんぜん正しくなんかないことも。

 ――――先生が私の手を握るとき、左手の薬指から、指輪を外していることも。

 ねえ、先生。私だって馬鹿じゃないのよ。先生だって馬鹿じゃないでしょう。馬鹿じゃない先生が、私の気持ちに気付いていることだって、私は知っているのよ。


 ねえ、先生。ヒールの音がスマートな、ハスキーボイスが甘やかな、私の先生。

 きっと誰かの奥さんで、きっと誰かのお母さんで、でも、でもね、先生は私の先生なのよ。


 私は、今日も悪い子で居るわ。

 だから、その間だけは――――先生も、私だけの先生でいてね?

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月の音を聞く君と 揺井かごめ @ushirono_syomen

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